TRPGとオリジナリティと二次創作

準創造とは

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 個人的には、D&Dを除いてTRPGでオリジナリティがあるとかいうのは絵空事でしかないと思っていて、漫画やアニメやゲームや何やかやではパクリし放題なこの時勢に、さらにもっと元ネタを多ジャンルから盗みまくってるTRPGにオリジナリティのかけらすらもあるわけないじゃん(笑)いちいち目くじら立てるのはあれか、ネタか?(笑)

「オリジナリティ」というのが何か単独で全く新しいことを作ることである、とすると、この世の中に「オリジナリティ」というものを見いだすのは極めて困難になります。


紙魚砂さんご指摘のD&Dは「指輪物語」等を下敷きにしていますし、「指輪物語」だって、「ニーベルンゲンの指輪」や「ベーオウルフ」と言ったものを下敷きにしています。


さて架空世界の創造については、「指輪物語」のトールキンが大家であり、彼に創作のオリジナリティがないと言い出したら、この世の何にオリジナリティがあるんじゃろ? というのは、たいていの方に納得いただけると思いますが、そのトールキンは、自らの創作を「準創造」と表現しています。


創作とは、絵空事の弄びではない創造であり一方、かつ、(トールキンはクリスチャンでもあったので)神の行った宇宙の創造の模倣である、という意味です。


クリスチャンでない我々は、「神の宇宙創造の模倣」という部分を「現実の世界から学ぶ」と言い替えてもいいかもしれません*1


TRPGに限らず、あらゆる作品において、源流はあります。
源流があること自体は何も恥ずべきことではありません。
逆に、源流があるという一点をもって、「パクり」という言葉で貶める言い方をするのは、自己卑下なのか非難なのかわかりませんが、どちらにせよ、あまり、綺麗ではありませんね。
私は、そういう言葉は使わないほうが良いと思います。


さて、TRPGにおける紙魚砂さんの言うところの「パクり」ですが、これはシステム部分と、設定・再現等のモチーフ部分に分かれます。

システムの継承

>「デウス・エクス・マキナはパクリでしょ(笑)」
シナリオクラフトの「デウス・エクス・マキナ」のルールは、先行する様々なシステムを参考にしているでしょう。というよりも、デザイナーが何かをデザインする時、先行システムを参考にしなかったら、そちらのほうが問題でしょう。


TRPGにおいて、たとえば、「ヒットポイント」や「命中判定」というシステムを否定して、毎回、新しいシステムを作ることには意味がない。


あえて、それを「パクり」と言いたいのであれば、「ヒットポイントをルールに入れること」に比べて、どのような大きな問題があるのかを示す必要があると思います。


もちろん、「全てのTRPGはD&Dのパクり」といった意味において、「デウス・エクス・マキナはパクり」であるというならそれはその通りですし、論理は一貫しますが、中身がないし、また、言葉遣いとして、無駄に挑発している印象を与えます。

準創造とTRPG

さて、一方のモチーフの「パクり」です。どっかで見たアニメや漫画を意識してるようなネタがTRPG作品中に入っている場合。なぜ、それらが入るのかはTRPGというツールの目的を考えてゆけばわかりやすいと思います。


TRPGをする動機の一つとして、創作、創造の欲求というのは大きいと思います。新しい物語を作りたい、という気持ちです。


創作の原点とは何か、というと、模倣である、と、よく言われます。
「あれすごい!」「あれかっこいい!」と思った時、「俺もやってみよう」というのが、まず、創作の第一歩である、と。
トールキンは、神の天地創造にその根源を見いだしました。
宇宙があり、地球があり、人がいて、その人がなしたことの中にも、神の創造が木霊している。
逆に、身近な漫画やアニメを見て、「これはすごい」というのも、どんどん元を辿ってゆけば、人類、地球、宇宙への畏敬にも通じる。


