「ラビットホール・ドロップス」デザイナー伏見氏のご意見

ラビットホール・ドロップス感想 - xenothの日記
架空世界の常識と良識〜ラビットホール・ドロップスの感想 その2〜 - xenothの日記
上記の日記について、Twitter上で、デザイナー伏見氏にご意見を伺いましたので、以下にまとめました。
児童・障害者支援TRPG「ラビットホール・ドロップス」の公開に関するお話 - Togetter
1ユーザーの感想に対する素早い応答に感謝します。

TRPGセラピーの問題点

TRPGで喧嘩をするのは支援ではない

今日はTRPGゲームファンのxenothさんから、ラビットホールドロップスへの危... - RabbitHole Drops | Facebook
伏見氏から返答の一部をいただきました(まだ続きがあるそうです)。


これを読む限り、ラビットホール・ドロップスのルール間の矛盾は意図的なものであり、ゲーム中にそれを巡って喧嘩や仲違いが起きることも織り込み済みということのようです。


さて、私の方の意見ですが、「TRPGで喧嘩をしてしまったことが、あとで貴重な体験と思えるようになる」ことはあるし、それはそれで良いと思います。
その一方で、「TRPG中の喧嘩」を推奨するデザインは、非常に問題があると思います。


友達との喧嘩は日常起きることですし変に増やす必要はどこにもありません。

 どの結果でも「支援」は成功しているのです。つまり、このゲームを遊ばなかったら得られなかった経験を、「ダイレクトではなく、架空世界の冒険という体験として」そのプレイヤーに経験させることに成功しているのです。

「うるさいよ、じゃあいいよ。もう一緒にゲームなんかやらねえよ!」
というのは、現実の喧嘩であって、「ダイレクトではなく、架空世界の冒険という体験として」経験するわけではありません。
友達との仲違いや口喧嘩は、限りなく現実のものです。
そして、現実の喧嘩が起きたことを「支援成功」というのは、あまりにも無責任です。
その喧嘩=支援成功に対して、誰がどう責任を取るのですか?

 そして遊びの中でのトラブルは、現実のトラブルよりは解決が容易であります。これがプレイセラピーの大きな機能です。

「一緒に遊ぶ」というのは現実です。TRPGを遊んでいる最中に起きたトラブルは現実のトラブルです。そしてそれは喧嘩や仲違いやいじめにつながります。
毎日、クラスメイトと顔を合わせる学生にとってもそうでしょうし、社会人になったらなったで人間関係を選びやすくなる分、趣味で喧嘩した相手と仲を修復するチャンスは減ります。
私自身の経験ですが、「騎士が戦闘して何が悪い」といった思想的な対立は、本当にあとをひきます。


プレイ時間が1時間だからといって、喧嘩や対立がその時間内に終了するわけではありませんから、1時間なら大丈夫ということはありません。

 ほのぼの、童話的、ということを目指すように言われながら、具体的な支援はない。
 夢中になって残虐になっちゃうこともありうるのに、それはダメだよ、としかない。
 目標は提示されているのに。
 抑制や努力をしないと達成できない。
 これ、狙ってやっているところです。
 そこはゲームシステムの役割ではない、役割にすると良くない、と考えているのです。

ゲーム中の目標がしっかりしていない時、単にGM(あるいは声のでかいプレイヤー)が考えた「正解」に、他の人が振り回されるだけのゲームになることをどうやって防ぐでしょうか?
答えは、防げないというものです。
結局、それは、GMの空気を読むだけのゲームになります。

 RPGが判断と選択のゲームであるなら、「失敗」の可能性を常に待っています。
 セッションは「失敗」してもいいのです。
 パーティ全員が楽しめなくてもいいのです。
 いい工夫なんか思いつかず、力押しで終わりにしちゃってもいいのです。

 でも、いつか、みんなが満足できて。
 すごくいい工夫を、その場で思いついて実現して。
 そういうセッションをできたら、すばらしいことになりそうです。
 むしろ最初から成功しちゃ、いけないのです。
 成功はオートマティックではありません。

ある目標があって、その道筋が見えている中で努力して失敗することは、「次はうまくやろう」といった反省やモチベーションにつながります。
しかし目標も努力の方向も方法論も見えなくて、何をどう反省すればいいかわからないのなら、それは単なる不愉快な経験です。
あるいは、「GMの空気を読もう」という決心を育てるだけになります。「皆でより面白いゲームを作ろう」という方向にはゆきません。


「苦労を通じて成長する」こと自体は素晴らしいと思います。
しかし、それは全員が楽しみ、楽しませようとした上で起きる苦労であるべきです。


その全員には当然ながらGMもデザイナーも含まれます。


GMがプレイヤーに対して、「苦労させてやる」というセッションは、単なるGMの自己満足です。
デザイナーがGM、プレイヤーに対して「苦労させてやる」と思うのも同じです。
それを「支援」と呼ぶのは深刻な問題です。


伏見氏は、おそらく「やりがいのある苦労」と「単なる悪意」を混同されています。
デザイナーやGMは「やりがいのある苦労」を準備すべきで、そこにおいて「失敗」もあって良いですが、「ゲームの目標を失敗」ではなくて、セッション自体が失敗するようなことを仕掛けるのは、大いなる傲慢です。

