TRPGの本質論者

「ロールプレイは演技するという意味です」
http://d.hatena.ne.jp/xenoth/20071216/p1
の内容に関して反論してるとおぼしき記事をid:gginc氏が書かれている。
その内容は「英語のロールプレイは役割分担ではないかもしれないが、役割分担はTRPGにおいて重要である」という反論である。


再反論を簡単にまとめる。
a.TRPGにおいて役割分担が重要であることは言うまでもない。
b.問題にしているのは、英語のロールプレイが役割分担ではないにも関わらず、そういった訳語を使い続けることである。

グレッグ・コスティキャンはなんて言ってるんだっけ

 ところでグレッグ・コスティキャンは「ロールプレイング」の楽しみについて(これはもちろん、ゲーム一般における演技という意味ではあるが)語った際、〈役割分担〉という言葉は一切使っていない。


 そして、実はこのことをもって、「馬場秀和の一連のTRPG論文は、コスティキャン論文を馬場が都合よく解釈したに過ぎない。したがって馬場の議論はメチャクチャで、考慮するに値しない」という批判が一部に存在する。


 しかし、その読み方をする前に、そのコスティキャンが記している「ロールプレイング」の段落が、コスティキャンが「ゲームにとって本質的」と定めた項目の外にあることを、読み返して確かめるべきだろう

http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080303/1204513902
すいません、肝心な部分が抜けています。批判しているのは、「馬場氏が、役割分担をロールプレイの訳語であると主張し、その根拠をコスティキャンの論文に求めていること」です。


馬場氏の議論は、論旨の部分を整理すれば、考慮するに値する部分はたくさんある。「役割分担」という概念は、十分に意味がある。コスティキャンの考える「ゲーム」の概念においても、「役割分担」というのは意味がある分析だろう。


問題なのは、「ロールプレイの翻訳が役割分担である」という、あやまった事実を広めていることだ。そして「ロールプレイ=役割分担」というものが一番重要なもので、その一段下に「キャラプレイ」というのがあって、という図式と用語を導入していることだ。
誰しも「ロールプレイングゲーム」において「ロールプレイ」は「キャラプレイ」より上と納得しやすいだろう。そういうバイアスのかかった用語を使用し続けていることだ。これは馬場氏だけの問題ではない。

注4:TRPGの価値が「ロールプレイング」にあることを真剣に主張したいという人が、なぜ「本質的ではないほうのロールプレイング」を説明する項目を持ち出してまで馬場秀和の議論を無効化してしまうのか。果たしてそれはTRPGにおいて本質的だと誰もが思うはずの「ロールプレイング」を支持したことになるというのだろうか。私は、そのような論法が、TRPGを愛しすぎるがゆえの自家中毒に陥っていないかを、冷静に確かめていただきたいと思う。

「本質的なほうのロールプレイング」というのはグレッグ・コスティキャンの文章にはないはずだけど、いったい、どこにあるのだろうか。


さて一般にTRPGをプレイするにあたって、お互いに役割、あるいは立ち位置を分担することで協力する、という行為は十分に大切である。それを切り口にしてTRPGを分析しようという馬場氏の視点も間違っていない。


問題は、先に書いたとおり「TRPGで一番重要なことがソレで、あとはそのオマケ」という理論を無自覚に(あるいはもっと悪いことに自覚的に)振りかざすことだ。これは、id:gginc氏も同じだ。


「役割分担」が最初にあって、それを補強する「ロールプレイ」なのか。「ロールプレイ」の楽しさがあって、それを疎外しないための「役割分担」なのか。あるいは等分に必要なのか。あるいは別のもっと重要な楽しさがあって、そのために「役割分担」や「ロールプレイ」があるのか。

「本質」って何?

一律に順番を決めることには意味がない。


単純なプレイの問題では、同じシステムの、同じシナリオであっても、今日は役割分担を意識して遊んでみよう。今日はロールプレイを飛ばして行こう、とか、優先順位が変わることもあるだろう。シナリオデザインにおいても同じことがいえる。シナリオ中でも場面ごとに変化することもある。その程度の問題だ。


私は「感情移入と演技」
http://d.hatena.ne.jp/xenoth/20071214/p1
において、TRPGは感情移入と演技を強化するために発達したシステムではないか、という私論を書いた。ただしこれは、だからといって「演技」(id:ggincの言うところのキャラプレイ)が、常に一番である、という話ではない。
「TRPGがゲームであり、ゲームなのでリソース管理が重要だ」という論法があるなら、「TRPGとそれ以外のゲームの違いは、演技と感情移入を強化するために発達した部分だ。故に演技こそが重要」という論法も成立する。どっちが重要でどっちが本質か、というのを無理に決めるのが馬鹿馬鹿しいって話だ。


順番を決めることにも意味がある場合はある。それは目的をきっちりと定義し、「あくまで、その目的に沿った順番」を考える場合だ。


たとえば、TRPGの「べき論」ではなく、「分析」の際に、最初の視点をどこに置くかは意味がある。そこにおいて、「面白い分析を提供できる」という理由で、特定の要素を第一とするのは当然だろう。


プレイテクニックとしても意味がある。
例えばウォーハンマーの遊び方について語るのであれば、クラス制のシステムをよりよく運用するために、「役割分担」が最初に来て、次に「ロールプレイ」となる。戦わないファイターを安直に正当化するための「ロールプレイ」が好ましくない、というのは、多くのTRPGにおける常識だろう*1
クラス制の意味を理解して回せる人が前提であるならば、今度、「面白いロールプレイをするための、キャラメイク」というプレイテクニックもかけるだろう。こういうタイプのキャラをやりたかったら、こういうクラスとこういうスキルを取ってみよう、というわけだ。


デザイン論としても意味がある。「面白いロールプレイ」を最初においた場合のデザイン。「役割分担によるリソース管理」を最初においたデザイン。中心を決めて、派生を決めていく、というわけだ。

「本質」を決めたがる人

以上のようにTRPGに「本質」があるとして、それは、方法論、文脈で、ダイナミックに変化する類のものである。では、どうして「本質」を決めたがる人がいるのか?


馬場氏の場合、それは、自分の好きなタイプのTRPGを擁護して、それ以外のシステムおよびプレイスタイルを破壊するための戦略だった。
id:gginc氏の場合、TRPGの分析を、完全分類し、ツリー型におしこめる際の弊害となっている。


いずれにせよ「本質」を重視する議論は、窮屈で、場合によっては有害である。

*1:TRPGを遊ぶ上において、役割分担を無視できない、という議論があるのであればその通り。でも「役割分担が一位ではない」という否定は、「役割分担を無視していい」ということではない。念のため