遊びと遊び以上のことについて

要約

遊びに遊び以上の価値を見出す時、本来であれば単なる遊びを否定する必要はない。
「単なる遊び」を否定したがる人は、「単なる遊び」が都合が悪いと感じているのであり、そこには遊びを権威にしようとする意識が働いていると考えられる。

TRPGと遊び

様々な趣味で言われることですが、TRPGでも、「単なる遊びかどうか」という議論が起きます。


たとえばTRPGという趣味の生産性の話題があります。
xenoth個人の話をしますとTRPGを遊ぶことで勉強になったことはたくさんあります。
中世や古代日本とか偏った分野の歴史や風俗に詳しくなりました。
洋ゲーを遊ぶ過程で英語にも詳しくなりました。*1
そこから例えば「TRPGで学ぶ世界史」や「TRPGで学ぶ英語」なんかは考えられないこともありません。


あるいは、競技のように、練習を通して真剣に実力向上を目指す場として考える場合があります。
プロ野球選手や、プロ棋士にとって、野球や将棋は、技能がはっきり要求されるものですし、「楽しむためだけのもの」ではない真剣なものでしょう。また楽しいだけではない練習、修練を必要とすることもあるでしょう。
TRPGの場合、「技量」や「練習」とは何なのかという難しい問題がありますが、個人的に「勉強になった」と感じるセッションはあります。セッションのために時間をかけて準備することもあります。
「真剣さ」と楽しむ態度が必ずしも矛盾するとは思いませんが、感覚論として気楽なセッションもあれば真剣なセッションもあります。
そこから「TRPGにおける技能向上と練習法」や「真剣な態度でTRPGを遊ぶこと」なども考えられます。


さて「TRPGは遊びだよ」という意見があり、xenothも強くそう思うものですが、この意見について、ここで書いたような可能性を無視や否定するのか、という批判があります。


先に書いた通り、xenothは、TRPGがもたらす可能性を否定するものではありません。
その上で、TRPGに遊び以上のものを求めることについて懐疑的なのは、往々にしてそうした態度が、権威主義につながっているからです。

TRPGと権威主義

人間は、基本的に、評価されることが好きです。
TRPGに時間を費やしているなら、TRPGの分野で、すごい、えらいと言われたいものです。
これはTRPG以外の趣味でもそうでしょうし、xenothもそうです。
その権威欲が良い方向に働けば、皆に評価されるべく、面白いセッションをしたり記事を書く、というサイクルが回ります。


ですが、そういう評価が得られなかったり、あるいは、より強い権威がほしくなると、人間は権威の構造を作るようになります。
「TRPGは○○であるべし。故に、○○を実践してる自分はエラい」というわけです。
○○は、自分に都合のいいものが入ります。
歴史が得意な人だったら、「TRPGは歴史を大切にするものであるべし」となるでしょう。
文学が得意な人だったら、「TRPGは文学性を大切にするものであるべし」となるわけです。
海外ゲームが得意な人なら、「海外TRPGこそ本当のTRPG」とかですね。
特定のプレイスタイルが入る時もあるでしょう。主観的な評価でなんとでも言える「人間的成長」や「教育効果」が入ることもあるでしょう。


そうして作った構造で、自分を上において他者を下に置くようになります。
言うまでもなく、こうした枠組みの押し付けは、多くの人を不幸にします。

権威主義者の見分け方

TRPGの可能性を大切にしたいことと、権威付けに利用したい人は、どのように見分ければ良いでしょうか?


それは「単なる遊びとしてのTRPG」を否定しているかどうかで、見分けることができます。


考えればわかりますが「TRPGに遊び以上の可能性があること」は、本来「遊んで楽しいというTRPGの良さ」を否定するものではありません。
実際問題、プロ野球選手は、気楽な草野球を否定したりしないわけです。むしろその逆でしょう。


逆に言うと、「単なる遊びとしてのTRPG」を批判する人は、何か下心があると考えられます。多くの場合、それは先に説明した権威付けのためです。
特定の権威によって自分がエラいと思いたい人であればあるほど、そうでない人はエラくないと思いたくなるわけです。
特定の権威にすがる人は、その権威を無視されるのが耐えられないのです。

「僕だけは違う」とならないように

権威主義者とそうでない人を分けられるような書き方をしましたが、実際問題これは、簡単に分けられるものではありません。


自分が好きな分野で認められたい気持ちは誰にでもあります。
そのことを正当化したい気持ちも誰にでもあります。
その正当化を他人に押し付けてしまうことを、完全になくすことは、ほとんど不可能です。
人間は、わがままな生き物で、完全に公平にはなれません。
xenothは心のどこかで「TRPGやってる自分は、TRPGやってない人よりカシコくてエラい」と思っています。
「あいつは偏った権威主義者だ。俺は違う」というのは、よくある錯覚です。
だからこそ、「好きな分野でいばりたい」という欲求が自分にあることを自覚することが大切となるわけです。


xenothが「趣味以上のTRPG」を語ることに慎重なのは、それが理由です。
「趣味以上」のことを語ることで、自分の感じる権威を他者に押し付けてしまうことになりはしないか?
そう思うので、まず面白さを、気楽に気軽に遊ぶことを強調して、その上で、それ以外の側面もあるよ、くらいの紹介がバランスが良いのではないかと考えています。


もう一点として、たとえば「将棋のプロになりたいんです」という人がいたら、普通は「頑張れ」という前に、「おまえそれ本気か?」と覚悟を問うのではないかと思います。
「楽しめる範囲にしておけ」「人生棒にふる覚悟で、かつ素質がないならやめとけ」というのは真摯なアドバイスでしょう。
「すべての人が将棋のプロを目指して切磋琢磨すべきだ」という意見に至っては、賛成する人は、ごくわずかでしょう。


TRPGにTRPG以上のものを求める時も同じで、そこには犠牲を払う強い覚悟が求められる部分が常にあります。
それは個人で勝手にやるならともかく、不特定多数に勧めるものではありません。
無理に不特定多数に勧めるのなら、そこにも権威主義的な意識が働いていると考えられます。

そんなわけで

TRPGに、趣味に趣味以上の価値を主張する人がいたら、その人が「単なる遊び/趣味」についてどう語っているかを見てみましょう。
批判的であったり、見下していたりしたら、気をつけましょう。
自分自身の言葉や意見も、そうなってないか気をつけましょう。
それこそが趣味を楽しみ、ひいては趣味以上のものにも貢献する方法だと考えます。

*1:自慢できるほどのレベルではありませんが、TRPGやってなかったよりは詳しくなったとは言えると思います。