ゲーム性と自由度

要約

前回の記事では、ゲーム性とされるものを、「自己表現」「自己実現」「共有」の3つの視点から分析した。
ゲーム性と同時によく使われる曖昧な言葉である「自由度」も、「自己表現」「自己実現」「共有」の3点から分析することができる。
この時、それぞれの自由度は、補完する場合もあり、対立する場合もある。

コンピュータの発展と「自由度」

ゲームの自由度という言葉があります。元々は数学の用語と思いますが、ゲームにおいては大変に意味が広がってしまった言葉です。
コンピュータゲームに使われる場合の文脈についてここでは書きますが、初期のコンピュータゲームは、ハードウェアの制限(メモリやグラフィック、計算速度の制約、価格)から、できることが本当に少なかったわけです。
テーブルテニスとか見れば、わかりますね。
http://www.simondelliott.com/blog/2009/01/pong-is-more-than-just-a-game-its-a-way-of-life/
一方で、コンピュータのハードウェアは、めざましい進化を遂げ、それによってゲームの表現の幅も、どんどん広がってゆきました。
初期においては、そうして表現が広がること自体が、ゲーマーにとっての喜びでした。
昨日できない表現が、今日、できるようになった。
コンピュータRPGなら、シナリオが長くなった、マップが大きくなった、新システムがついた。そのように、新しいシステムやイベントが増えれば増えるほど、すばらしくなる、という素朴な感慨がそこにあったわけです。


とはいえ考えればわかる通り、闇雲にシステムを増やせば増やすほど面白くなるかというと、そんなことはありません。
何のために増やすか、あるいは逆にどこを絞るか、といった発想が面白いゲームを作るのに必要な考えであることは言うまでもありません*1


表現の幅に悩まされていた頃は、「自由度」という言葉が、ゲームの良さそのものの印象と大きく結びついてた時代があった、といえるでしょう。
今でも、たとえばWiiが新しいゲーム体験を作ったり、キネクトで様々な遊び方が作られつつある局面に関しては、「新しい自由度を作ったこと」が賞賛されます。
逆に確立したジャンルであるコンピュータRPGやFPSなんかで、「新しいシステム」というだけで意味があるかはわからない。単なる蛇足や「わかっててやらなかったこと」かもしれない。

自由度と目的

要するに、自由であること、より自由であること、それ自体が、いいか悪いかは一概には言えないわけです。ここで重要なのは、「何のための自由度か」「自由度を増した結果、どうなったか」です。
「自由度を増すことで、このように面白くなった」というのが、良い自由度でしょう。
「自由度を増した結果、つまらなくなった、あるいは製作コストだけ上がった」というのは、悪い例でしょう。
つまり、「自由度」は、「ゲームの面白さ」を作るための手段、ツールであると言えるわけです。
「ゲームの面白さ」には様々な種類があるので、それ次第で様々な「自由度」があることになります。


ゲームの面白さの一考察 - xenothの日記
「ゲームの面白さ」については、前回、「自己表現」「自己実現」「共有」の3つに分類しました*2
今回は、この3つに沿った自由度を考えてみます。

自己実現の自由度

自己実現とは何かを実現することの達成感、楽しさです。
自己実現の自由度とは、何かを実現するまでの手段が色々ある、ということです。
ゲーム内で「A」を行うために、様々な方法があるということですね。


たとえば、コンピュータRPGでラスボスを倒すという大目的があるとして、ラスボスに勝てる戦闘力を、どのように育成するのか、という時に自由度が存在します。
オーソドックスなパーティ構成でゆくのか偏らせるのか、ダメージメインでいくのか、状態異常攻撃を使ってゆくのか、攻撃メインか、防御重視か。
ウィザードリィ』を強く意識したDSのマッピング型RPG、『世界樹の迷宮』シリーズでは、キャラクターの転職、再育成が可能なシステムなので、ラスボスや裏ボスを倒す際は、じっくりパーティ構成から考えることができ、職業やスキルの組み合わせで様々な「必勝パターン」が存在しました。
ソードマン(剣士)メインでいくのか、ブシドー(侍)メインでゆくのか。ブシドーならスキルは、上段からのツバメ返しか、居合からの抜刀氷雪か。それらをサポートするには、どんなスキルと組み合わせがあるか、等々です。
これなどは「自由度が高い」例でしょう。


