理論の恐ろしさ、あるいはなぜ馬場理論が嫌われるか

http://d.hatena.ne.jp/gginc/20071210/1197269049
より

ただし、私は自分の論考に多くの誤りや偏見が含まれてあろうことを、喜んで認めるし、そのことを何ら恥じるものではない。論文の著者は、それが真摯かつ責任ある考察の産物であり、積み重なってゆくもので、他の人の知的反応を引き出すに足りるものであったなら、たとえ結果的にその主張自体は誤っていたとしても、理論全体の発展に寄与したことを誇りに思うべきだと、私はそう確信する。

だから、私を批判する人々に対しては、「では、より優れた論文をぜひご提示いただきたい。どうか、私の理論を乗り越えたまえ。それにより貴方がTRPG理論を発展させるのであれば、私はそれを称賛し、貴方が優れた業績を残すのに貢献できたことを誇りに思うだろう」と告げるものである。

 ここまで主張しているにもかかわらず、相変わらず馬場氏の一連の主張が要らぬ誤解や中傷を受けているように思われるのは、一体なぜだろうか。

 私はそうした閉塞的な状況に、強い違和感を覚えている。以前からずっと。

答えは簡単で、馬場氏の発言の多くが、単なる理論にとどまらず、プロパガンダを含んでいたからだ。
ある種のプレイスタイルを激烈に否定したからだ。
プロパガンダ、政治的行動が常に悪い、というわけではない。馬場氏は、国内TRPGシーンを救おうとしたつもりだろうが、それに対して反発を受けることがあるのは当然だ。

 ともあれ、キャラクタープレーヤーの主張に何の根拠もないのも、建設的方向に議論を進めようという姿勢が見られないのも無理はない。彼らは議論をしてるのではなく、「ボクの心を傷つけないで。みんな、ボクをいたわってくれなきゃ嫌だ」と悲鳴を上げているだけなのだから。
(中略)
 彼らを「虫けらにも劣る連中」などと見なすのは止め、せめて「虫けら同然」くらいにとどめておこう。そう、彼らにも五分の魂があるのだ。たとえ、傷つく以外に用途がないとしても。
馬場秀和のRPGコラム:『キャラクタープレイ −あるいは傷つきやすい人々−』

この文章は、少なくとも謙虚な理論の提出には見えない。
このように議論を用いて、弱者をいじめることを否定するのに、「より優れた理論」は必要ない。
馬場氏の様々な論考の中に、傾聴に値する部分も存在する、という主張はもちろんできると思うが、批判される理由は十分にある。


馬場氏の論考の問題点の一つは、国産第三世代TRPGをひとまとめにしながら、個別のシステムについて、きちんと検討した形跡が全くない、ということだ。
検証を欠いた理論の危険な点は、「理論どおりに現実を曲げ始める」という点にある。
これは、例えばid:ggincさんの理論についても言える。
http://d.hatena.ne.jp/gginc/20071204/1196749425
たとえば、この「死んだシステムと、〈マスターリング〉の商品価値」だ。


この記事では「寿命が長すぎて流通に乗らなくなったシステムがプレイされることは、商業的には無価値である」→「商業ではシステムに短い消費期限を設定して、次々に出す」→「特にFEARゲー」と、結論づけている。
筋は通っている。論理的に理解はできる。ただ、実は、論理が通っているだけであって、これはこの時点では仮説に過ぎない。
実際に「短い消費期限」を前提に作られたシステムについての例示、検証もないし、現在のFEARゲーと、過去のTRPGシーンで、本当に、寿命に差があったのかというのも分析されていない。
にも関わらず、上記論考では「FEARは商業のためだけに、わざと底の浅い、すぐ飽きられるシステムを出している」というのが前提となってしまっている。
これ読んだ人が「あーFEARゲーってのは、底の浅い作りなのか」と思ったとしたら、迷惑な話である。


よく「論を言う暇があったら遊べ」という話がある。これは別に理論などいらない、という話ではない。
理論を構築するためには、無数の検証、実体験が必要だ、という話だ。
例えば「アリアンロッドを、うまく遊ぶノウハウ」とかをまず書いて、アリアンロッドというシステムの範囲の中で、十分な一般性を持たせるべく頑張ってみる。それだけでも、ものすごい努力と時間が必要だ。そういうのを百くらい積み重ねたら、TRPG全般の理論についても面白いものが作れるだろう。


だのに「TRPG理論」を語りたがる人間は、自分がろくにプレイしてないシステムも含めて、「TRPGそのもの」に対する壮大な理論を、自信たっぷりに語りまくる人が多い。
それこそが問題なのだ。