事前目標優先の例、他

鏡さんからお返事頂きました。
http://www.rpgjapan.com/kagami/2007/12/xenoth.html

事前の目標が事後評価を抑圧する好例は、「セッション成功」のために「反省会」をすべきでない、という意見に見られます。「反省会」で「つまらなかった」などと「ネガティブな意見」が出されると「セッション成功」即ち「皆が楽しむこと」が否定される、という理屈です。反対意見が無ければ満場一致で賛成、ともす。

「意見」がどの意見だか明白にしていただかないと、議論が難しいです。ここではFEARのアフタープレイ関連の話として進めます。


このへんはメソッドの問題だと思います。
例えば、ゲーム後の意見交換を「反省会」と名付けた場合、これはこれで「ネガティブな意見」を出すことを強制することになってしまうわけです。反省会という言葉は、基本、間違ったことを直す、という意味があるので。


だから、うまく意見を引き出しつつ、かつ、無駄にネガティブにならないメソッドとして、各種アフタープレイなどが提案されているかと認識しています。
ゲーム後の意見交換を全く行うな、というデザイナーはいないと思いましたが、どうでしょうか。

そこまで明言しなくとも、他の参加者が「面白かった」と喜んでいる前で「いや、私はつまらなかった」とは言えない者もいます。「場の空気」というヤツで、「皆が楽しむことが大切だ」と連呼することで強化されます。ゲームデザイナーへの信心篤い者は少数派で、多いのはゲームデザイナーの言う通りにしておけば安心だという者でしょう。

他の参加者が「面白かった」と喜んでいる前で「いや、私はつまらなかった」と言いにくいのは、別にゲームデザイナーの指示とは関係ないような。ゲームデザイナーからそうした指示がまったくないゲームでも、「場の空気」で言いにくいことは変わりませんし。

次に、ゲームマスターなどが他の参加者にストーリーを押しつけることについて。その「ストーリー」が背景設定でなく、キャラクターの行為の集大成としてなら、それを「押しつける」のは「管理」下でなければ成立しない、と考えます。「自由」なら、あちらの「あちらが面白いと思う」ことに対して、こちらも「こちらが面白いと思う」ことで応えるのですから。自分が面白いと思うことをする、ということは、自分がするのであって、相手にさせることではありません。吟遊詩人マスターなどはその「自由」を奪おうとするでしょうが。

GMの権限は大きいので、PL、PCの行動は完全に自由にさせても、NPCや設定や判定で一個の方向に強引に導くことは簡単にできますよね。
例:伝説の邪悪獣が現れた。伝説の剣でしか倒せない。伝説の剣を持って使えるのは美形NPCだけ。
この状況で、自分が面白いことをする自由を与えられても、俺はつまらないなぁ、というわけです。

将棋の喩えの件。わざと負ける「自由」は誰にでもあります。その「自由」を認めるか否か、怒るか否かなどは、将棋盤を挟んだ相手の「自由」です。その「自由」を阻むには、誰か(例えば審判)が一手一手を「管理」することです。

理論的にそうする「自由」は存在しますし、「究極的には」そこにいる人間が決めることだと思います。
一方で「常識的」に良いこと、良くないことはあるんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか。


例えば、さっきの「伝説獣vs美形NPC」シナリオは、もちろん、卓の全員が面白いと思う可能性はあるし、その場合は別にいいんですが、「常識的な線で」困ったシナリオではないか、と。
将棋の技と負けるも、同じ。
そういう「常識的な線」を一般に「マナー」と呼ぶのではないでしょうか。
自由も大切ですが、マナーも大切かと思います。

> ルールを守り、デザイナーの指針を熟読し、GMの誘導に従う、
> というのも、それが当人の決断であれば、「管理」ではなくて
> 「自由」ということで良いでしょうか?

その過程および結果について責任を自分で負うなら、ルールやデザイナーやGMに責任を求めないなら、それは「自由」な行為です。例えば、「クソゲー」「ダメGM」などと評してはいけません。私はそう考えます。

了解です。鏡さんの記事の自由が、あたかも、権威を無視することだけが自由であるかのような印象を与える部分があったので、そうでないことの確認ということで。