ゲームの面白さの一考察

要約

ゲームの面白さは、当然ながら、面白がる人間の心の中にあるもので、それは心理学的なものである。
ルール・システムの数学的分析は重要だが、それは心理学的な面白さを前提にしなければ意味が無い。
心理学的な面白さを考えるキーワードとして、「自己表現」と「自己実現」と「共有」があり、三者は「承認欲求」の側面として理解できる。


ゲームの成立要件のうち「自己実現」に属する「ルールの中での目標達成」が重視される傾向があるが、「自己表現」と「共有」も重要である。
また様々なゲームの成立要件を「自己表現」「自己実現」「共有」を達成するツールとして理解することができる。

ゲーム理論

ゲーム理論という数学の理論があります。
これは経済や戦争などにおいて、「各人の選択肢が、各人に影響する場合、どのような戦術が最も合理的か」ということに関する考察から生まれた理論です。
たとえば経済なら、株価が高いときに株を売れば、大きな利益が入る。
それだけなら高いときに売ればいいだけですが、一方で、皆が株を売れば株価自体が下がるので、高くなるのを待ってると値崩れする。じゃぁそのちょっと前に売ればいいわけだけど、その「ちょっと前」っていつよ、といった具合です。
こんな風に互いの選択自体が互いの利益に関わるような複雑な状況において、どのような選択が合理的か(一番利益が上がるか)というところから始まった理論です。


ゲーム理論から、様々なゲームの「必勝法」が生まれ、一方で「囚人のジレンマ」を始めとする、様々な「単純な必勝法がない」ゲームについての考察が深まりました。


たとえば単純な必勝法があってそれを実現できるゲーム*1は、ボードゲームとしては、それだけやっていればよく、退屈になりがちなので*2ボードゲームの設計には、ゲーム理論が大きく参考になります。


ただし、ここで大切なのは、ゲーム理論は、利益を最適化するための理論であり、元々は心理学の、ゲームの面白さの研究ではない、ということです*3


ゲーム理論ボードゲームを解析する場合、「合理的な戦術」や「合理的な戦術の限界」、「ゲームバランス」等々があるかどうかは知ることができます。
一方で、そのゲームが面白いかというのは、また別の問題です。
人間がゲームを遊んでどういう時に魅力を感じるか、というのは「どうすれば勝つか」とは当然、違う評価なわけです。

自己表現

では「ゲームの面白さ」とは何か、という点ですが、もちろん様々なものがある上で、xenothは、まず「自己表現」を推したいと思います。


端的に言えば「かっこいい自分」*4を表現できるか、です。
「かっこいい自分」の表現で、真っ先に思いつくのは、当然、TRPGですね。
自分の分身となる、自分がやりたいキャラクターを作り出し、それを活躍させることを楽しむわけです。


そのようにTRPGに自己表現があるのは当たり前ですが、これは実はTRPGだけじゃなくて多くのゲームに共通する要素ではないかと思います。


たとえば、デッキ構築型のトレーディングカードゲーム
ファンデッキと呼ばれる、勝敗よりも「勝ち方」「魅せ方」を追求したデッキでプレイするのも大きな楽しみとして認められています。
デッキ構築というのは、単に勝率を上げるためのものではなく、「自分の理想の勝ち方、自分の思うカッコイイコンボ」を表現するためのものであり、TRPGのロールの楽しさにも通じるものがある*5
デッキ構築が勝敗のツールでないことはファンデッキを見ればわかる上で、ガチのデッキだって、もちろん自己表現のツールの側面があります。
カードを見て、いろいろなコンボを考えて、様々なかっこいい勝ちパターンを考えて、それを目指す。
これこそは自己表現の面白さです。


ボードゲームなら『カタンの開拓者』。
プレイヤーは、勝利条件を満たすために戦う一方で、「自分好みの村」を創り上げてゆく側面もあります。
そして他者のプレイヤーとのやりとりや、様々な乱数の中で、結果的に出来上がった自分の村を見て、おお発展したな、と思う。これも自己表現です。


格闘ゲームなんかわかりやすいですね。好きなキャラを選び、そのキャラらしく(あるいは自分らしく)勝つことを楽しむ側面は大きい。
勝つために有利なキャラを選んでもいいけど、少なくとも「それだけ」が面白さではない。