プロの批判その1

私がTRPGをセラピーとして使わない理由: Analog Game Studies
○5) 批判4:児童の教育・思春期のトレーニング・うつに悩まされている方の自己実現SST目的にTRPGが使われることは、特に有利でない。
○8 )TRPGはセラピーとして大きな欠陥がある
○10)対人援助として趣味を扱い、工夫するそのこと自体が、対人援助性を損なう
などが、強く当てはまるでしょう。


自己実現において、TRPGは特に有利ではありません。
TRPG的手法のセラピーはすでに存在するので、普通のTRPGを工夫する必要はありません。なぜ、「ダイレクトではない、架空世界の冒険という体験」がセラピーの役に立たないかもここに書いてあります。
「ラビットホール・ドロップス」は、対人援助を強く意識し、プレイヤーもそれを意識するからこそ、対人援助性を損ないます。

プロの批判その2

このあたりはしかし、余談かもしれません。
仮に、ラビットホール・ドロップスがルールと世界観の一致したわかりやすいゲームであっても、「児童支援・障害者支援TRPG」までの距離は遠いからです。
その理由もすでにプロによって指摘されています。
AGS 記事「CBT的アプローチのセッション運営」は取り下げられるべきであると考えます: プレイレポートbyたきのはら

・医療類似行為を一般に応用可能であるかのように紹介してはならない


・病者との関わりにおいて、専門知識を有しない場合に有用なのは、基礎知識ではなく受容の態度であるが、知識の重要性ばかりが説かれている


・病者との関わりに言及する文章に、誤読の余地を許容してはならないが、表題の論は誤読の余地が多々ある


・病名や疾患メカニズム、および対応技術の安易な記載は、不適切な診断的行為、医療類似行為を招きうる


・相手をコントロールしようとする態度への警戒を含まずに知識や技術のみが記載されている。あまつさえそのような態度を取ることを示唆するような構成になっている


・最終段落は「系統的な訓練を受けなくても“上手いゲーマー”となることで病者に有益な環境を提供できる可能性があるからそうしろ」と読める

医療類似行為をTRPGで行えると紹介しています。
病者との関わりで持つべき受容の態度は、素人のゲームマスターが身に着けているものでは到底ありません。「受容的な態度でマスタリングしよう」というのとはわけが違うのです。
病名および対応技術が安易に記載されており、不適切な診断的行為、医療類似行為をまねきます。
伏見氏の「試練を与えよう」という態度は、お気づきでないでしょうが、相手をコントロールする態度そのものです。
系統的な訓練を受けなくても、”うまいゲーマー”ですらなくても「ラビットホール・ドロップス」を遊ぶことで病者に有益な環境を提供できると読めます。


児童や障害者の「支援」をTRPGがうたうのであれば、思いつきや楽天的な思考のみで作ってはなりません。

TRPGが 「GMの空気を読もう」という決心を育てるだけのゲームになるのは、なぜ問題なのか?

経緯

TRPGが 「GMの空気を読もう」という決心を育てるだけのゲームになるのは良くない、という指摘はすごく面白いと思った。確かにそうだなと思うし、あれ、それじゃいけないのかな? と判らなくなったりしました。少し考えてみないと。
http://twitter.com/pumimin/status/209652679696322560

こちらの伏見氏の発言に、私は以下のように答えました。

TRPG以前に、理由を知らせずに、自身の意図と離れているものに罰=失敗を与えることで、一方的に自分に従属するように仕向けるのは洗脳の一種で、教育とは相反するものだと理解しています。
http://twitter.com/xenoth_hatena/status/209654184658739201

ちょっとわかりにくかったかもしれないので、掘り下げて書いてみます。

「空気を読むしかない」ゲーム

さて空気を読むこと自体は悪いことではありません。一緒に楽しく遊ぶためには、互いの気持ちをはかることが大切です。
ここで言っている空気を読むは以下のような状態です。

ゲーム中の目標がしっかりしていない時、単にGM(あるいは声のでかいプレイヤー)が考えた「正解」に、他の人が振り回されるだけのゲームになることをどうやって防ぐでしょうか?
答えは、防げないというものです。
結局、それは、GMの空気を読むだけのゲームになります。

・明確な正解がGMの頭の中に存在する。
・だが何が正解かを客観的に推理することができない。
・ゲームを進めるためにはGMの顔色を読むしかない。
・読み損なうと失敗する。


ツイートでも書きましたが、これは、洗脳の手法そのものなのです。

洗脳の手法

典型的な洗脳の手法は以下のようなものです。


・対象は不快感を与えられますが、その理由がわかりません。
・不快感を与えるのは指導者(あるいは、指導者に従うもの)です。
・しかし、指導者は自分では何が正しくて、どうすべきなのかは、きちんと言いません。謎めいたことを適当に言います。
・結果、対象は不快感を避けるための合理的な思考ができません。
・唯一できるのは、指導者の顔色を見て常に気に入られようとすることだけです。
・そのようにして対象が指導者に従順になった時に、対象を褒めてやれば、指導者への従属は強化されます。
・最終的には、対象が自分で、指導者につきしたがう理由を作り出します。


DV、家庭内暴力とかも同じですね。理不尽な暴力をふるいまくって自分の顔色を読ませて、時々抱きしめてあげる、という。


TRPGって、これが簡単にできてしまうという問題があります*1
GMは、PLの理解できない理由で、失敗、不快感を与えることができるわけです。一人のPLの行動を、全体の不利益である、と断ずることもできます。
そのようにして悪意もなく無意識で、PLを支配することができます。他者を支配することは、ある意味、気持ちのいいことなので、無意識にそうなってしまうのは非常に危険です。


