メディア間の翻訳〜指輪物語の場合〜

指輪物語の昏さ

映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作が切り捨てたもの | 限界小説研究会BLOG
→(移転し、加筆修正されました。)
映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作が切り捨てたもの――『指輪物語』における“昏さ”の意義について(岡和田晃) : 21世紀、SF評論

岡和田氏の論考を拝見しました。


ピーター・ジャクソンによる映画版ロード・オブ・ザ・リングは原作の昏さ……死の影を排除しているものであり、それによって重層性を失った、セカイ系的な作品となっており、911以降の社会状況に合わない自閉的な精神性となったとのことですが。


映画と小説のメディアの違いを押さえていないため、論が粗くなってしまっている印象を受けました。
以下は、メディアの違いと、それを越えようとする努力に関するささやかな考察です。

小説と映画の違い

小説と映画のメディア性の違いは無論、様々にありますが、今回、xenothが注目する違いは、鑑賞方法のコントロールです。


映画館公開を前提にした映画の場合、基本的に、最初から最後まで通してみる前提で設計されています。
そこにおいて、観客は、ひたすらスクリーンに集中することが求められており、鑑賞方法をコントロールすることはできません。


上映時間中は、椅子から動くことはできませんし、映画を観る以外の行為はポップコーンをつまむくらいしかできません。


もちろん映画もソフトを買って自宅で観るなら、ある程度、気楽な見方ができますが、基本的な見方は「最初から最後まで通して、集中してみる」であり、それを前提として作られていることは間違いないでしょう。少なくとも『ロード・オブ・ザ・リング』は、そうですね。


一方の小説は、読者の側が、鑑賞方法を大きくコントロールすることができます。
椅子に座って真面目に読む時もあるでしょう。
寝っ転がって適当に読む時もあるでしょう。
ネットやテレビを流しながら音楽聞きながら読む時もあるでしょう。
読む場合でも、先が気になるので、どんどんめくってゆくときもあるでしょう。
気になるところを、じっくり読むときもあるでしょう。
本腰据えて、一行、一行、メモをとりながら、読んでいく時もあるでしょう。
つまらなくて退屈な部分を、すっとばすときもあるでしょう。
ふと気になって、前のページを読み返すときもあるでしょう。
一旦、本を置いて頭の中を整理するときもあるでしょう。
読書の途中で本を閉じて、読書以外のことを始めるときもあるでしょう。


ことほどさように、小説というのは、読み方を読者が自由にコントロールできます。


映画は、観客の全時間と眼を一手に引き受けることで、統一した体験を作り出すことができます。映画ならではの強い没入感を与える体験を作り出せるわけです。


逆に、小説は、読み飛ばしたり読み返したり休んだりがしやすいので、様々な読解が可能です。書き手も、様々な読解に合わせた様々な書き方をこめることができます。

表現の実例

といったところで、岡和田氏があげている映画と小説の違いを見てみましょう。

冗長であるとまま評されるホビット庄の歴史(パイプ草!)も素直に楽しめたし、作品の中心となっている「一つの指輪」がもたらす叙事詩的な苦悩についてもごく素朴に受け入れることができたのだ。

私事で恐縮ですが、私は最初に読んだ時は、ホビット庄の歴史でつまづきました。
しばらく時間が経って「あそこは飛ばしても大丈夫だよ」と言われて、飛ばして読み始めました。
さらに時間が経って、ホビット庄の歴史を読んで、「あぁこれは面白いな」と思うようになりました。


これは小説的な読み方であり、小説的な書き方です。
わからない人は読み飛ばしていいし、わかるまで時間をかけて読んでもいい。そして読み飛ばせることを前提に書いてもいいのです。

 この点を、第二部『二つの塔』内での最大の激戦地である角笛城の戦いに代表される、戦争表現のあり方という観点から考えることも可能だろう。角笛城は――例えば米国ICE社が発売し日本語化もされた『指輪物語ロールプレイング』のサプリメント『ローハンの乗り手』のように――熱心な『指輪物語』の支持者であるゲームデザイナーたちによって詳細な地図が作られ、合戦の経過についても(想像の翼を広げた)研究が進められている。だが、おそらく『ローハンの乗り手』のデザイナーたちが捕捉していたような戦局の全体性をピーター・ジャクソンは考慮していない。端的に言って、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作の戦争描写はひどく単純化されたものと受け止めざるをえない。

