TRPGはなぜ面白いか
概要
TRPGの面白さは、参加者相互間の面白さである(そうでないといけない)。
故に、参加者相互のやりとりを無視したTRPG論は、本質的に一人遊びについてしか語っていない。
ボケとツッコミ
xenothもここ数日、TRPG論などを長々と書いているが、折に触れて参考文献を読み返すと、もっとはっきりわかりやすく書いてあったり、オリジナルと思った部分が完全に焼き直しだったりして、冷や汗が出ることしきりである。
前回の「「楽しませる」というのは、個人の能力ではなく、卓ごとの中で作られる価値観」」というあたりは、GF誌「ゲームデザインのためのタクティクス」第七回の「”カッコイイ”を数値化する」(鈴吹太郎)そのままだったりする(ゲーマーズフィールド6−6掲載)。
考えて見れば、現役のゲームデザイナー達が、自作をどうプレイするかという具体的な文脈で、各ルールや設定の意味を語ってるわけで、これほど参考になるものもない。
そんなこんなで、GF誌をめくっていたわけだが。同号のナイト・ウィザードのサポート記事(「世界はこーして狙われる」遠藤卓司)で大変に参考になる記述を見かけた。
・GMはエンターテイナー。エンターテイナーの仕事はウケを取ること。
・必要なのは適切なツッコミ。ボケはシステムに内包されている。
……なんか、ここ2、3日、言いたいことが全て凝縮されている気がする。
なおこの記事自体は、ナイトウィザードというシステムで、「プレイヤーがキャラメイクしてる時、自己紹介する時、GMは何をすべきか」といった実践的な話であり、以下、TRPG全般の話にしているのは、xenothの独断による拡大解釈である。
拡大解釈の結果、内容がトンチンカンになった箇所があれば、元記事ではなくxenothの責任であることを明記しておく。
ボケとツッコミ……矛盾とアドリブ
どうもTRPGにおける「良いプレイング」に関する論考を読んで感じていた違和感がある。
そうした論ではプレイングに様々な条件を満たして、それらを完璧に網羅するような美しい解答こそが、良いプレイングだといったものだ。高橋氏の「二重のロールプレイ」も、その例である。
で、確かに、そうしたプレイングはある意味で望ましいんだが、実際にTRPGをやってる時に、本当に、そういう方程式を解くような緻密なプレイばっかりやるだろうか?
その方程式の面白さがTRPGのメインなんだろうか?
もちろん、そうしたプレイングもあり、そうした面白さもあるんだが、そればっかり強調されるのは、違和感があった。
この記事を読んで思ったのだが、俺が実際にTRPGをプレイしている時にやっていることは、感覚的に「方程式を解く」よりも「ボケ」ていることのほうが多い。
TRPGをプレイしていて、色々な矛盾やつじつまの合わない部分、ヘンな結果が出ることはよくある。
それらを解釈して、意味と整合性を与えるのも、もちろんTRPGの楽しさだが、それをするためには、まず「ヘンな結果」つまり「ボケ」がないといけない。
また、完璧な整合性を与えるのに失敗しても、別にいいのだ。
「おいおい、なんじゃそりゃ!」というツッコミで卓は回る。
「方程式を解くこと」が面白いのではない。
ボケがあり、それに対するツッコミの一つとして「方程式を解くこと」があるのではないか。そしてツッコミは、「論理的な矛盾の指摘および訂正の正しさ」に価値があるわけではない。
「面白くツッコんで、皆が共感するところ」に価値があるのだ。
ボケはボケ自体に大きな価値があり、ツッコミは正しいことではなく面白いことに価値がある。それがプレイングの目標となる。
「矛盾した条件から方程式を解く」という目標よりも、ボケツッコミのほうがxenothの実感に近い。
ボケとツッコミ……解釈の分担
一般に、ボケとツッコミは、違う人間が行う。
なぜかというと、一人ボケ、一人ツッコミは、滑りやすく難しいというのがあると思う。
「こういうボケがあって、こういう風に矛盾してるけど、こう解決できるんですよー」と一人で、ドヤ顔するやつは、まぁ、ウザい。
