FEAR嫌いの補助輪論者

世の中にはFEAR*1を否定する人がいて*2、そういう人の常套句が、「あのシステム*3は補助輪」である、というもの。*4

補助輪論

id:ggincさんの新記事
http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080229/1204265480
この記事自体は、基本的に中立で、よく目の行き届いた分類である、と、思うのだ。
でも、余計な一言が全部を台無しにしている。

外向けの活動─TRPG普及のための〈ファシリテーション〉技術の向上

1. 〈システムデザイナー〉
1. 特定の教育効果を持つメカニズムをシステムに“埋め込む”*13
2. 商業誌やネット等のメディアを通じて、啓蒙的*14なコラム・ゲーム記事を提示する
3. ゲームマスター興行等を通じて、自己の開発したシステムの普及に努める

13:F.E.A.R.のシステム設計はこの特性を多く備えている。この点については個人的には賞賛と批判の両方の考えを持っているが、この方法によって国内TRPG文化の成熟を図ろうとしたF.E.A.R.の貢献は無視してはならないだろう。しかし、本当にTRPGの文化が、システムデザインレベルでの啓蒙を必要としないほど成熟した暁には、このようなかたちでのシステムデザインは必要とされなくなるだろう。その点で、今のF.E.A.R.の「教育的デザインコンセプト」の部分(特に・経験点システムの部分)は、国内TRPGの現場に関するいろいろな課題を示唆してくれている。

「しかし、本当にTRPGの文化が、システムデザインレベルでの啓蒙を必要としないほど成熟した暁には、このようなかたちでのシステムデザインは必要とされなくなるだろう」

さてさて、gginc氏の理解では、FEARの経験点システム等は、教育的なメカニズムとして働いており、「文化が成熟した暁には必要とされなくなる」らしい。
これを「補助輪論」と言おう。自転車の補助輪の如く、それらは卒業されるべきものだ*5というわけだ。


だけど成熟ってなんだろう?
まず基本的な話として、「自転車文化が成熟」したら「補助輪は不要」になるのだろうか?
今の日本に補助輪つき自転車があるのは「文化が未熟」だからなのだろうか?
違うだろう。
新規に自転車に乗る人がいる限り、補助輪つきの自転車は便利なものとして作られるだろう。


TRPGにおいて、教育する方法は一つではない。gginc氏のおっしゃる通り、啓蒙記事やコラムもあるし、コンベンションなどを主催して実際にマスタリングさせる手もある。
その一つとして、システム自体に教育的なメカニズムを埋め込む、というのは重要かつ有効な手法であり、TRPGに新しい人が流入しつづける限り、不要になることは有り得ないだろう。


「システムデザインレベルでの啓蒙を必要としないほど成熟した」というが、新規ユーザーがいる限り、啓蒙は必要だろう。コラムやゲーム記事、マスタリングによる啓蒙は必要とされるが、システムデザインでの啓蒙だけが必要なくなる、というのは、おかしな話だ。


結局、この人は、FEARの経験点システムが未熟で不要と思ってるんだが、うまく否定できないんで、こうまで回りくどく否定しているにすぎない。
好き嫌いは別に構わないし、FEARの経験点システムが有害か、という議論はできると思うが、中立の視点でTRPG全体の進化を語ろうとする中に、こういうのを混ぜ込むのは性質が悪い。

*1:今はFEARであるが、全く同じ論法で、昔は、ソードワールドが批判されていた

*2:id:ggincさんの場合、FEARを否定してない、と、ことあるごとにいうが、実際の主張がそれを裏切っているという

*3:どのシステムになるかは色々ある

*4:要するに、自分が特別であるというプライドのために、その時々で売れているシステムにケチをつけ、より多くのプレイヤーに対して親切に作られている点を否定するお定まりの議論が、補助輪論である、といえるだろう

*5:そもそもあるシステムが、教育的効果を持っている、というのは、そのシステムが教育的効果「しか」もってない、とは限らない。今、FEARゲーを遊んでいる人の中で、最初の内はともかく、遊び慣れれば経験点システムは不要で、かえって邪魔、と、思ってる人っているんだろうか?