ロールプレイは演技するという意味です

間違っていたら教えてほしいが、馬場理論の基本の一つは「ロールプレイと演技は別物である」というものであった。
ロールプレイとは、ゲームにおける自分の役割を遂行することであって、例えば、ファイターなら味方の盾となり敵を攻撃するといったこと、それによってパーティの円滑な行動を保つものであり、かっこいいセリフをしゃべったりといった演技自体はロールプレイではない、という話であった。それを補強するものとしてコスティキャンのゲーム論の翻訳があった。


というわけで読んでみる。

「俺には言葉がない。それでも俺はデザインする」byコスティキャン

http://www.costik.com/nowords.html
より。
Roleplayingの章を試訳。比較目的のため逐語訳に近くした。文章が生硬なのはお許し願いたい。

ヒーロークエストは「ロールプレイング・ボードゲーム」と呼ばれている。RPGと同じように、一個のキャラクターを動かす。ヒーロークエストの場合は、ボード上のプラスティック・フィギュアだ。さて、一個のキャラを動かしているのだから「ロールプレイ」していると言えないだろうか。「ロールプレイング・ゲーム」と呼ぶのも正しいだろうか。


答えは両方否だ。


これは感情移入とロールプレイの混同によるものだ。ゲーム・トークンに深く感情移入しつつ、ロールプレイしていない、と、思うことは普通にある。


ロールプレイが起きるのは、自分のポジションのペルソナをかぶる時だ。ゲームごと、プレイヤーごとにロールプレイのやり方は変わってくる。例えば、キャラクターに合わせたしゃべりかたをすることもあるだろう。キャラクターの感じているであろう感情をこめてしゃべることもある。しゃべりかたは普通かもしれないが、「俺は次は何をしよう?」ではなく「この状況で私のキャラクターはどうするだろう?」と深く考えて行動することもあるだろう。


ロールプレイは、当然ながら、ロールプレイングゲームで、よく見られる。が、それ以外でもありうる。例えば、私は、Vincent Tsaoの「フンタ」を遊ぶ時は、どうしても怪しげなスペインなまりが出る。このゲームを遊んでいると、自分が腐敗したバナナ共和国の大物と感じるため、そのロールプレイをしてしまうからだ。


ロールプレイは、様々な理由で重要なテクニックだ。まず感情移入を強化する。自分が自分のキャラだと考えれば、感情移入は深くなる。ゲームの雰囲気を高める。自分の遊んでいるのが、所詮ゲームに過ぎない、嘘の世界だ、と、思う気持ちを、棚上げにすることで、ゲームの世界が色鮮やかに息づき、一貫したものだと考えられるようになる。最後に、それは、プレイヤー同士の交流を深める効果がある。


この交流を深める効果は、重要だ。ロールプレイとは、パフォーマンスの一種である。ロールプレイングゲームでは、ロールプレイヤーは、お互いを楽しませるためにパフォーマンスを行う。もし友達が見てないのなら、わざわざロールプレイする意味もない。


「コンピューターロールプレイングゲーム」と呼ばれるものが、ロールプレイングゲームでない理由もそこにある。ヒーロークエストにロールプレイングがないのと同じだ。キャラクター、装備、物語といったRPGの要素はそこにあるが、プレイヤーが演技する余地がない。行動や、ロールプレイで、キャラクターを特徴づけるメカニズムがない。


これは技術に固有の問題だ。コンピュータゲームは、ソリテアであり、ソリテアには定義上、聴衆がいない。故に、コンピュータゲームには、ロールプレイがない。


ネットワークを足せば、ロールプレイングゲームが可能になる。MUDが人気が出るわけだ。


プレイヤーは、どのようにロールプレイを行うのだろう? システムが認めたり推奨したりするのは、どのようなロールプレイだろう?

読んでもらえばわかるが、ここで語られるロールプレイは現象的には、「キャラの口まねをすること」「フンタで遊ぶ時に、怪しいスペインなまりで、しゃべること」「キャラクターのつもりになって考えること」つまり「キャラクターになりきって、そのキャラクターらしい演技をすること」だ。役割分担によって円滑な行動を、というのは、全く入っていない。


ロールプレイと感情移入が異なる、というのは、例えば、本を読んで主人公に感情移入することはあるが、読みながら主人公の口まねや演技をするわけではないのと同じと考えれば良いだろう。


というわけでコスティキャンの文章を読む限り、英語圏においても、ロールプレイの意味は、日本における演技、あるいは、なりきりと、そう変わりがない。コスティキャンの定義では、そこに「他のプレイヤーに見てもらうために」というのがつく。馬場氏の翻訳では、どうだったけ、とチェックしてみる。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html

 ある意味では、感情移入はプレーヤーからキャラクターに向けた動きであり、ロールプレイはキャラクターからプレーヤーに向けた動きと言える。両者は方向が逆なのだ。

これに相当する部分は、原文では以下の箇所になるはずだ。

Roleplaying occurs when, in some sense, you take on the persona of your position. Different players, and different games, may do this in different ways:
ロールプレイが起きるのは、自分のポジションのペルソナをかぶる時だ。ゲームごと、プレイヤーごとにロールプレイのやり方は変わってくる。

意訳であるとしてもまったく対応していない。馬場氏の創作に近い。このへん、馬場氏が当たった原文が改訂されている可能性がある。識者の指摘を待つ。
さておいて。

 まず、RPGという略称の元となった「ロールプレイ」という用語について、考えてみよう。「プレイ」という単語には「演技」という意味もあるので、混乱しがちだが、もともとRPGにおけるロールプレイとは、「野球をプレイする」とか「ピアノをプレイする」というのと同じように、「役割(ロール)をプレイする」という意味であって、演技という意味は何ら含まれてないことに注意してほしい。

http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_19980907.html
というわけで、以上のようなことは全くない。
RPGにおけるロールプレイとは、そのキャラクターになりきって、しゃべったり行動したりすることであり「演技」という意味は大いに含まれている。英語圏でもロールプレイといったら、役割分担という意味には、通常ならない。
具体的には以下の箇所。

But there is no mechanism for players to ham it up, to characterize themselves by their actions, to roleplay in any meaningful sense.
キャラクター、装備、物語といったRPGの要素はそこにあるが、プレイヤーが演技する余地がない。行動や、ロールプレイで、キャラクターを特徴づけるメカニズムがない。

この「ham it up」は「 ham it up 〔話〕 (うけをねらって)大げさな演技をする.」と言った意味である。


ロールプレイを役割分担とする定義は、馬場氏特有のものであることを、今一度、ここに確認しておきたい。