そういう風に見るなら、囲碁だって将棋だってそうですね。
じわじわと重厚に攻めるか、ひらひらとかろやかに攻めるか、防御重視か攻撃重視か。あるいは「こんな盤面は美しい。美しい盤面を描きたい」というものもあるでしょう。
指し手は、勝つためにプレイスタイルを選び極めようとしますが、それは同時に、自己表現の場としても成立しているわけです。


このように考えた場合、多くのゲームでは、「自己表現」が重要な要素となっています。
ゲームの表現力は、単に勝つための手段、選択肢ではなく(あるいはそうであると同時に)、プレイヤーが自己表現をする幅ともなっています。

自己実現

ゲームの面白さとしては、もうひとつ「自己実現」の側面があります。
何かを実現させることの達成感です。端的にはゲームに勝つことなどがありますが、それにとどまりません。


TRPGなら敵を倒す、やりたいロールをやりきる。TCGでやりたいコンボをうまく決める等々があります。
ボードゲームをプレイする中で、たとえば、「華麗に勝利」は、もちろん達成感がありますが、「俺ルールのサブ勝利条件」を設定してる人も多いでしょう。
どん底から一発逆転の余地を捻出し、皆を驚かせて……玉砕!」というのも、それはそれで達成感があるものです。「場を沸かせる」という自己実現ですね。
逆に、何の波乱もなく圧勝しても、つまらない、自己実現を感じ無いということもあるでしょう。
つまりは様々な自己実現の中に「ゲームの目標」が含まれるといえる。あるいは全体的な「ゲームの目標」をひとつ用意することで、様々なサブ目標が生まれるとも言えます。


明確な「ゲームの目標」がなくても、自己実現はありえます。
エンディングのない箱庭ゲーム型のコンピューターRPGとかでも、自分で目標を考えて、それを満たす、といった遊び方はできます。


例からわかるように「自己表現」とはほぼ表裏一体の概念で、自己表現が「スタイル・過程」に比重をおいたものなら、自己実現は「結果」に比重を置いたものですね。
「かっこいい自分」の表現は、実際に「かっこいいことを達成したこと」とは切り離せないというわけです。

共有

もう一つあげられるのが「共有」の要素です。
これは、自分の考えていることが相手と「共有」されることを意味します*6


これもまたTRPGでは顕著ですね。
プレイヤーとゲームマスターは協力して、ゲームの中の仮想世界という「同じ風景」を「共有」する。
「皆で同じ風景を観ている」と感じること、それ自体に楽しさがある。


そして、これも自己表現と同じく、TRPGだけのものではありません。ボードゲームを遊ぶ時は、(願わくば)全員がゲームに集中します。皆が、その時、プレイしているゲームのことを一緒に考えます。


当たり前かもしれませんが、現実に生きていて、案外そういうことって少ない。同じ仕事をしていてさえ、考えることが違ったり、上の空で聞いたり離してたりしています(笑)
そもそも現実というのは複雑すぎて考えることが色々ある。だからなかなか「同じこと」を考えるには至らない。


それがゲームという盤面に状況を限定することで、皆で一緒に「次の一手」について考えて興奮する。これというのは結構レアで重要なことだと思うのです。


互いの手を読み合う駆け引きが楽しいのは、複雑な戦術思考をフル稼働させる知的な楽しみがあるのはもちろんです。
そしてそれと同時に「私があなたのことを真剣に考えている今、あなたも真剣に私のことを考えている」という確信が、快感であるという側面もあります*7


このように考えた場合、多くのゲームでは「共有」を大事にするといえるでしょう。

承認欲求

上記の「自己表現」と「自己実現」、「共有」は、心理学的に言えば*8、承認欲求の両側面です。


「こうありたい自分」を思い描き、それを自分で認めることが「自己表現」です。
その「こうありたい自分」として行動し、具体的に何かを達成することが「自己実現」です。
自分なりにすごいことをやったつもりでも、誰からも省みられないと寂しいものです。
そうした自分自身や自身の行いを、周りに認めてもらうこと。それが「共有」です。


