TRPGは何故パフォーマンスとメンツを重視するか

概要

TRPGは、プレイヤーおよびGMの行える幅が非常に幅広い。
その中で、全員が面白いと思うもの、不快と思わないものを選ぶことは、単純にルールで規定できない。


故に、TRPGにおいては、そのセッションごとに、それぞれの「卓の面白さ」「誰かの不快さ」を避けることを考えなければいけない。


現状の多くのTRPGは、既に、そうした観点からデザインされている。
そこにおいて重要なのは「楽しませる」というのは、個人の能力ではなく、卓ごとの中で作られる価値観だということだ。

拷問問題

ファンタジーTRPGに、「拷問問題」と呼ぶものがあった。
ある程度野蛮なファンタジー世界で、捕虜を取って拷問し、情報を得ることは、シナリオ目的にも戦術的にも正しく、設定的にも調和している。
一方で、たとえそうであっても、TRPGの最中に拷問することを不快に思うプレイヤーはいる。


そんなわけで、拷問を始めるプレイヤーと、それを嫌がるプレイヤーがぶつかって、ゲームがつまらなくなる、といったことが一頃よくあった。

拷問問題の解決法

拷問問題は、「拷問があありうる世界で拷問を嫌うのは我が侭か?」「我が侭でないとするなら、その線引きはどこか?」「“正しい”ロールプレイとは何か?」といった方向に議論が進み、過熱した。
よくある意見としては、たとえば、たとえば、「このファンタジー世界はこういう厳しい世界なのだから、それを受け入れるべきだ」といったものである。
世界設定やロールプレイ指針を手続き的に決定することで、「良いプレイ」「悪いプレイ」を区分けしようとする試みは何度も行われた。


しかしこれには、構造的な問題があった。


まず、拷問問題は、「拷問という行為」の問題以前に、パフォーマンスの問題なのだ。
PCの行動が、PLに嫌われるかどうかは、どういう顔で、どういう風に、どう話すか、また、その場にどういうメンツがいるかが、大いに影響する。
故に、「拷問」という行為自体が良いか悪いかだけ見ていては、この問題は無くならないのだ。


次に、TRPGで、PCができる行動は本当に幅広い。GMが示唆できるシナリオも幅広い。
故に、どういう行為を皆が面白いと感じて、どういう行為を誰かが嫌がるかを、単純にルーリングすることは、ほぼ不可能なのだ。
逆に言えば、どんな制限があっても、その制限の中で、システム目標シナリオ課題戦術性設定調和をクリアしながら、他人を嫌な気持ちにさせることができる、とも言える。


だから、現在、多くのTRPGシステムは、「他人を不快にさせないこと」「皆で楽しむこと」の二つを、他のどんなルールの上に、明白に置くようになった。
「世界設定がこうだから」「こういうシステムだから」「こういうキャラクターだから」他人が嫌がっても,無視する、というのはありえない、と、明白に否定し、「楽しむこと」「楽しませること」というパフォーマンスを最上位に置いたわけだ*1

パフォーマンスのゲームデザイン

TRPGを、「PCという駒を動かして状況を変化させてゆくこと」と考えた場合、「ボクのPCは、助太刀します」という風に宣言することと、「卑怯極まりない、拙者も助太刀するでゴザル!」という風に、セリフを言って演技することの間に本質的な差はない。
一方で、パフォーマンスで考えた場合、前者と後者の間には大きな差がある。演技してセリフを言うのは楽しいし、回りも盛り上がる。あるいは、サムい演技や、気持ち悪い演技で、回りがドンビキする場合もありうる。


TRPGにおいて、楽しみ、楽しませるためには、良いパフォーマンスが重要であり、そのために、良いパフォーマンスを促すシステム、ゲームデザインが望ましいと言えるだろう。

パフォーマンスの一つとしての演技

馬場氏は、TRPGのプレイングをボードゲームの延長として、リソース管理を前提に、リスク/リターンのある選択をすることに置いた。
つまり、「どの手がいいか」を悩みながら選ぶことの面白さを前提と、そうした面白さの提供をゲームデザインに求めた。
そこにおいて演技、なりきりは、善し悪しが定義できないため、「悩んで選択すること」が出来ず、故に、ゲームではなく、ゲームデザインの外であるとした。