さて、上記の例では、パーティ構成は自由ですが、敵を倒した結果には影響ありません。ラスボスを倒せばエンディングというわけです。
一方、クリアの結果に多数の手段が設定されている場合があります。
世界樹の迷宮3』では、プレイヤーは二つの勢力のどちらにつくかが選択として示され、それによってエンディングも変化します。これも自由度の内ですね。
まぁ世界樹の迷宮シリーズは基本的にダンジョンクリア型のRPGであり、そこにマルチエンドがついただけで「自由度が高い」と言われる時代でもないと思いますが*3、そうした方向性を突き詰めたタイプのRPGもあります。
たとえば、世紀末救世主箱庭RPGである『Fallout3』では、様々な局面で、善人プレイと悪人プレイがあります。
たとえば「誘拐された子供を奴隷商人から助ける」という依頼があり、この時プレイヤーは、
・依頼を受けて、奴隷商人の街に潜入し、子供たちをこっそり救出する
・依頼を受けて、奴隷商人の街に殴りこみ、おもむろに全員ぶっ殺してから子供たちを救出する
・依頼を受けないで先に進む
・むしろ自分が奴隷商人になって、奴隷売買する
といった選択が可能となります。
善人プレイをしていれば最終的に善人的なエンドが待っていますし、悪人プレイにもその先があります。
これも自由度が高いと言われる例でしょう。


上記二つは、ゲームシステム側で準備された目標のクリア手段およびクリア結果によるバリエーションですが、目的を、プレイヤーが自ら作り出すものもあります。
いわゆる「縛りプレイ」なんかが、その例ですね。
「低レベルクリア」とか「特定の技能やクラスなしでクリア」といった目的を自ら設定し、それをクリアする方法を模索する。
そこまでゆかなくても、プレイで、様々な「ロマン」を実現する場合がある。
たとえば、一部のドラクエ女神転生などの、モンスターを仲間にできる系のゲームで、自分の好きなモンスターを強く育てて最後まで使う、とか、特定の好きな組み合わせでクリアするとか、といったタイプのプレイです。
このように「プレイヤーが自分で目的を作り出す」ことも「自由度」として言われることがあります。
これについてはプレイヤーの創意工夫も関わってくるので、ゲームシステムだけで語れるものではないですが、色々なプレイを許容する「懐の広さ」として見ることはできるでしょう。


自己実現の自由度は、目標を達成するまでの手段および結果にバリエーションがあることの楽しさです。
目標は、ゲーム的に存在している場合もあれば、プレイヤーが自ら作り出すこともあり、多くの場合は、両者のコラボであるといえるでしょう。

自己表現の自由

ゲームをプレイすることは、単に目的を達成するだけでなく、同時に「自分らしさ」の表現でもあります。
自己実現のところでも書いた通り、「ピクシーと一緒にラスボスを倒すんだ!」とか、そういう心意気は、自己表現でもあります。


もう少し考えると、自己表現とは、「自分なりの物語」をゲームに託すことである、とも言えるでしょう。


コンピュータゲームをプレイする人間は、無数の「自分なりの物語」を感じます。
自己表現における「自由度が高い」とは、プレイヤーが「自分なりの物語」を作りやすいこと、と言い換えることもできるでしょう。


たとえば、『アイドルマスター』というゲームがあります*4
このゲームは、アイドルのプロデューサーとなり、個性豊かなアイドルを3人まで選んでユニットとし、育成していくゲームです。
レッスンを通じてアイドルの能力を上げ、コミュニケーションで思い出を作りながら、オーディションに応募し、それによってライブを行い、その繰り返しで進めてゆくゲームです。
レッスンはミニゲーム、コミュニケーションは軽い会話選択で、オーディション部分が、(ゲーム攻略的には)重点となります。


ゲーム中、コミュニケーションを中心として様々なところでアイドルとの会話が入り、そこでうまく会話すると「思い出」がたまり、その「思い出」を使ってオーディションを有利にすることができます。


アイドルマスター』のストーリーは、小さなイベントの連鎖で出来ています。小さなイベントはたくさんあり、様々にキャラを立てますが、一方で独立イベントであるため、ノベルゲームタイプのような、濃密で固定したストーリーにはなりません。キャラクターごとにエンディングもあるのですが、比較的、さっぱりしたものです。