これらは人間が、社会生活を営む上で、重要なことであり、その達成には満足が伴います。


ゲームの仲間というひとつの社会の中で、それを実現するのがゲームの楽しみの大いなる部分であるというわけです。


あまりに基本的過ぎて、意識されないかもしれませんが、自分を認め、他人を認める気持ちがあってはじめて、多人数ゲームの面白さが花開くといえるでしょう。

一人用ゲームとコミュニケーション

ここまでは、ゲームといいつつおおざっぱに多人数ゲームを前提として話していました。
じゃぁ一人用ゲームは、どうなのかという話になります。


たとえばコンピュータRPG等、育成要素のあるゲームには、「自己表現」があると言えます。アバター作成なんかもそうですね。アクションゲーム等も、「華麗に弾幕をくぐる俺」的な自己表現がある。ゲームを頑張って攻略し、エンディングを見たりハイスコアを出したりするのは「自己実現」です。


さてひとりでゲームを遊んで、完全にそこで満足して終わる人は少ないでしょう。
同じゲームを遊んだ人と話して、感想を交換しあう。
そこには「共有」の楽しみがあります*9
そうやって人と話す中で、「どんなゲームを遊んだか」「どんなゲームを面白いというか」は、趣味を通じて自分を語るという「自己表現」でもあります。


ニコ動のプレイ動画なんかは、そうしたプロセスをネット化した例ですね。
華麗に、あるいは、なんどもつまづいてもへこたれずプレイすることは「自己実現」であり、それを動画に編集したり、実況コメントをつけたりすることは「自己表現」でもある。
そして、それを共有サイトに上げることで、見てくれる人とコメントによって感想を「共有」する。


一人用ゲームも、そうした手段を経て、多人数参加のゲームとなるわけです。

ゲーム性なるもの

「共有」と「自己実現」、「自己表現」に基づいて、ゲームの面白さを整理しました。
この理屈ではゲーム性の元を「社会的な自己実現」においているわけで、逆に言うと、この世のあらゆることはゲームとして見ることができます。


別にゲームに限らず、何かについてブログを書いたりツイッターでつぶやいて読者を集めたりやりとりしたりするのも自己表現であり自己実現であり共有です。
学校のテストでいい点数取るのも、恋愛や結婚や出世も自己表現、自己実現と共有であり、まぁ人生、自己表現、自己実現と共有ですね。


個人的には「人生すなわちゲーム」で別に違和感はないのですが、ゲームの定義としては拡散しすぎたかもしれません。


ここで言いたいことは、ゲームの定義や分類ではなく、ひとつの視点です。


面白いゲームに出会った時、その面白さを整理する方法として、「このゲームでは、どんな自己表現の幅があるか」「どんな自己実現が達成されるか」「どんな共有があるか」「それらをスムーズに達成するために、どんなシステムがあるか」、そう考えて見ることは、わりと有益で重要なのではないかと思います。


同時に、一部のボードゲームを前提にした理論が、ボードゲームのルール完全性を前提にするが故に、ルール的な自己実現ばかりを重視して、時に自己表現や共有といったルール外の曖昧な要素を「ゲームでないもの」として切り捨てるような態度を見せかねないことに対する危惧でもあります。


「魅力的なジレンマ」が、ゲームの本質ではないのです。
ジレンマは手段のひとつであって、ジレンマについて考え行動することで、自己を表現でき、また、皆でジレンマについて考えることで、それを共有することこそが重要なのです。

メモ:既存のゲーム論との関連性

上記のゲーム理論は、xenothが「あれはゲームじゃない、これはゲームじゃない、これが真のゲームだ」というタイプの論考に接して「そんな風に分けても意味ないんじゃね?」という感想を持っているこが前提となっています。
xenothは、一人用コンピュータRPGも、結末の決まっているノベルゲームも、明確な勝利条件が存在しないライフゲームや箱庭ゲームも、ルールが完全でないTRPGも、戦略性がないジャンケンや双六も、数値化が難しいにらめっこも、疑うことなくゲームだと思っています。
そのあたりはxenothの偏見であり、政治性でもあるでしょう。


「自己表現」「自己実現」と「共有」から他のシステムを位置づけるのはひとつの視点であり、他にも様々な視点がありえます。
それをご理解の上、以下をお読みください。

コスティキャンのゲーム論

コスティキャンはゲームでないものとして、
・静的なパズル
・目的のないトイ
・結果が決まっているストーリー
を排除しています。
そしてゲームを構成する要素として
・意思決定
・目標
・障害
・リソース管理
トーク
・情報
を置いています。


コスティキャン理論とは目的が違うため単純に比べることは意味が無いですが*10xenothの観点からすると、静的なパズルや結果が決まっているストーリーでも解き方に自己表現の余地があれば、そこにゲーム性を見いだせます。目的がないトイは、たいてい多様な自己表現を許容するものです。