それを防ぐためには、どうしたらいいでしょうか?
自主性というのは、話し合いの基盤があって議論も反論もできるところに育ちます。
そのためには、指導者は「自分は、これはこのような理由で正しいと考える」というのをはっきり表す必要がありますし、それに対して自由に質問できたり反論できたりする必要があります。
だからこそ、デザイナーは、「このゲームはこう遊んでください。これが楽しいのです」ときちんと述べ、GMも「今回のセッションは、こんなセッションで、こう楽しいです」というのを明確にする必要があるのです。
GMの権限はここからここまでというのも明確にする必要があるのです。
明確にした上で初めて、それに従うことも、意見を出すことも、反対することも自由になります。

*1:書き添えておきますと、別にTRPGに限らず、指導者のいるゲームや集団では常に行うことができます。だからこそ、そうしないように考える必要があります。

架空世界の常識と良識〜ラビットホール・ドロップスの感想 その2〜

要約

架空の世界*1を遊ぶTRPGにおいて、ゲーム内の常識や良識がどうあるべきかは、単純には決めらない。


よって、それをどうするかはシステム、ゲームデザインで、示す必要がある。

常識について

ファンタジーを舞台にしたTRPGにおいて、何がアリで何がナシかを決めるのは大変に難しい問題です。
世界設定は重要な手がかりです。しかし、全部のことが世界設定に書いてあるわけではありません。
ルールも重要な手がかりとなります。「1レベルの戦士が、1レベルのゴブリンと戦うと、これくらいの戦力比になる」ということがわかります。
ですが、ルールだけではわからないことも沢山あります。
現実の知識を援用する点もあります。「中世ヨーロッパではこうなっていた」といったものです。とはいえ中世ヨーロッパには、ファンタジーRPGのような、ドラゴンや魔法使いはいなかったでしょうし、また「中世ヨーロッパ」といっても時期も地域も大変に広いですし、専門家でも意見が分かれることも無数にあります。


ファンタジーRPGなどの架空世界ではなく、現代日本等が舞台でも、同じ問題は起きます。現代日本にオカルトや非日常の要素を入れたものは、同じ問題が起きますし、仮に現代日本の日常をプレイするゲームであっても、「現実なら皆の認識が常に一致する」とわかったものでもないのです。

ゲーム内の良識について

ゲーム内の良識については、さらに曖昧になります。
その世界の道徳の何が善で、何が悪か。何をすると村人から感謝されて、あるいは石を投げられるか。人それぞれ良識も違う上で、どのあたりが普通か?


これらについてもルールや世界設定は重要な手がかりとなりますが、「誰が読んでも誤解なく意見が一致する」ことはありえません。
様々な食い違いが起きるでしょう。

ゲーム外の良識について

世界設定に沿っており、ルール的にも問題がなく、そのキャラクターの生い立ち、精神にも一貫している行動があったとして、それが全部OKかというと必ずしもそうではありません。人によっては、そこに不快感を感じる場合があるでしょう。


例えば「Aの魔法陣」では、行動の描写を細かく行うことで、難易度を低下させるルールがあります。
そんなわけで、「戦闘で相手を意気沮喪させる」場合、いかに、自分の攻撃が痛くて、えげつないかを細かく描写することはルール的に推奨される行動となります。
それは、相手を殺さずに捕まえようとする慈悲深い行動であるかもしれません。
しかしまぁ、当たり前ですが、それを聞いた人が不快に感じる場合もあるでしょう。


このあたりをどうするかというのは、ゲーム内のルールや世界観などでは、対処することが難しくなります。

意見を一致させるデザインと、一致しない時の対処

これらの問題をどうするかは、最終的にはプレイヤーの問題でもありますが、ゲームデザインの問題でもあります。


ゲームデザインにおいては、まずできるだけ「意見が一致する」ようにして、そして、「一致しなかった場合」の対処も考えます。


意見が一致するデザインというのは、ゲームの方向性、やりたいことを明確にし、一貫させることです。
たとえば、D&Dのスターターセットでは、
ダンジョンズ&ドラゴンズという名前である。
・ダンジョンの中で、戦士がドラゴンと戦っている箱絵である。
・ダンジョンでモンスターを倒したり罠をクリアしたりお宝を手に入れたりすると経験点が入る
・ダンジョンのルールや、戦闘ルールがメインである。
・ダンジョンに潜って、モンスターと戦うゲームである、と何度も説明されている。
となっています。
これ全部において、「なるほど。このゲームは、ダンジョンに潜ってモンスターと戦ってお宝を得て成長するゲームなんだな」とわかるようになっているわけです。
上にあげたのは、非常に大雑把なものであって、実際には、もっと細かいレベルで、D&Dがどういうゲームかを、くっくり、はっきり、わからせるように工夫がされています。
もちろん、D&D以外のTRPGでも、デザイナーは、それを目指しています。


その上で意見が異なる場合もあります。
そうした場合の対処も書いてあります。
「ダンジョン・マスターである君は、ルールに関して疑問や意見の食い違いが生じた場合は最終的な結論を決める立場にある。何か問題が起きた場合には、以下のガイドラインが参考になるだろう」
そのガイドラインには、「ルールについての議論で時間を無駄にするな」「公平」「気配り」「楽しもう」といったものが並んでいます。
FEAR社のTRPGに付属するゴールデン・ルールもだいたい同じものです*2


