ローズ・トゥ・ロードと21世紀

以下は、岡和田氏の「忘れたという、その空白の隙間で−−門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』」のxenothなりの読解と感想になります。
門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』: 21世紀、SF評論
「21世紀、SF評論」に門倉直人論を書きました。 - Flying to Wake Island 岡和田晃公式サイト(新)

理解できない

21世紀、SF評論のサイトで、岡和田氏の『ローズ・トゥ・ロード』に関する論考が発表されました。
自分なりに読んでみたのですが、率直な感想は「何が書いてあるのかわからない」でした。


各文単位で意味が理解できない、というわけでは必ずしもないのですが、それらがまとまった時に、何を指しているのか、何を言いたいのかがどうしてもわかりません。

言語遊び

岡和田氏は、『ローズ・トゥ・ロード』最新作(正式名称『Wander Roads to Lords』以下、『Wローズ』)を「言葉遊び」の側面から捉え、「言葉の意味を解体し、再構成すること」を評価しています。
またそこにおいて「逸脱」が重要な役割を果たしていると指摘しています。


さて、この「解体と再構成と逸脱」ですが、様々な解釈ができます。
一つにはこれは、「元の文章の意味と全く違う形に読み替える」と言った行為を指すことになるでしょう。
一方で、人間の言語活動というのは、個人個人が言語を再解釈することであり、再解釈の際には、解体と再構成は常に含まれる。
そう考えれば、「人間の言語活動一般」という具合に捉えることもできます。
後者の場合、どんな小説でも詩や論文でも、私がこの記事を書いて、あなたが読んでいることも含めて、すべての言語活動は、再解釈であり、再解釈である以上、解体や逸脱も含まれています。
もちろん、TRPGも言語活動の一環である以上、全てのTRPGは、解体と逸脱を含む再解釈であるわけです。


要するに、「解体と再構成と逸脱」というのは、すごくラディカルな意味にも取れる。
一方で、すごく普通の話にも取れる。
例えば『Wローズ』が「解体と再構成と逸脱」をしている、という場合、『Wローズ』は「元々の言語の意味を完全に解体し、全く違う意味を持たせる」システムである、と捉えることもできるし、一方で、「普通のTRPGと同じく会話の中で言葉を再解釈してゆく」とも捉えられる。
そういう幅の広い言葉であることを確認しておきましょう。


さて、実際には、どちらなのか、あるいはその中間なのか?
それらは『Wローズ』というゲームの中にあるわけです。

間テキスト性

 ただし、このギミック(引用者注:『Wローズ』が、「言葉決め」で単語を選ぶ際、好きな本や資料を使ってもいいというギミック)を物語論の立場から捉え返せば、この様式は『ローズ・トゥ・ロード』が間テクスト性を「規則」の中にあらかじめ設定した、特異な「遊戯」と見えることもできるのではなかろうか。本稿ではこの観点から考えを進める。

岡和田氏は、以上のように書いています。
間テクスト性」を「規則の中に設定する」とは具体的に、どういうことなのか?


間テクスト性とは、私の理解では、おおざっぱに、何かの文章を引用する時、その引用によって様々な意味変化が生じる、ということだと理解しています。
その「意味変化」や「引用」の範囲については、先に述べた「解体と再構成と逸脱」と同じく、非常に幅が広いものになります。

『Wローズ』と言葉決め

ここで、『Wローズ』の「言葉決め」のシステムについて検討しておきましょう。


TRPGで、キャラクター、人間を表現する時、様々な方法がありますが、馴染み深く一般的なのが、方式、能力値+職業+技能方式です。ドラクエ方式というとわかりやすいでしょうか。

しょくぎょう:せんし
のうりょく:かしこさ2、つよさ7、すばやさ3、うんのよさ6
スキル:いっとうりょうだん

みたいなやつです。
行動に際しては、こうした数値を比べ合って、判定を行います。
たとえば、スライムに攻撃する時は、つよさとすばやさを比べます。
自分のつよさ7に対して、スライムのすばやさが4、お互いにサイコロを振って、出た目を加えて、戦士が大きければ、戦士の攻撃が命中、逆ならスライムが攻撃を避けた、とかするわけです。
実際のドラクエやTRPGでは、もう少し複雑な数式を使っている場合が多いでしょうが、「数値で表す能力」を使って「数式で判定を解決」という基本線は変わらないものが多いです*1