次に、意思決定や目標、障害等は、自己実現であると同時に、それを通じて、自己表現を行い、共有するためのものです。「目的」と「障害」があることで、障害を克服する自分の表現と、それに立ち向かう方法(互いに出し抜く方法)を皆で考える共有ができるわけです。


逆に言うと、自己実現と自己表現と共有がなされる限りにおいて、目標や障害、ルールは二次的なものになりうる。TRPG等が顕著な例ですが、それにとどまりません。どんなゲームでも「自分のスタイル」は、必ずしも目的と障害だけから決まるわけではないことからわかります。


たとえばボードゲームに二位問題というのがあります。
ボードゲームにルールがあり勝敗があり、順位がある。その時、途中経過で二位のプレイヤーは堅実に二位を守るべきか、あるいは順位が落ちる危険を増やしてでもとにかく一位を狙うべきか?
言い換えるなら、「一位」がえらいのは当然として、「一位」以外は似たようなものなのか、それとも「二位」と「三位」は大きく違うのか。多くのボードゲームには、それが明確に定義されていません。
一律の勝利条件を求めることがゲームであるとするなら、これは明らかにおかしい点ですが、我々は案外それでも楽しく遊ぶことができる。


xenoth視点では、「二位堅守」も「逆転狙い」も、どちらもプレイヤーの自己表現の幅であり、その幅を許容する余地がある故に面白くなる、とも言えるわけです。

ホイジンガと非日常

ホイジンガは、ゲームを、まず「日常の外側にある隔離した空間」と捉え、物質的なものへの興味(たとえばお金とか)から遊離したものとみなします。
xenothの見方では、それは「共有」と「自己表現」を加速するための方法論です。


明確に「ゲームの場」と区切り、「ゲームのルール」に限定することで、よりお互いの思考を共有できるようにするわけです。
「相手が次に何をするか」を察するのは、現実においては大変難しい。
「相手の次の手は、どれか?」なら、限定がかかっている分、可能になる、というわけです。
また、現実のしがらみ、立場を離れて、「対等なゲームプレイヤー」として向かい合った時のほうが自己表現がしやすいでしょう。
逆の例が「接待ゲーム」ですね。現実のしがらみがゲームに影響してるから、やれることが限定される。「自分らしく勝つ」ことは許されず、他者をアシストしたり機嫌を取ったりすることが要求される。


物質的なものへの興味を否定する場合があるのは、たとえば、お金を賭けてると、相手が「自分」について考えてるのか、「お金」について考えてるのかがわからなくなるから、と考えられます。
お金等の要素がなく、相手と自分が、純粋にゲームを通じて、互いの心理を考えているのが望ましい、というわけです。
ちなみにxenothはお金や名誉を賭けることを否定しません。お金を賭けたが故に、より分かり合える場合もあるでしょう。

ジェスパー・ユールの分類

このあたりの既存のゲーム論をジェスパー・ユールは、10項目の定義にわけて分類しました*11



ゲームの要素に「日常から分離」「仕事でない」が含まれやすい理由は、ホイジンガのところで書いた通りです。xenothは日常や仕事にもゲーム性を見出しうる上で、日常や仕事から分離することでより共有しやすくなるという立場です。


ゲームに、「社会集団」を形成する働きがあるのは、「自己表現」の「共有」が楽しいからであり、共有を促すためには集団が役に立つからです。


「ルール」、「結果」、「ゴール」があるのは自己実現であると同時に、自己表現と共有をしやすくするためです。ルールや判定結果がなくて言いっぱなしだと、自己表現も共有もしづらくなる。ゴールがあることで、共有がされやすくなる。


「あまり効率のよくない手段」であるのは、最適解があるゲームの場合、考える必要がなくなり、結果、自己実現に達成感がなく、自己表現や共有にも悪影響を与えやすいからです。