あらゆるデザインと同様、これらも進化する過程にあるでしょう。ゴールデン・ルールやD&Dガイドラインが完璧というわけではありませんが、いずれにせよ「意見が割れた場合の対処」はシステムにおいて重要な点といえるでしょう。

ラビットホール・ドロップス

前回、RHDの感想で私が書いた点は、上記の問題の裏返しと言えます。


童話風のデザインだが、戦闘ルールがあり、騎士や魔術師といったクラスがあるが、戦闘は必ずしも推奨ではなく、人は絶対に死なない。
単純に考えて、デザインが矛盾しています。
より細かく見て、「剣や魔法の炎による戦闘があるが、人は絶対に死なない」「あらゆる質問に答えさせる特殊能力」といった内容も、その解釈や運用について、ゲーム内の「常識」「良識」の意見が別れてしまう点です*3


もちろん、ルールや世界設定が一見、矛盾しているゲームは沢山あります。
たとえば「ダブルクロス」は、名前からして「裏切り」ですし、友情を大切にするルール(ロイス、パス)と、友情を捨てるルール(タイタス化*4)があります。
しかし、このゲームの場合は、「人間としての生き方とオーヴァードとしての生き方が矛盾する中で頑張る」という点に集約されるべくデザインされてるのであり、「矛盾」自体が共有されるべきイメージなのです。


RHDの場合、配布分のルールを読む限りにおいては、どこに意見を集約させるかがわからない。
また、意見が異なった場合にどのように処理するかも書いていない。

勇み足

私が、これらの点を気にするのは、ラビットホール・ドロップスが、

 そんなRPGは面白い遊びというだけではなく、教育や障害者支援に有効ではなかろうか、と考えて行動している方々がいます。
 想像力を豊かにしたり、コミュミケーション能力を高めたりする効果、また自己実現による満足感を得ることにより、回復や成長の効果が考えられます。


 このゲームは、そのような活動に用いるために作成されたRPGです。

とある点です。


TRPGでゲーム内の常識、良識についてもめることは多々あります。最悪、それが心の傷を作ることもあります。
児童や障害者の支援目的で行うのであれば、そこは通常以上に、注意すべき点であることは言うまでもないでしょう。


そもそも一口で教育、障害者支援といっても、様々な子供や障害者がいます。伏見氏自身が書いた記事
【テーマ連載】CBT的アプローチのセッション運営(第1回): Analog Game Studies
でも、相手によって違うプレイスタイルを書いています。
ですが、ルールブックにおいては、そうした状況で、どのようにゲームを運用するかは、全く書かれていません。


また、ここにおける記述は、いくつも批判が寄せられています*5 *6
これらの批判について、伏見氏は、

 寄稿くださった早瀬以蔵先生、WEB上にてご指摘とご教示をくださった滝野原南生先生をはじめ、本論へのご意見やご批判、危険性についての迅速なご指摘に感謝いたします。


 論の進行と共に、その実運用、危険性や限定性についてと段を踏んで言及する予定でありました。


 しかし本論が治療をテーマとするものであることを踏まえ、そのリスクに対してより慎重に扱うべきものであるということ、それはむしろ『最初に』提示するべきであった、また、この論が「独り歩き」する危険が多大にある、とのご批判はたいへんに的を射たものであり、首肯いたします。
(中略)
今後Analog Game Studies上で公開していく内容につきましては、ソーシャルワークTRPGとの関係を主軸とした研究と実践の模索という形に方針を変更させていただき、公開すべき進展がありましたら、その成果をご報告させていただきたいと考えております。

【テーマ連載】CBT的アプローチのセッション運営(第1.5回): Analog Game Studies


と書かれました。
ですが、今また、普通のTRPGのシステムを一般向けに公開し、「教育や障害者支援活動のために作成されたRPG」といっています。


伏見氏や、あるいは専門家の人が、RHDを使って、うまく支援できる可能性を否定するものではありません。
一般のプレイヤーの方が、お子さんや、その友達と一緒に楽しく遊べたという体験も聞きますし、それは素晴らしいことです。
ですがしかしそれは、TRPG一般と、支援する相手の両方についての技術、またプレイヤーとの信頼関係があってのものでしょう。
少なくとも、「このシステムなら、そのへんの普通のTRPGマスターや、TRPGを初めて遊ぶ教師、指導者でも円滑に問題なくプレイできる」といったものではありえません。
TRPGシステムの提示は、「独り歩きする」危険については、論の比ではありません。


TRPGを用いた支援の可能性自体を否定するものではありません*7
ですが、今の状況で、支援活動のためのTRPGと言うのは、あまりにも問題がある行為でしょう。

*1:現実、現代日本等を舞台にするゲームでもフィクションである時点で架空の世界です

*2:GMが最終判断を下すことを強権的として嫌う場合もあるでしょう。自主性を引き出そうとするゲームであるならそれが望ましくないという考えもわかります。それならそれで、意見が分かれたり対立したりした場合に、どのような処理、対応をするかは決めておく必要があるでしょう。