岡和田氏も「RPGの場合は「没入」を客観的に判断しうる審級が欠落している」と述べている。
高橋氏も、TRPGにおける演技について、「訓練や評価が困難な要素であり、その巧拙を論じるには長期の視点が必要」と述べ、「optional」であると言っている。
確かに、プレイヤーに、役者のような演劇能力を求めたり、また、演劇の評価をすることは簡単ではない。


では、演劇、なりきりは、TRPGシステムの中で二次的なものなのか? ゲームデザインできないものなのか?
実のところ、そんなことはない。
演技、なりきりを、能力で見るのが筋違いなだけなのだ。

カラオケで盛り上がろう

カラオケを思い浮かべてほしい。カラオケで盛り上がってウケを取るということは、何も声楽的に歌が上手いことではあるまい。
大切なのは、上手いとか下手とかあんまり気にしないで、楽しんで歌うこと。楽しんで聞いてあげることだ。
TRPGでもそうだ。重要なのは、「面白いパフォーマンス」、すなわち「場を盛り上げること」であって、それと「うまい演技」は、全く別なのだ。


カラオケで歌を歌うのが楽しい程度に、演技することは楽しい。別にうまい演技である必要はないし、回りも、歌いやすいように盛り上がりを心がけよう。もちろん、カラオケが苦手な人がいるのと同程度に、演技が苦手な人もいるから、そういう人に強制してはいけない。
TRPGにおける演技というのは、こんなかんじだろう。

一期一会

カラオケにおいては「歌の上手い下手」が絶対的な要素でないことは述べた。
他にも重要な要素として「選曲」というのがあるだろう。
カラオケにおける「いい選曲」というのは、その場にいるメンツによって大きく影響される。
皆が知ってる曲、あるいは知らないでも楽しめる曲、自分が得意な曲、そうした組み合わせの中から、場の空気を読んで、「いい選曲」が決まってゆく。
逆に、そういうメンツを無視して「どの曲が良いか」というのを云々するのは、馬鹿げている。


TRPGも同じだ。
TRPGにおけるあらゆる行動はパフォーマンスの側面を持つ。
そしてパフォーマンスというのは、「上手い下手」「優れてる優れてない」という風には決められない。
カラオケの選曲と同じように、卓一つごとに違った価値観がある、と言っていいだろう。

盛り上がりのゲームデザイン

卓の盛り上がりをゲームデザインするのは可能だし、既にされている。
そこで重要なことの一つは、上に書いたように、「盛り上がり方は、人それぞれ毎回違う」ということである。


それをシステム的にフォローしたければ、例えば卓の中からでてきた「面白さ」をピックアップし、印象づけて、回りに伝わるようにすればいい。


カオスフレアのフレア授受などは、わかりやすい例であろう。
単一の基準で面白さを判定するのではなく、その時々で卓のメンツの誰かが思った「面白い」を、皆に印象づけることで、皆の面白さをすりあわせてゆく、というわけだ。


別にフレアやらのロールプレイ評価システムだけが、パフォーマンスのゲームデザインではない(というか、TRPGのゲームデザインの全部はパフォーマンスにつながるといえる)が。
馬場理論的に、一定のルール、価値観によって組み上げられた面白さ以外でも、ゲームデザインに組み込むことは幾らでもできる、という例だ。


「盛り上がり」をゲームデザインする際は、他にも重要な点は沢山ある。
カラオケのたとえを続けるなら、マイク離さないやつが出ないようにすること、人が歌ってる時はちゃんと聞いてあげること、ダレないように時間管理すること、などが思い浮かぶ。
TRPGで考えるなら、それぞれのPLにシーンがあるようにデザインする、他のPLのシーンでも退屈しにくいようにデザインする、ダレないようにシナリオの時間管理をしやすくし、PLにも今どのへんかわかるようにする、などがあるだろう。

最後に

「演技を楽しむためのゲームデザイン」は、既にTRPGの中に、沢山存在する。
「良いパフォーマンスを作るためのゲームデザイン」もまたしかり。

*1:TRPG以外のボードゲームでも最上位なのは、楽しむこと、楽しませることだろうけれど、それがルール通りに行動することと、おおむね矛盾しないため、わざわざそういう風に書く必要がない場合が多い、といえよう