「相互作用」があるのは、参加者に、お互いのことを考えさせることで、思考を共有させるためです。それがなくて自分のことだけ考えてればいいゲームは共有が進みにくい。


「フィクション」の側面があるのは、共有のためです。人間は物語形式で物事を記憶する傾向があるため、物語のほうが共有しやすいのです。


ユール自身は、ゲームの持ち合わせる要素として、「ルール」「可変かつ数値化可能な結果」「結果に対する価値の付与」「プレイヤの努力」「プレイヤと結果のつながり」「対価交渉可能な結末」の6点をあげています。
面白いのは「プレイヤーと結果のつながり」で、「ゲームの勝敗」と、その「現実における結果」を一個の要素と重視しています。
たとえば、ゲームで負けた場合、「悔しい気持ち」「時間の消費」などがあり、場合によっては「掛金を支払う」場合がある。真剣勝負なら「負傷」や「死亡」もありうる。
それらをどう関連させるかは、ゲームやそのプレイ環境で決まっており、それもゲームの一部である、という視点です。


ユール自身は、これら全部を満たすのがゲーム、と、決め付けるのではなく、この6つを全部あるいは部分的に満たすものを分類することで、様々なゲームや、ゲームっぽいもの、ゲームじゃないものを横断的に、見ることを可能とし、そこから古典的なゲームとコンピューターゲームの相性について検討しています。

高橋氏のプレイング目標

高橋氏は、TRPGにおける世界の表現方法に、量的情報(ゲームシステム的に定義された情報。筋力5とか)と、質的情報(ゲームシステム的には定義されてない情報。可愛い女の子*12とか)の二つがあるとし、その二つの表現方法を行き来しながら、システム・シナリオ的プレイ目標と、個人的プレイ目標を同期させつつ、共同でゲームデザインを行うこと、を目標としています。


xenoth視点では、量的表現と質的表現は、自己表現と共有を行うためのツールです。
量的表現によって、能力値をどう振り分け、どの技能を取るかで「俺のファイター」が表現できる。
質的表現があることで、「俺のファイター」に様々な設定、描写をつけることができ、能力値と技能が同じ別のファイターと区別される。
量的表現があることで、「俺のファイター」と「あいつのファイター」、あるいは「ゴブリン5匹」とどっっちがどう強いかが、卓の全員に共有されやすくなる。
そして質的、量的表現を往復する中に自己実現があり、自己表現と共有に厚みが出る。


参加プレイヤー、それぞれの思惑は微妙に異なり、だからこそそれを共有するゲームデザインが重要というのはTRPGに限りません。
わかりやすい「勝利条件」があるボードゲーム等に対し、TRPGの目標は、プレイヤー、GM、シナリオ、システムそれぞれに別で重層的であり、自分自身の目標だけでなく、様々な他者の目標をうまく共有するのが求められる自己実現である、というのも賛成できます。


個人的には「共同ゲームデザイン」といった場合、「ゲームデザイン」が具体的に何を表すのかが不明であることから、私はもっとルーズに「共有」で良いと考えています。
共有を高度に行うために、様々な発展がある中に、「ゲームデザイン」といえるものもあるかもしれません。

*1:囲碁、将棋、チェスなどのゲームは最善手があることが数学的に分かっています。双方が最善手を打った場合、先手必勝か後手必勝か引き分けかのどれかに固定されます。ただ今のところ最善手を実行できる計算力、環境が無いのでゲームになっています。

*2:そういうゲームでも作り方次第で面白くする方法はありますが

*3:ゲーム理論の裾野は広いので、心理学と関連する研究もたくさんあります。ここでいっているのは古典的なゲーム理論の範疇です。

*4:もちろん渋い自分でも、美しい自分でも、カッコ悪い(が憎めない)自分でもOKです。

*5:遊戯王』のアニメや漫画なんかは、そこがキモですね。

*6:なお、ここで言う共有の楽しさというのは、「あぁこの人も今、自分と同じことを考えているな」と確信できることを意味します。実際、本当に同じなのか、あるいは、人それぞれ違う心のなかでそもそも「同じこと」とは何を意味するのか、は考慮していません。

*7:グラップラー刃牙』でもオーガが闘争の快感は、コミュニケーションの快感であると喝破していますね。ま、オーガの場合は一方的な簒奪で、あんまり共有してない気もしますが。

*8:xenothは心理学は専門ではないので、話半分で聞いてください。また足りないところを示していただければ感謝します。

*9:新作ゲームを遊ぶ重要な動機の一つは、「同じゲームをプレイしてる人が周りにいる」ことでしょう。感想を交換し、共有することが楽しみの内なわけです。

*10:以下のゲーム理論でも同じです。

*11:http://www.jesperjuul.net/text/gameplayerworld_jp/

*12:Aの魔法陣』なら、成功要素【可愛い女の子】がありうるように、システムによっては量的情報に入ります。