*3:その使用、解釈に「良識」を求めるというゲームコンセプトなのかもしれませんが、現実と違う架空世界の良識が一筋縄でいかないことは書いた通りです。そうしたプレイは、往々にして、「GMの考える良識」を周りの人間が空気を読んで従おうとするゲームになります。

*4:初期の場合。最近はタイタス化には、例えば裏切りのような強いイメージは減っています

*5:http://playreport.seesaa.net/article/198207335.html

*6:http://analoggamestudies.seesaa.net/article/198691904.html

*7:ただし、 http://analoggamestudies.seesaa.net/article/198691904.html 参照

ラビットホール・ドロップス感想

伏見健二氏の、TRPG、ラビットホール・ドロップスの感想です。
http://www.facebook.com/RabbitHoleDrops
http://www.blueforest.jp/~fushimi/RHD/
以下の感想は、フリー版のみを参照にしています。

システム

ラビットホール・ドロップスのシステムは、おおざっぱに以下です。
・クラス
・能力値
・一般行為判定
・クラスごとの特殊技能
・ターン処理/戦闘ルール
・うさぴょん(お助けキャラ)
標準的なTRPGのルールという形ですね。
クラスは、騎士、旅芸人、王子/王女、商人、魔法使いの弟子、カエルの6種類。


特殊能力は、騎士なら倒した敵を味方にできる、商人は取引ができる、魔法使いの弟子は呪文が使え師匠と相談できる、等です。
ある程度、データ的な裏付けがあるのは、魔法使いの弟子の呪文くらいで、あとは判定等がなく、ロールプレイ的に処理してゆきます。


ルールとして割いている分量が一番多いのは、ターン性の処理、戦闘周りなので、私がこのルールで遊ぶとしたら、普通に戦闘ゲームかなと思います。
クラス紹介のところでも、
騎士:ほとんどの敵は、その剣の一閃で蹴散らされてしまうでしょう。
魔法使いの弟子:暗闇で光を灯し、敵を炎で焼く!
なんてありますしね。
ところが……。

ストーリー

冒険の物語にはアクションと戦いがつきものです。
(中略)
ただしあまり暴力的なものはのぞましくありません。
工夫をしないで、都合の悪いものを排除したり。
理解しあわないで、暴力で言うことをきかせたり。
そういうのはあまり好きじゃないです、と最初にお断りしてからゲームを始めると良いでしょう。
(中略)
このゲームでは、どんな危険なシーンの描写であっても、人が死ぬというのはナシです。
(戦いについての注意点)

さっきのシステムと合わせると、こうしたプレイ方針は、かなり難しいと言わざるえません。
戦いが二次的で、話し合いメインで解決する童話的なお話をプレイするTRPGは、それはそれで面白いわけですが、その場合、「騎士(ほとんどの敵は、その剣の一閃で蹴散らさる)」とか「魔法使いの弟子(ファイア:目標に30ダメージを与えます)」とかは、罠になります。


だって、騎士をやるなら剣で切り刻みたいですし、魔法使いの弟子なら、ファイアで大ダメージ与えたいですもの。


戦闘を楽しんでもらいつつ、それを都合の悪いものを排除するような暴力的なものでなくして、パーティ全員に楽しんでもらえるシナリオ、セッションというのは……時間をかければ考えつけないことはありませんが、かなり難しいとは思います。

シナリオ

(以下、シナリオ「裏山のリンゴ」の内容に踏み込んだネタバレになります)
実際のところ、どのようなプレイを想定しているのかで本体付属の基本シナリオとなる「裏山のリンゴ」を見てみます。


・老婆の依頼を受ける
・途中の雑魚敵を倒す
・りんごを守る大蛇をなんとかする


といった流れです。
この大蛇は、戦闘はできるものの強く、またダメージを与えてもすぐに復活します。
この大蛇をなんとかするには、途中で登場する、変装した魔女から魔女のペンダントをもらう必要があるのですが、具体的にどうしたらもらえるかは記述がありません。
また、夕暮れ、あるいは夜にゆくことで大蛇を回避できるのですが、これも、どうやったらそれがわかるのかは記述がありません。


正直な感想を述べると、このシナリオに書かれている情報だけでプレイするのは無理です。

プレイング

いや、そうは書きましたが、もちろんプレイングはできます。
自分がこれをマスタリングする場合を想定するなら、プレイヤーとNPCとの会話次第で色々な情報を出したり、プレイヤーが考えた作戦、アイディアを拾って誘導したり、お話を進めたりすることで、面白くプレイすることはできるでしょう。
「夜になると大蛇が消える」は、進行がとどこおった時に、「もう夜だ。なぜか大蛇はいない」という形でストーリーを進行させる意味があるというのもわかります。


ただ、当たり前の話ですが、こうした判断をするには、TRPGの経験あるいは能力が必要とされます。


このあたりは、各種キャラクターの能力にも関連します。
たとえば、騎士の「倒した相手を仲間にする能力」は悪く考えると「奴隷化」ですし、旅芸人は「相手に質問して必ず答えてもらえる能力」を持っています。これも質問次第ではヤバいことになります。これ、「質問内容によっては相手が敵になることもあります」と書いてるんですよね。
つまり「相手は嫌な質問には答えない」ではなくて、「相手はどんな質問でも答える。ただしそのあと敵になる場合がある」なわけです。