実はこれ、TRPGの卓でも同じことが言えるのではないかと思う。
「ボケはシステムに内包されている」という通り、たとえば大切なところでファンブル出すとか、変なとこでクリティカル出すとか、そうした判定の結果をそのまま適用したら、状況が意味不明になったとか、そういうボケがあり、全員でつっこむのが楽しい。
逆に、「このボクのロールプレイ、面白いでしょ! ボクのキャラのこの設定と、あの設定画組み合わさって、このようにエレガントな解釈が行えるのですよ!」というのは、気を付けないと、ものすごーく寒いことになる。
「二重のロールプレイ」的に、美しく調和の取れた設定であっても、それを面白いと感じるのが当人だけである場合、他の人はつまらないし、それでドヤ顔されると、うざい。
そういうのは掛け合いでやるのが望ましい。
でもPCが単独行動の時とか掛け合いできないじゃん、と思うかもしれないが、それは「GMとの掛け合い」と捉えるのがいいだろう。
一人ボケ一人ツッコミは滑りやすいので、なるべく分担したほうがいい。
言ってることが正しいかどうか、ではなくて、それを皆で協力・共有することが大切なのだ。
ボケとツッコミ……肩の力を抜いて
TRPGリプレイにおいて、「磨き抜かれた構成」や「奥の深いキャラクター」に感心させられることがある。そういうセッションに憧れることは多いだろう。
そうした「美しい物語」や「エレガントなロールプレイ」は、TRPGにおいて不要という人もいるが、一つの目標であるとする立場もあるだろう。
ただし、「美しい物語」を生み出したセッションをプレイする人々が、最初から、「エレガントなロールプレイ」を目指してプレイしたか、というと違うのではなかろうか。
「美しい物語を作る」ことを目標にするとして、実際のTRPGのプレイングは、厳密な会議というよりは、ブレインストーミングに近い部分が大きいだろう。
「深く吟味して矛盾のないエレガントな行動を行う」ことを最初から求めていては、いいアイディアもでない。
むしろ「矛盾してて構わないから、面白いことを気軽に言い合う」雰囲気こそが大切なのではないか。
ブレストと同じで、そうした無数のボケ・ツッコミが積み重なる中から、最終的に「美しい物語」につながる、エレガントなプレイングが現れる、というのが私の実感に近い。
そしてもちろん、無理にわざわざ「美しい物語」に囚われる必要もない。
要は、肩の力を抜いて、気軽に遊ぶことが大切なのだ。
「二重のロールプレイ指針」の問題点
以上のような理由で、「二重のロールプレイ」的なプレイ指針は、文字通りに「プレイングの指針、目標」として受け取った場合、プレイヤーを萎縮させる、つまらないセッションに結びつきかねない。
どうして、そうなるのか。
「二重のロールプレイ」は、そうしたロールプレイを行うことによって、面白いセッションをすることが目的だろう。ではなぜ、その通りにやって面白くならないということがありうるのか。
問題なのは、その「面白さ」の基準の中に、「みんなが面白い」というのが入っていないことだ。
「シナリオ目的や戦術性を満たして設定を調和させる」というのは、これは一人遊びでも可能な面白さで、「まわりの人から見てどうか」という視点が全く入っていない。
ある人にとっての「シナリオ目的や戦術性を満たして設定を調和させる」面白さが、他の人にとってそうかどうかは分からない。
また、ある人が脳内でそう思っていたとして、その内容をうまく伝えなければ、他の人はわからない。「どう伝えるか」も重要となる。
プレイングの指針として、一番大切なのは、まず、「自分が楽しむこと」「その楽しさを分かち合うこと」この二つだろう。
だからこそ、雑談やら演技やら脱線やらがTRPGにおいて重要になる。それらは「皆で楽しむ雰囲気を作る」という目的のための、重要な戦術だからだ*1。
故に、それらを単純に排除した「プレイングだけの指針、面白さ」というのは存在し得ない。
まわりとの連携を無視したプレイング指針とは、それはつまり、「一人遊びの面白さ」なのだ*2。