『Wローズ』の場合は、ちょっと面白いシステムで、まず「つよさ」や「かしこさ」といった直接的な能力値(に相当するもの)はなく、「髪」や「仕草」、「眼差し」、「声色」と言ったものになります。
その内容も数値ではなく、「言葉」になります。
「言葉」は、「言葉決め表」で決めます。言葉決め表というのは、『Wローズ』の世界観にあった様々な単語を並べた表で、トランプを引くことで、たとえば「恋」「老い」「威厳」「穏やか」「炎」「銀」「ヒマワリ」「イノシシ」といった単語が決まります。
この場合は言葉を二語ずつ使うので、これによって、たとえばキャラクターが

「恋に老いた」髪
「穏やかな威厳の」仕草
「炎の銀を宿した」眼差し
「イノシシとヒマワリの如き」声色

と、言った風に、決まってゆきます(多少の語尾変化等はOKです)。なんとなくファンタジーっぽくなってきましたね。でもイノシシとヒマワリの如き声色ってどんなのでしょう。
こうした「恋に老いた」や「炎の銀を宿した」等を、「風景」と言います。
では、これらの風景は、どんな風に使うのでしょうか?
「つよさ4」とかなら、「つよさを必要とする局面で、サイコロを振って判定する際の基準とする」とかわかるのですが、「恋に老いた髪」は、具体的にどう使うのでしょう?


それを解決するのは「響き合い」というシステムです。
自分と相手の風景に、共通するものがある時、相手の風景にアプローチできます。
たとえば、「イノシシとヒマワリの如き」声色の持ち主は、「イノシシの剛力を宿す」槍と、「イノシシ」という点で、響き合う要素があります。
そのような呪われた力を持つ槍の持ち主が、あたりの災厄となっているのでしょうか。


この時、相手の槍に自らの風景を重ね上書きすることができます。
槍は「イノシシ+剛力」を「イノシシ+ヒマワリ」で上書きされた結果、「ヒマワリを食むイノシシの飾りの槍」になりました。
そのようにして槍の呪いは解けた、というわけです。
『Wローズ』の世界では、たとえば「イノシシとヒマワリ」の声音が槍に語りかけ、それによって槍に取り付いていたイノシシの怒りが解けた、というような解釈をされるのでしょう。


このようにして、「混沌の呪縛」と呼ばれる、様々な障害を、言葉と風景の力で祓う/元に戻す/均衡を得るのが、『Wローズ』というゲームの目的となります。


もちろん、最初から都合良くそんな「響き合う言葉」があるとは限らないので、『Wローズ』では冒険しながら、様々な風景に出会い、言葉を集めたり取り替えっこしたりして、うまい言葉を探してゆくゲームになっています。


面白いのは、言葉決めの際、ゲーム中の表を使わずに、好きな本をぱらぱらめくって、適当に単語を指さすことで代用してもいい、と、書かれていることです。

ロゴス中心主義と脱構築

 『ローズ・トゥ・ロード』においては複数の参加者たちが、相互に言葉を交換し合うこと−−相互干渉性(インタラクティヴィティ)−−がプレイの前提となっている。こうした相互干渉性によって引き起こされることは、自らの言葉が「他者」によって別な意味を与えられるという「意味づけ」だ(*9)。むろん単独でも「もの語る」ことは可能だが、その場合においても創造された「物語」は、絶えず内なる「他者」による「意味づけ」を必要としている。すなわち言葉の「変容」に伴い、否が応にも参入してくる「他者」による「意味づけ」を、『ローズ・トゥ・ロード』では外部のテクストへの参照性を導入することで乗り越えようと試みているというわけだ。

『Wローズ』のゲームでは、先ほど述べたように「言葉を集める」ことが基本となっています。
そして、多人数で遊ぶ時は、お互いに集めた言葉を交換したり合成したりするルールがあります。これが「自らの言葉が「他者」によって別な意味を与えられるという「意味づけ」」ですね。
外部のテクストへの参照性というのは、先ほど述べた、「言葉決めの際、表の代わりに、好きな本を使っても良い」ということだと思います。


で、「「他者」による「意味づけ」を、『ローズ・トゥ・ロード』では外部のテクストへの参照性を導入することで乗り越えようと試みている」とある部分が、わかりません。
「他者による意味づけ」って、乗り越えないといけないものなのでしょうか?