ここで『ローハンの乗り手』のデザイナーは、小説をなんども読み返し、自分で地図を埋め、足りない部分を検討することで、詳細な合戦の経過を作り出しました。
『ローハンの乗り手』のデザイナーが、そのために小説を再読し、検討するのに費やした時間は100時間や200時間ではないでしょう。
読者も、『ローハンの乗り手』を、数時間かけて目を通し、実際の細部の吟味には、さらに時間をかけるわけです。
これも小説的な読み方です。


一方で、映画の場合、一本の映画の流れの中で戦闘シーンを描きます。
上映時間3時間の映画の中の一つのイベントとして、「角笛城の戦い」を描きます。
その時間の枠でしか描けませんし、観客も、その時間内で理解しなければなりません。
もちろん家に帰ってゆっくり考えるなり、もう一度観るなりして理解を深めるのはいいのですが、まず映画内の30分なら30分の中で、脈絡がついて理解できる形になっていなければなりません。


それが「ひどく単純化されたもの」にならざるを得ないのはわかるでしょう。

トム・ボンバディルとホビット庄の掃討

 続いて、映画版で排除されたエピソード群についても考えてみよう。例えば原作にはトム・ボンバディル、あるいはゴールドベリといった「一つの指輪」の影響から超然とした存在が描かれていたが、彼らは映画版には登場しない。

さて、トム・ボンバディルの歌は、これまた私が初読の時よく意味がわからなくて飛ばしたところです(笑)
よくわからん思い出話よりも、ホビットたちの旅の続きが早く見たかったんですよ。


一つ言えるのは、トム・ボンバディルの一連のシーンは、それまでの指輪物語とはずいぶんトーン、雰囲気が違うということです。
はっきりいえば、このシーンは「異質」であるといっていいでしょう*1


異質なシーンにぶつかった場合、小説を読んでいる読者は、自分で気持ちを切り替えることができます。
私がやったように飛ばしてしまってもいいし、飛ばさないでも、一旦、本を置いて気持ちを切り替えてもいい。
またトムの歌が終わったところでその日の読書を終え、次の日に、おもむろにホビットたちとの旅を開始してもいい。


これが映画だと、どうなるか?
3時間の緊密に組み立てられたシーンの連続の中に、異質なシーンを混ぜるのは、少なくとも小説に比べれば、かなり難しいといえるでしょう。
もとから実験的な映画、幻想的な映画ならともかく、指輪物語をストーリーとして再現しようとする時に、流れの中に「異質な部分」を挟むのは小説よりも難しい。

また『王の帰還』の原作のラストで語られる「ホビット庄の掃討」は、おそらく「一つの指輪」を挟んだフロドとゴクリの対立構造を「一つの指輪」なき状況において反復した、いわば(前作『ホビットの冒険』と同じように)「行きて帰りし物語」である『指輪物語』のセルフ・パロディとして機能する極めて重要な挿話だ。しかしこの部分も、映画版においてはまるごとカットされてしまっている。

ホビット庄の掃討がないのは、私も残念に思っているシーンです。
そしてここも、小説と映画の違いに起因します。


このシーンは、冥王サウロンとのエピックな戦い、そして、フロドとゴクリの最後の対決を通した悲劇の後に位置します。
読者・観客は、この二つのシーンを見終わって、大きな感慨を持ち「ああ終わった」と思うことでしょう。


そして、その後に、「ホビット庄の掃討」が始まる。
TRPGで言うなら全力を振り絞ってラスボスを倒したら、さらにボスが出てきた、みたいなものです。
プレイヤーの集中力は既に切れており、連戦は無理な状態です。


小説なら、そんな風に疲れた時は一休みすればいいのです。
自分が初読の時どうだったか正確なことは覚えていませんが、滅びの亀裂のシーンで感無量になって、しばらく本を置いた記憶があります。


ですが、これが映画だと、そういうふうにはいかないわけです。
クライマックスの連打で疲れきった観客に、さらに続けて休みなく「ホビット庄の掃討」を見せることになる。これがつらいのは言うまでもないでしょう。


この二つのシーンに共通することは、読者が読み方をコントロールできる小説の構造を前提とした、一般的なメインストーリーから外れた挿話であるが故に、「途切れのない最初から最後までの流れ」として鑑賞する映画にはいれにくい、ということです。