アイドルとプロデューサー(プレイヤー)の信頼関係を築きつつ、それが仕事上、能力上のものなのか、恋愛関係になるのか、二人はその後、どうするのか、といった核心部分は、直接は描かず、プレイヤーの想像に任されています。


このゲームの場合、アイドルとのストーリーを作るのは、プレイヤーなのです。
様々な小イベントを糧に、プレイヤーは一人ひとりが、アイドルとの唯一無二の物語を築きあげてゆきます。
これが『アイドルマスター』における「自己表現」の自由度といえるでしょう。


有名RPGである『ドラゴンクエスト』は、主人公は具体的なセリフを明示的にはしゃべらず、「はい/いいえ」の選択でゲームを進め、他のキャラクターのリアクションでセリフが表現されています。
これについては感情移入を促進するためでもあり、また「自己表現」の自由度と関わっているでしょう。
主人公が具体的にどんな性格で、どうしゃべっているかは、プレイヤーの自由に決めていいというわけです。


このように、「自己表現」の自由度とは、プレイヤーが想像する余地を作ることに重点が置かれています。
逆に言うと、「どこを設定して、どこを設定しないか」が重要となります。
「自己達成の自由度」の場合、自由にできる範囲をつくりこんでゆく必要がありますが、「自己表現の自由度」の場合、意図的に設定に空白を作る必要があるわけです。

ウィザードリィの場合

以上の分析を、古典的なコンピュータRPGである『ウィザードリィ』について当てはめてみます。
ウィザードリィ』は、(現在の水準からすると)攻略における自由度はさほど高くなく、ストーリー性もあまりありません。キャラクター性もあまり書きこまれていません。
一方で、『ウィザードリィ』に自由度を感じる、とする感想が多くあります。
これには3つの理由があると思います。
一つには『ウィザードリィ』のゲームシステムが、発売当時においては画期的であり攻略性が高かったこと(オフィシャルの用意した目標の自己達成の自由度)があります。
もう一つは、当時コンピュータRPGが少なかったので、みんなものすごい勢いでやりこみまくったこと(プレイヤーが作った目標の自己達成の自由度)です。
三つ目には、キャラクターがしゃべるようなイベントがなかったため、みんな自分のキャラクターに好きに思い入れ、自分なりの物語を描くことが可能だったこと(自己表現の自由度)です。

共有の自由度

ゲームの面白さについて、「感想を共有できる快感」「皆で同じことについて考えている瞬間の快感」という点で、分析を行いました。
これについても、「自由度」を考えることができます*5


共有の自由度は、感想を交換できる方法の自由度と、感想自体の自由度の二つに分かれると考えられます。


感想を交換する方法は、様々です。
友達と話すが一般的でしょう。またネット時代の現代では、メールからウェブページからSNSからツイッター、ニコ動、Pixivに至る様々なインフラがあります。ネット以外では、同人誌即売会も重要なインフラです。
これらのインフラは、感想を交換する方法の自由度と密接な関係があります。
共有がゲームの面白さである以上、「ニコ動があるおかげで面白いゲーム」(換言すればニコ動がなかったら、つまらなかったゲーム)もある、と言うように、インフラによるゲーム本体への影響も研究できると思います。


もうひとつは、「感想自体の自由度」です。
感想には様々なものがありますが、ここでは二次創作も、感想の内とします。面白いゲームをプレイし、それに触発して自分なりに二次創作を作り、それを他の人に見てもらうことも、ゲームの面白さ、可能性の内だと考える立場です。


二次創作が共有されるためには、様々な要素があります。

  • 見てくれる人がいること

素晴らしい二次創作作品でも、元の作品を誰も知らなかったり、時期はずれだったりすると、なかなか受け入れられにくいものです。
元作品に興味をもつファンが現在進行形でいることが、多くの場合重要です。
これは共有されにくい、という話であって、良い悪いではありません。
すごく昔のゲームとかアニメとかの同人誌を敢えて作った愛ある作品なんかは、同人の醍醐味の一つで、xenothも大好きです。