まぁそこまで話を広げなくてもいいんですが、「何かを真似する」というのは、創造の第一歩であり、第一歩であることを卑下する必要は全く無い。


思えば、D&Dも、「コナンかっこいい!」「指輪かっこいい!」と思った人の「俺もやってみよう」で満ちていました。
もちろん、その「かっこよさ」は、システム自体の提供する世界観等でもいい。
一方で、「○○を見てかっこよかった!」という人の「俺もやってみよう」を援護するシステムがあってもよい。
スーパーヒーロータイムを見て、TRPGをしたくなった。そんな時にぴったりのシステムというのがあると嬉しい。
TRPGをツールであると捉えるのならば、どちらが良い悪いという話では、ないでしょう。


TRPGのセッションで行う創造は、まず、そうした第一歩であって、そうした第一歩を「○○のパクり」と言ってしまうのは、無思慮であると思います。


じゃぁ、なんで、第一歩なのか、小説や漫画に負けるのか、という話がでてきますが、なんというか、それは時間と手間の問題です。


かのトールキンは、中つ国を、何十年もかけて、その文化や伝説、言語に至るまで精緻に作り込みました。本棚で普通に売られているラノベや漫画にせよ、一冊にかけられている努力は、プロの人間の多大なる努力と集中によって作られています。


TRPGのセッションは、数時間程度。シナリオなどの準備を入れても、通常、数日です。
この短い期間で、通常の漫画や小説と同じだけの自律した世界観を描くことは、まぁ、かなり難しいでしょう。
ですから通常のセッションは、「第一歩」であることが多い*2


もちろん、これは、二歩目、三歩目を踏み出しちゃいかん、ということではありません。
TRPGの進化の方向性として、小説や漫画に匹敵し、それらを越える世界観をプレイできる、というのは個人的には見てみたいです。


そこまでゆかずとも、キャンペーンを遊べばいい。
特定のキャラを強く意識した(もうそれこそパクったといって差し支えないような)キャラを作ってTRPGをしたこともあるんですが、やってみると真似って難しいんですよね。
どう頑張っても、そのキャラそっくりに振る舞うというのは、かなり大変で、プレイすればするほど、地というか自分らしさが混ざってくる。


要は「あれかっこいい。真似したい」だったのが、真似している内に、自分のやりたいこと、やりたくないこと、自分がやろうとして出来ないこと、が、見え始めてくるわけです。
これが、創作の第二歩です。そこ自体はまだオリジナルと言えるかはわかりませんが、オリジナルを目指す旅が始まったわけです。

模倣から創作へ、準創造へ

とりとめのない話になりましたが、ちょっと纏めてみます。


よくある「オリジナリティの高さ」を基準にする話において、「パクり」が劣ったものとして扱われますが、「模倣」というのは創造の発展段階の一つです。


完成品として売っているものに関して、「発展段階が途中では困るよ!」というのはありえますが、プレイヤーが行うTRPGのセッションそれ自体が、「完成品」である必要はない。


TRPGを創作補助ツールとして捉え、最初は素人のTRPGプレイヤーが創作を行ってゆく仮定を考えた場合、「模倣の援助」は大切な機能となる。


ということです*3

*1:準創造とは何か、トールキンにとっての創作とは何か、というのは、大きな問題で、このへんの要約は、専門の人が見たら頭抱えそうないい加減なものですので、興味がある方は、「妖精物語の国へ」他をどうぞ

*2:そして小説的な物語性をセッション中に取り込むという面では、日本のTRPGは近年大きく進歩しています。キャラクター作成とパーティ調整において、動機や内面を作り込み、ハンドアウトを準備することで、ダイナミックな物語を1セッションで遊べるようになりました。もちろん、それだけが進化の方向ではないですが、昔だったら、そこを目指しても、「一歩」では行けなかったわけです

*3:別に、あらゆるTRPGセッションを、創造への発展段階と見なす必要はありません。誰もがプロを目指すべきだ、みたいな話になっちゃいます。ただ創作が好きで、創作的なセッションをやりたい人の場合なら、そういう風にも遊べるよ、というだけです