なおxenothも「ホビット庄の掃討」が無いのは大変に残念だと思っています。思う上で、それを入れることが極めて難しい理解しています。
であるが故に、ジャクソン監督が、「ホビット庄の掃討」を意図的に排除したかったのかどうかは、なんともいえないと思うわけです。

圧縮性

文章メディアと映像メディアのもうひとつの違いが、圧縮性です。
単純な話、平均的なライトノベル1冊を、プロットに忠実に翻訳する場合、漫画なら単行本5〜6冊、30分アニメなら2クール程度にはなります。
文章メディアは、文章的な意味のストーリー、プロットについては大変な情報量を誇ります。
映像メディアは、映像としての情報量がある代わりに、文章的なプロットの密度は文章に劣ります(当たり前ですね)。


ラノベ1冊、2クールの計算でいくと、本来、指輪物語を原作に完全に、映像化しようとした場合、今の十倍の時間がかかってもおかしくない。


そのあたりを映画版は、プロットを整理し、画面構成を巧みに使ってシーンの密度を高め、細かいところに死ぬほどうるさい原作ファンも舌を巻くほどに完璧な指輪物語世界をつくりあげました。


ただ、どこまでいっても映像は映像であって小説ではないため、エピソード数を単純に比較するなら、それは小説に比べて重層性が劣る部分はあります。

監督の意図

もちろんメディアの違いがあれ、結果として、映画が原作のエッセンスの一部を取りこぼしている、という批評は成立するでしょう。
問題は、それが最善を尽くした結果なのか、監督の意図なのかという点です。

 いずれにせよ、筆者は『ロード・オブ・ザ・リング』三部作を極めて高く評価している。しかし、求めすぎだと重々承知はしていたものの、やはり映画にはあの感覚が欠落していたと言わざるをえない。いや、原作の『旅の仲間』の色調、“昏さ”――この感性を、おそらくピーター・ジャクソンは意図的に排除したのではなかろうか。

これまで書いたように「意図的に排除した」とする根拠は、私には見つかりませんでした。
岡和田氏が述べた部分はすべて、「映画として完成させる」ことを目指した場合、含めるのが大変に難しいところ、切り捨てたくなるところです。

 『指輪物語』はラルフ・バクシによって(原作の前半にあたる部分が)すでにアニメ映画化されていたが、バクシ版の『指輪物語』には、(クリーチャーを実写の映像をキャプチャーとして取り込むなどの)もろもろの試みによって、こうした“昏さ”を色調として取り入れようする試行錯誤が見受けられた。
 ジャクソンはバクシ版『指輪物語』を熱心に研究していたという。なのになぜ、バクシがトールキンから引き継いだ“昏さ”を受け入れなかったのだろうか。

バクシ版の指輪に「色調」による「昏さ」があり、ジャクソン版にない、というのは、ちょっと主観的に過ぎる話に思えます。
例えば、バクシ版「指輪物語」も、トム・ボンバディルについては省略しているわけです*2

彼がニュージーランドを撮影の舞台に選んだのは、9・11前夜の政治的な状況から作品を切り離すためだったのかもしれないが、結果として彼の試みは「例外社会」における自閉的な精神性の反映としても受け止められるものとなってしまった。

ジャクソンがニュージーランドを撮影の舞台に選んだのは、広大で自然豊かな国土が、中つ国のロケをするのに最適の場所だったからです。またニュージーランドは、ピーター・ジャクソンの故郷でもあります。CGやSFXを担当したWeta Workshopもニュージーランドですね。
「9・11前夜の政治的な状況から作品を切り離すため」というのは、あまりに唐突で意味が掴めません。
また、正直、指輪物語アメリカで撮ったら自閉的にならなかったのか、と言われると首をかしげます。

セカイ系と中間領域

 周知の通り、日本においても『ロード・オブ・ザ・リング』三部作は記録的な大成功を収めた。そしてその時期は、日本における「セカイ系」の流行と奇妙な重なり合いを見せている。ひょっとすると、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作は、半ば無意識的に、他者性を欠いた「セカイ系」のような受容をなされた部分があるかもしれない。現に単純化された戦争描写と、物語における重層性の排除という観点は「セカイ系」の特徴そのものであるし、二〇〇〇年代前半のSFやファンタジーの多くとも共鳴を見せている。

