伝統ゲームとアルゴリズム
伝統ゲームと現代
AGS様で草場氏の連載が、更新されました。
伝統ゲームを現代にプレイする意義(第2回): Analog Game Studies
今回は、伝統ゲームの変遷に踏み込んだ興味深い内容です。
こちらでは伝統ゲームの意義の一つは、長い時間残ったこと、即ち無数のテストプレイに晒された点にある、と結論しています。
囲碁将棋などは二千年のテストプレイの結果である、というのは確かにその通りで、考えさせられることの多い視点です。
伝統ゲーム、特に現在でも盛んにプレイされている多くのゲームは、実質的にテストプレイが繰り返され、無数の淘汰をかいくぐって現存しているからこそ、伝統ゲームたりえている。こうしたことは広く「伝統」一般にかかわる現象であろう。しかもその本質がアルゴリズムであるゲームは、その他の歌舞音曲や芸能の類に比べて、それを取り囲む社会の変容から影響を受けにくいと考えられる。もちろん文化現象であるからには、影響を受けないということはありえないのだから、あくまで程度問題に過ぎないのではあるが、少なくとも現在もプレイされている伝統ゲームは、そうした淘汰圧を跳ね返して残存、あるいは変容してきた内実の結果である。
さて、ここでは、ゲームの本質をアルゴリズムと定義しています。
こちらはもちろん、比較の問題で、という話ではありますが、ふと思ったことがありますので、書いて見ます。
花札の話
社会の変容とゲームの関係で面白いのは、花札です。
花札は、元々、ポルトガルから入ってきたトランプが原型です。
12か月折々の花が4枚ずつ*1、というのはトランプの構成をそのまま変えたものですが、数字が書いてないので、単純にトランプのゲームを遊ぶ場合、ある意味プレイしずらい点もあります。
これは、トランプが日本で流行った際に大変人気が出た一方で、賭博禁止によって弾圧されたため、そのために「一見して賭け札に見えない」ようにデザインされたからです。
一方で、デザインが変更されることで、新しいゲームのパターンも生まれます。こいこいの「月見で一杯」や「花見で一杯」といった役は、現在の花札でなければ有り得なかったわけです。
数学的なアルゴリズムの観点から見れば、花札とトランプは同一です。
それが違った進化を遂げたのは社会の影響であり、現在でも、それなりに生き残ってるのは、そこから生まれたデザインや意匠の影響が強いと言えるでしょう。
盤双六と絵双六
これを理解してもらうには、日本の絵双六を考えてもらえば分かりやすいだろう。少なくとも現代日本の大人が、ゲームの楽しみとして絵双六をやることは私にはあまり考えられないが、いかがだろうか。
こちらも、一つ思うことがあります。
双六というと、白河法皇の、三不如意、すなわち「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」というのがありまして。
自然の脅威と敵対武装勢力はともかく、ゲームの出目くらいなら時の天皇が本気でごり押しすれば、なんとかなりそうなもんですが、そこをせずに同列に並べてるのは、ゲーマーだなぁとか感心したりしますが、それは余談。
実は、この「双六の賽」の双六は、サイコロ1個振って、出た目だけ進んで止まったマスの指示に従うよのスゴロク(絵双六)ではなくて、盤双六、すなわちバックギャモンなんですね。
バックギャモンは、現在でもプレイされている二人対戦ボードゲームで、二個のサイコロを振って自陣の複数の駒を敵陣に送り込み、攻撃・防御・布陣の概念がある大変に面白いゲームです。ご存じなくて興味のある方は調べてください。
恐ろしいことに平安時代も、現在と、ほぼ同じルールでプレイされていたとされていますが、もちろん細かい点でいくつかの違いはあるようです。
現在のスゴロク、絵双六は、盤双六から発展したと言われています。
日本において、盤双六は、江戸後期には廃れてしまいます。その説は諸説ありますが、さてさて。
絵双六と盤双六を比べた場合、ゲームのアルゴリズムから見た面白さという点では、盤双六が圧勝です。
なにせ、絵双六は、駆け引きも戦略もなく、ただサイコロを振るだけですから。
にも関わらず、盤双六から絵双六が生まれ、盤双六が廃れた時も絵双六は残った。これはどうしてか?
これは、ゲームの本質や、生き残りが、必ずしもアルゴリズムだけによるものではない、という一例でしょう。
絵双六の面白さ
ゲームデザイナーとして、絵双六を見た場合のメリットは、色々な双六を簡単に作れることです。
たとえば、AKB48が流行った。じゃあゲーム化して、一儲けしよう。そう考えた時、双六なら、簡単にAKBのメンバーの名前や写真、各種新曲、最近のイベントネタを織り込みつつ、ゲーム化できる*2。
AKB48将棋とか、AKBトランプとかも面白いですが、これらの場合、「メンバーの姿」を意匠化するだけにとどまり、「新曲発表」とか「ミュージカル開催」みたいな部分までは、ゲーム化しにくい。
要するに、基本汎用システム+ランダムイベントチャート+美麗イラストなわけです。
この時、基本システムは、軽くていい、軽いほうがいい、というわけです。
昔の人も、当然、同じことを考えて、様々なジャンルの双六が出ており、芝居双六やら、春画双六といったものがあります。
現在も、さすがに素の双六自体のプレイは減ったかもしれませんが、「○○版人生ゲーム」とか「○○版モノポリー」なんかは、全く同じ路線ですね。
つまり、絵双六というゲームは、アルゴリズムの外の「意匠」そしてそれを取り巻く「社会の変容」こそが、重要な部分である、と言えるわけです。
もう一つ、話をするなら、双六は、すなわちパーティーゲームであり、賭博でもあるということでしょう。
王様ゲームには勝利条件も敗北条件も明示されてないけど、それ故に盛り上がる。カラオケの選曲でウケを取るには、場合に応じた様々な戦略があるけど、それは単純に、ボードゲーム的にルール化できる性質のものではない。数学的に考えた場合、丁半バクチには、あまり戦略がない。
それらは、ゲームのルール自体ではなく、そこに集まる人間のやりとりの中で、活性化される性質を持っている、というわけです。
そうした点を理解すれば、AKB48ファンが楽しんで遊べるAKB双六は現在でもデザイン可能なわけです。
ゲームの本質
このあたりのことは、もちろん、草場氏はご存じのことでしょう*3。
そうした点を細かく書いていったら、本の一冊や二冊では終わりませんから、あくまで比較の問題、視点の提示と思います。
その上でxenothの感想として、伝統ゲームが伝統の中でアルゴリズムが磨かれてきた、という観点は非常に大事だと思いますが、その一方で、ゲームの楽しさの中で、アルゴリズムによるものが、必ずしも全て、あるいは本質ではない、という点も、指摘しておきたいと思います。
xenothの好きなTRPGは、「ゲームの本質が(ボードゲーム的な)アルゴリズム」と言われると、ゲームじゃないとされかねないので、余計な念を押したくなるのでした。