こうした能力を良識的なところに落ち着けて、うまく捌くには、GM、PLの双方に経験、能力が必要となります。

プレイ層

上記で書いた通り、ラビット・ホール・ドロップスを遊ぶには、TRPGのプレイングに関する経験、ノウハウが必要であり、システムが軽い分、そうしたノウハウに頼るタイプのゲームであると判断します。


一方、ラビット・ホール・ドロップスの著者紹介を見る限り、初心者向けTRPGを意図しており、また「学校教育・課外活動・障害者支援・病児支援など」への利用を想定においています。
TRPGを遊んだことがない人たちの間で、しかも、教育や障害者支援の目的で行うには、あまりにも無理があり、正直、危険ですらないかと思うのです*1


童話的な世界観で、無茶な戦闘よりも話し合い、工夫を大切にするTRPGを作りたいなら、別のやりようがあるのではないか、と、思います。

*1:フェイスブックにおいてデザイナーとの交流が計られており、そこで学べるという側面もありますが、通常の商業流通をしている時点で、交流がないユーザーも配慮すべきと考えます

AGS様への質問

【活動報告】Analog Game Studies第5回読書会報告&イベントのお知らせ: Analog Game Studies
AGS様の第五回活動報告を拝見しました。
多岐にわたる活動をされているようで、何よりです。
ゲーミフィケーション――〈ゲーム〉がビジネスを変える』(NTT出版)は、私も積読なので、この機会に紐解こうと思います。
さて、その中で、以下のような記述がありました。

『方法としてのフィールド・ノート』は、AGSメンバーの「社会調査」に関する活動が増加している現状に鑑み(「アイヌ」研究、文化政策論、発達障害支援等)

 現状、Analog Game Studiesでは広義の「ゲーミフィケーション」に分類される、さまざまな活動を行なっており、その中には商業媒体での翻訳業務や、企業・福祉団体へのアドバイスも含まれます。そうした問題に引き寄せて話し合いが行なわれました。

ここで述べられている発達障害支援や、福祉団体へのアドバイスというのは、以下の記事で書かれていた、CBT的アプローチの続きかと思われます。
【テーマ連載】CBT的アプローチのセッション運営(第1回): Analog Game Studies
一方、CBTについては、滝乃原様から、以下の様な批判も出ています。
http://playreport.seesaa.net/article/198207335.html
これについては、AGSからの応答はありませんでした*1
福祉アドバイスに「ゲーミフィケーション」を応用するのは素晴らしいことですが、その一方、責任を伴うことでもあります。
かつて、CBTについては、以下のような質問メールをお送りしましたが、お返事をいただいておりません。
メールを出した時点より、時間は経っており、AGS様のスタンスや方法論も変化しているとは思いますが、その変化を含めて、お答えいただければと思います。
専門知識が必要な部分で、どのように責任を担保するかが重要であることは論を待たないと思いますので。
どうかよろしくおねがいします。

 お世話になっております、xenothです。
【テーマ連載】CBT的アプローチのセッション運営(第1.5回)を拝読いたしました。
 大変興味深い内容である上で、一点質問があります。

 今回は、主に早瀬様の問題提起に関する立場表明というところから始まっており、
CBT的アプローチのセッション運営の重要性について書かれておりましたが、
そうしたセッションの問題性、娯楽性については、先ごろの記事で早瀬様が細かく
批判しておりました。
 それについては、細部の直接への反論がなく、両論併記になっていると理解しています。

 さて、xenothは精神に関する問題については門外漢なので、基本的に専門家の
解説を信頼することにしています。
 今回、早瀬様については、「福祉的病院施設に勤める30代の男性医師です。専門は小児科。
特に精神疾患心身症発達障害と重症心身障害を専門とし、成人の精神科での
勤務経験もある」とのことでした。
 一方で、伏見様の記事についても
「・本稿はすでに、(精神科医を含む)精神保健や臨床の専門家、あるいは相互支援の
現場にいる方々から高い評価をうけていた。」
 とありまして、専門家同士の意見が対立している状況です。
 参考にするために、伏見様の記事をサポートされる専門家の方々の、より詳しい
情報をお聞きしたいと思います。
 論において、専門家の権威を論拠とするのであるなら、そこには専門家としての責任が
生ずるわけで、早瀬様がされているように、具体的な、お名前や専門分野をきちんと
述べるか、そうでなければ「専門家としての判断」は表明しないというのは基本的かつ
大切な対応だと理解しております。
 どうかよろしくお願いします。

*1:伏見氏個人の応答はこちらにありますが、私から見て、滝乃原氏の批判には答えられていないと思います。http://togetter.com/li/129325

ぐだぐだの進化

要約

TRPGのセッション中の「ぐだぐだ」とされるものには、セッションを豊かにするものと、阻害するものがある。
前者は、セッション内容に対するブレストとして機能し、後者はプレイヤー間の対立を深める「ぐだぐだ」である。

いわゆる「ぐだぐだ」というもの

TRPGセッションにおいて、「ぐだぐだ」と呼ばれる状態が存在します。
進行を妨げるおしゃべり、くらいの感じですが、TRPGセッションの経験がある人には、自分を含め「あのおしゃべりが楽しいんだ」という経験がある人は、結構いるのではないでしょうか?


普通、ぐだぐだしている、というのは、あまりいい意味で使われませんが、TRPGにおいて、それが良いことでもある、というのはなぜでしょうか?