  • 共有基盤があること

二次創作は、元作品に様々なアレンジをかけるわけですが、アレンジが行き過ぎると、共有されにくくなります。
これも、いい悪いの問題ではありません。個人的にオリジナルの原型とどめていないタイプの二次創作とか結構好きですが、そうした作品が共有「されにくい」ことは確かでしょう。
これは原作とも関連します。
ドラクエシリーズの主人公にセリフや性格が薄いことは先ほど書きました。あまり薄すぎると、それを二次創作する時に共通点がなさ過ぎて、創作しにくいという問題があります。
「みんなの知っているアイツ」が出ているお話だから「共有」されるのであって、完全に「ぼくの考えたお話」になってしまうと、二次創作的な共有からはずれてしまうわけです。


先の『アイドルマスター』も、プレイヤーキャラクターである「プロデューサー」の絵は、ゲーム中、表示されず、設定もありません。そのため、二次創作、コミカライズでプロデューサーのキャラを描くことには様々な反発があります。
アルファベットのPの字を頭にして匿名的に表現するパターンとかが一般的ですが、この手はシリアスだと使いづらいですね。*6


要するに「自己表現の自由度」は、場合によっては、「共有」と矛盾する、というわけです。

  • 面白いこと

共通する要素があればあるほど共有はしやすいわけですが、一方で、没個性化もしやすいです。
目立つためには独創性も必要ですが、独創性がすぎると共有されにくい。
この二つを両立させるために重要なのが記号です。


よく萌え記号等と言われるもの、すなわちキャラクターの特徴的な外見や口癖、誇張された癖(小銭が好きだとか、大食いだとか、すぐ寝るとか)は、共有の重要な基盤になります。


元々はウェブで発表され、電撃マ王での連載作品になった『ぷちます! -PETIT iDOLM@STER-』*7は、「ディフォルメ化されたアイドル(ぷち)が、アイドルと一緒に生活する」という、文字で端的に説明しようとすると、かなり奇妙で独創的な設定ながら、キャラクターの基本的な要素を抑えていることで(漫画自体が素晴らしいせいもあり)、大きく共有されています。
変な例にあげましたが、「ぷちます!」自体は、一目見て面白くわかりやすい名作なので、アイマスファンには(今更xenothが勧めるまでもないかもしれませんが)大変におすすめです。くっく鳴くちひゃーが大変に可愛らしいのです。


萌え記号は、時折、没個性や商業主義の権化みたいな言われ方をする時がありますが、二次創作においては、そうした記号を守ることで、逆に創作の自由の幅が広がるわけです。

まとめ

自由度という言葉は、「自由度によって達成される面白さ」に合わせて、分析することができます。
自己実現のための自由度」と「自己表現のための自由度」、「共有のための自由度」は別の尺度なので、「自由度が高い」という言葉だけでは、様々な行き違いが生じます。
また、自己実現の自由度を上げるための作り込みが自己表現の時の障害になったり、自己表現の自由度のために用意した設定の空白が、共有の自由度の際の障害になることもあります。
もちろん、それら3種を統合することは十分に可能であり、それぞれの面白さを達成するための自由度を、どう干渉させないか、どう相乗させるかが、ゲームデザインにおいては重要となるでしょう。

*1:というか本当にそんなアホなこと考えてた人がいたのかと思うかもしれませんが、表現の幅が死ぬほど限られていたファミコンやそれ以前のゲーム機を体験した世代からすると、制限が一つ消えて、新しいことが一つできることが、素朴にうれしかったのです

*2:なお、この3つの分類は完全でもなければ網羅的でもありません。他にも色々な視点、分け方があり、取りこぼした部分も様々だと思います

*3:その昔、『真・女神転生』とかで初期にマルチエンドRPGに触れた人にとっては衝撃的だったのです。

*4:正式名称、『THE IDOLM@STER』。アーケード及びXbox360版を前提としています。

*5:「共有の自由度」というのは、よくあるゲーム論の自由度談義ではあまり見かけない気がするので、ピンとこないかもしれません。その場合、xenothなりの拡張定義ということで、お聞きいただければと思います。

*6:http://www.occn.zaq.ne.jp/kusare/ http://www.occn.zaq.ne.jp/kusare/img/4koma/idol_11.jpg

*7:明音。 http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%98%8E%E9%9F%B3