たとえばこんなシーンがあるとしましょう。
学校帰りの学生が、コンビニで、チョコレートを買って食べる。


さて、一枚のチョコレートがコンビニに並ぶまでの間には、恐ろしく複雑なプロセスがあります。
ガーナやエクアドルで生産されたカカオ豆が、様々な工程を経て輸入される。そこにおいてガーナやエクアドルの経済は、日本の製菓会社とも相互に影響している。それらを取り巻く国際情勢があり、長い歴史があり、文化交流があり、文化摩擦があり、様々な人物の苦闘がある。
こうしたことを書いていけば、ものすごい量の文章になるでしょう。


でもまぁ、コンビニでチョコを買うシーンに、その全部を記述することは現実的ではない。
「作中にチョコレートを出しながら、植民地経済について言及していない」という批評、視点には一定の意義はありますが、一方で少なくとも「そういう批判を全部完全に満たす作品は存在し得ない」という点については同意が取れるはずです。


このように、フィクションに限らず何かを文章化するということは、圧倒的に多くのものを捨て去り、省略することで、脈絡をつけるということです。
どれだけ詳細なドキュメンタリーを書いたとしても、「より細かいディティール」「より複雑な関係性」「さらなる背景」を、いくらでも補完してゆくことができます。


であるので、絶対負けない議論の方法としては、基準を明らかにせずに「○○は☓☓を単純化している」というものがあります。
複雑さや、重層性にキリがない以上、「何かに比べれば」それは単純化されているでしょう。


でも、その議論は無意味ですよね?


ここでの岡和田氏の発言も、同根の問題があるように思えました。


ジャクソン版に足りないもの、抜け落ちたものはあるとは思いますが、一方で、そうした恣意的な基準の恣意性を無視して、一段高いところから「重層性」や「複雑さ」を語るのであれば、それはそれで危険があるのではないかと思うのです。

追記

以上のような理由から、ジャクソンが何をしたかったのかを考察するのであれば(大変に基本的すぎる話で恐縮ですが)「何が削られたか」だけを数えるのではなく、「何を変えたか、付け加えたか」を見たほうがよいと思います。


「尺が足りなかった」的なものをのぞくと、ジャクソンの映画版は、驚くほど原作に忠実であることは意見の一致を見るでしょう。
その中で、数少ない意図的な改変と思われるものは、アルウェンとアラゴルンの関係性でしょう。

浅瀬でフロドたちを救援に現れるグロールフィンデルがいつの間にかリヴ・タイラー演じる“健康的な”アルウェン姫に変わっていても、苦笑はしたが許容範囲ではあった(もっともこれは、映像で中つ国に触れられた喜びに勝るものはなかったというだけの話かもしれない)。

ここに端を発する、アルウェンとアラゴルンのキャラクターの現代的とも言える改変です。
アラゴルンは、より人間的に悩み、アルウェンは人としてアラゴルンに寄り添うか、エルフとして旅立つかを悩みます。


原作においては、二人は使命の重圧を感じつつも、アクティブに悩んだり迷ったりするシーンは見られません。
それらは指輪物語の神話性と大きく関連する部分です。
その重要な点においてジャクソンの意図的な改変が行われている。
ここは大きく考えるところです。


とりとめのない感想になりますが、岡和田氏の言う「昏さ」は、明るさの反映でもあります。
光が明るいほどに闇は暗さを増します。サウロンが消え去る時、エルフ達もまた中つ国を去ります。
アラゴルンが神話的な英雄から、より人間的なヒーローに明るさを減じた時、お話の「昏さ」も弱まったとは言えるかもしれません。


これは映像化の宿命でもあります。
文章で書き表された「絵にも描けない美しさ」は、文字通り「絵に描けない」わけで、それをロケと俳優とCGと小道具・大道具で真正面から描き出そうとする時、そこにはどうしても無理や野暮が生じる。
ガラドリエル奥方は映像として素晴らしいと思いますが、それでも一抹の「コレジャナイ感」や「滑稽さ」を覚えなかったとは言えません。


ただし、そういうのを避けたいのなら、そもそも映像化するべきではない。ジャクソンが映画化を決意したということは、その野暮を行うということでしょう。
そこにおいて、アラゴルンやアルウェン、エオウィンを、映画としてより魅力的に描き出そうとする判断が、こうした改変だったのではないかと思います。
xenothは、そうした変更点を含めて、映画版を評価しています。

*1:そうした異質なシーンがあることが指輪物語に必要であり、また重層性を高めている、というのはもちろんのことです。

*2:バクシ版は、指輪物語の前半のみをさらにはしょった形にしているので、ボンバディルに限った省略ではありませんが