未完成であるということ

「進行を妨げる」と書きましたが、実際のところ、TRPGの「進行」とは何でしょうか?
TRPGは、基本的に*1GMが準備したシナリオに沿って進行してゆきます。


ただし、多くのTRPGにおいて、この「シナリオ」は未完成なもので、セッションにおけるプレイヤーの行動、GMの判定を持って広がってゆくものです。
最初から最後まで完全にGMの想定内である必要はなく、むしろそれを超えるほうが面白い、というのがTRPGの特徴です。


「シナリオ進行=GMの想定」から外れる行動をプレイヤーが行う時、それをうまく処理できれば、TRPGは面白くなります。うまく処理できないと、こじれたり、悪い意味でぐだぐだになります。


整理しましょう。
TRPGは、未完成のシナリオを、プレイヤー全員とGMで広げてゆくことで面白くなるゲームです。
この時、広げるためには、当初想定されていた進行を変える必要があります。
これが、「進行を妨げる」ぐだぐだが、重要である理由です。

ブレインストーミングと共有

さて、シナリオの進行から外れること=「ぐだぐだ」とは限りません。
「ぐだぐだ」には、だらだらとどうでもいいことを話しあうというニュアンスがありますが、シナリオから外れるだけならそういう会話をせずとも、プレイヤーとして、そういう行動宣言をすればいいだけのことです。


では「ぐだぐだ」=「どうでもいいことを話すこと」には何の意味があるかというと、発想を促す意味があります。


シナリオの進行から外れる、というのは、本来、それによってセッションが面白くなることを期待してのことです。
では、その「面白くなるアイディア」ですが、良いアイディアを出すときに大切なのが、緊張を抜いて、気軽に色々なアイディアを出し、それを皆で転がしてゆく、いわゆるブレインストーミングの手法です。
お分かりと思いますが、「ブレスト」と「バカ話」って、ほとんど同じものなのです。
つまり、みんなで、ぐだぐだとバカ話をする中で、良いアイディアが出てくるわけです。
また個人が思いつく、良いアイディアが、他の人にとって、楽しいかはわかりません。そこの距離感を調整するのも、グダグダです。


例えば、セッション中に、良いアイディアを思いついたとしましょう。
ボス敵らしいNPCが、自分の兄だったとしたら面白いんじゃないかと考えるわけです。
あるいは、もっと過激に、自分のPCがボス側につきたい、というアイディアかもしれません。


この時、ぐだぐだ抜きで、「よし、じゃぁ俺は、ボスの味方をするぜ」と言う際は、様々な摩擦がありえます。


まず、言う側も結構緊張します。自分のアイディアが面白いのかどうか悩みますし、そうやって緊張すると良いアイディアも出にくくなります。
言われる側も急にそういう発言をされると、他のPLやGMは、次にどういう行動をすればいいか、咄嗟に思いつかないことがあります。
次に、よく考えても、やっぱりそういう行動をしてほしくない場合もあります。
かといって「迷惑になるかもしれないからアイディアを出さない」というのは、つまらないし、ストレスも貯まるものです。
また、「想定から外れることを行うTRPGの面白さ」も失われます。


ここで、ぐだぐだの出番です。
行動宣言ではなく、まず馬鹿話として、「じゃ、俺がそのボスに寝返るのとかどうよ?」とか「寝返ってみたりして」と言ったとします。
これだと気軽に話せますし、そうすることで雑談で色々な展開が生まれます。
「なら、俺のPCはこうするぜ」とか「こういうのはどうよ?」とか、様々なアイディアが現れ、全員で転がってゆくわけです。
最初のアイディア自体には無理があっても、そうやって転がしてゆくうちに、欠点が修正されて、良いアイディアに育ってゆきます。
そうやってくうちに、全員が、その展開を気に入ったのなら、「OK、それでゆこう」となるでしょう。


もちろん、そこまでいかずに、ひと通りみんなで笑ってそれで終わりになることもあるでしょう。
そのようにセッションに採用されなくても、言った側も言われた側も、それなりに楽しい時間を過ごした、という点が重要です。


このように、脱線・逸脱を含みつつ、最終的に面白いセッションに貢献するのは、良いぐだぐだと言えるでしょう。
固定したシナリオを持たないタイプのセッションの場合、プレイ中に先の展開を決める割合が大きくなるため、こうした、ブレスト的なぐだぐだが、より重要となります。
例えばシナリオクラフトは、大雑把に言うとストーリーの展開をダイス目で決めつつ、ダイスで出たイベントの意味を補完し、ストーリーを創りだしてゆきます。「なんで、ここでこんなイベントが!?」というのを皆で大喜利的に考えるわけです。
シノビガミ」を始めとするサイコロフィクションシリーズは、できる行動宣言をボードゲーム的に整理・集約することで固定されたシナリオを廃する一方、その行動宣言の内容をふくらませてゆきます。
「ゲーム的には、この一手が正しい」というのがあり、PCが実際にその一手を打つ過程や理由を「ぐだぐだ」で肉付けしてゆくわけです。

悪いぐだぐだ

それに対し、悪いぐだぐだというのもあります。
それは、ルール解釈に関する論争や、セッションの進行、他のプレイヤーの行動に対する異議などが、長引くことです*2


こうした議論が長引くことの問題は、意見の対立を煽ることで楽しいセッションが阻害されることです。


ルール解釈や、セッション進行等について、全員が納得できる意見なら、すぐに採用されるわけで長引きません。
長引くということは、対立の種があるわけです。つまり、プレイヤーAにとっては望ましいが、Bにとっては望ましくないといったような。
その結果、望まない結果を誰かに押し付けることになります。


判定を行うこと自体は重要ですが、その際に議論して下手に時間をかければかけるほど、感情的な対立が深まるので、さっさと片付けるのが良いでしょう*3

ぐだぐだのシステム化

こうした「ぐだぐだ」、すなわち、シナリオからの逸脱、セッション中でのバカ話の有効活用は、システム面からもアプローチされています。


「ぐだぐだ」をシステム化する方法論には、xenothが知るかぎり、「矛盾」と「キーワード」、「評価」の3つのアプローチがあります。


「矛盾」でわかりやすく根源的なのは、セッション中に振るサイコロそのものです。
例えば、戦闘中のクリティカル、ファンブルなど、サイコロというのは「ストーリー的にあってほしい数字」を乱数によって裏切る作用があります。
GMもプレイヤーもその矛盾にウケて、「今のはこういうことだ」「ああいうことだ」とバカ話をし、展開に組み込んでゆきます。
例えば、「肝心な場面でファンブルするうっかり屋の戦士」といった設定がそこで生まれ、取り込まれてゆくわけです。


設定の矛盾を創りだすことを目的とするなら、戦闘中のファンブル以外にも様々な方法が見えてきます。
最近の多くのゲームでキャラクターメイキングの際、様々な設定をROC*4するのも、それによって生じる様々な矛盾、ボケからブレストを促進する意味もあります。


次に、「キーワード」です。
ぐだぐだなしゃべりは、ぐだぐだであるがゆえに、拡散、脱線しすぎる場合もあります。
ある程度の脱線は、有用ですが、あんまりセッションと関係ない話で盛り上がりすぎてもいかんわけです。
そうした時に、共通するキーワードがあると、セッションに集中しやすくなります。


こうしたキーワードは、ゲームシステムのキーワードでもあります。
「ヒットポイント、あと3。死にそうー」というのは、ゲーマーなら共感でき、話題にしやすい話でしょう。
この考えをさらに進めると、より面白い設定や展開を作ることに特化したキーワードがあれば良いことになります。


様々なゲームがありますが、『ダブルクロス』は、その良い例でしょう。
ダブルクロス』において各キャラクターが所有する「ロイス」は、ゲーム的に重要なリソースであると同時に、キャラクター間の関係性(ロイス、Sロイス)、自分のキャラクターの設定、能力(Dロイス)等を明確に意識させることで、重要なキーワードとなります。
「侵食度」も同様に重要なキーワードです。
ダブルクロスにおいては、侵食度、ロイスから始まる、雑談、トークが多いわけですね。
ダブルクロス起源ではありませんが、PCナンバーも同様に、キーワードとして機能します。


そういう単語があることで、「PC1的には、ここはこうじゃね?」といった話がしやすくなるわけです。
この「PC1的に」は「主人公」とか「ヒーロー」に近いものですが、同じものではない。主人公やヒーローといった一般的な擁護は、人によって理解や印象が異なるので、ゲーム的に定義される専門用語を作ることで、こんがらかることを避けているわけです。


ブレストで大切なことは、自分の考えた意見を言うだけでなく、「お、それ面白いね」と認め合い、転がすことです。誰も意見を評価しなかったら、ひとりごとの集積でしかありません。
この「お、それ面白いね」「それ、いいね」と言うのをシステム化することで、「ぐだぐだ」に流れを与え組織化する方法論があります。
天羅万象」シリーズの因縁ロールは、因縁に関係するロールプレイを自分で申告し、GMが認めてダイスを振ることで評価が行われました。
続編の「天羅万象・零」では、GM以外のプレイヤーも気軽に評価に参加できるようになり、よりブレスト的になりました*5
天羅万象・零」では、他にも関係性のキーワードを直接ゲームリソースで交渉・調整する「邂逅表」システム等、様々な形で、ブレストを促進するルールがあり、当時の「世界最速」を名乗ったのは伊達ではないといったところでしょう。

ビジョンと変革

こうしたシステム化は、TRPGのシステムの全てがそうであるように、未だ発展途上であり、これからも面白い挑戦が様々に現れるでしょう。
一方、そうした新システムが現れることで「TRPGとはこういうものだ」という固定概念が崩れることがあります。それに対する反発として、「こんなのはTRPGではない」とか「このデザイナー/会社/集団は、信念を曲げた」というものがあります。


私はTRPGの可能性は、より豊穣なものであり、多様的であることが大切だと考えています。
ある思想を実現するために新たなシステムが作られる一方、そうして作られた新しいシステムによって「こんなことができるようになった」「じゃぁ、こんなことを試してみよう」という発想が広がります。
そこがいいのではないかと思うのです。

*1:シナリオレスなTRPGシステム、セッションも様々に存在します。これらは、後述するように、ぐだぐだと深い関係があります

*2:異議が出ること自体は悪いことではありません

*3:繰り返しますが、議論が出て結論を出すこと自体は悪いことではありません

*4:ロール・オア・チョイス。ダイスを振ってもいいし、表の中から好きなものを選んでもいい、という手法

*5:その流れの先には例えば「異界戦記カオスフレア」のフレアのやりとりがあります。