一般的な文芸等の長い文章が違う意味に読み替えられる、という話の場合は、「おいおい、俺の意味を勝手に歪めるなよ」といった反発を感じることもあるでしょう。
でも、『Wローズ』の場合、拾ったり交換したりするのは、単語単位です。
自分が拾ってきた単語が、別の組み合わせで面白い意味を持ったりするのは、「おお、なるほど」という感じで楽しいし、最初からそれを前提でプレイしているわけですが、それを「乗り越える」のは何に対しての話なのか。


また、言葉決めの際に、好きな本を使うことで、それって乗り越えられるものなのでしょうか? どのように乗り越えられるのでしょうか?
ここがよくわかりません。

 しかし『ローズ・トゥ・ロード』の終着点は、シュレーゲルの言うような観念論哲学と自然の形象が融合が融合した「新しい神話」を志向しながら、かつ言語という媒介物が本質的に志向する、ロゴス中心主義を脱構築ジャック・デリダ)するという意味で特異なものだ。ロゴス中心主義とは、認識の果てに真理を追及するという姿勢を指すが、それこそデカルト以降の西洋の哲学史の伝統において、真理はいわば近代的な「自我」との関わりにおいて考えられてきた。この点について、『ローズ・トゥ・ロード』のデザイナー、門倉直人はいかに考えていたのか。

「ロゴス中心主義を脱構築ジャック・デリダ)する」そうですが、「脱構築」というのも、これまた意味、適用範囲が非常に広い言葉で、単に「自分なりに解釈し直す」ということから、「元々の意味を完全に解体し、違った意味を与える」といったものまで幅広く捉えることができます。


またシュレーゲルの観念論哲学が、文学論である以上、「言語という媒介物が本質的に志向する、ロゴス中心主義」を持っており、『Wローズ』がそれを脱構築していると言いますが、本当にそうなんでしょうか?


いやそうなのかもしれませんが、それって、ここで、しれっと言っちゃっていいことなのでしょうか?
「言語という媒介物」が「ロゴス中心主義」だというなら、この世のありとあらゆる小説、論文、その他すべての文章が「認識の果てに真理を追及するという姿勢のロゴス中心主義」であるという主張になります。
そして、『Wローズ』は、その全てに共通する、ロゴス中心主義を脱構築しちゃった! ということになります。
『Wローズ』がすごそうなことはわかりました。でも、具体的にどんなシステムで、乗り越えているのでしょうか?

ラディカルな読みと普通の読み

これ以降、岡和田氏の論考は、『Wローズ』自体の論考を離れ、門倉氏の「空白」「忘却」へのスタンスへの言及になっているので、一旦置きます。


細かい揚げ足取りのようになって申し訳ないですが、ここで言わんとしていることは、岡和田氏が、極めて広い意味を持つ用語を連鎖的に使っているため、その意図が取りにくい、ということです。


意味を強く取るのであれば、『Wローズ』は、意味の解体と再構成および間テキスト性といった人間の認知の中枢をなす概念をルールに落とし込むことに成功し、それによって「他者による意味づけ」を克服し、シュレーゲルの近代西洋美学、否、言語を媒介物とするあらゆる作品が本質的に志向するロゴス中心主義を脱構築した、驚天動地の作品ということになります。
SFで言うなら、『神狩り』や『バベル17』とかの超絶メタ言語的なシステムを想起しますね。さすが21世紀!


一方で、意味を穏当に取るのならば、様々なTRPGやTRPGに限らない様々な媒体が様々な形で取り組んでいる問題に対して、『Wローズ』なりの取り組みと一つの回答を見せた、ということになるでしょう。


こうした不明瞭な文章は、二つの点で、あまり誠実ではないと思います。


第一点として、まず、意味が広い言葉は、接着剤として使えるからです。
間テクスト性」の概念は、およそ、人間の考えるあらゆることに関して適用することができます。よって、このような言葉を接着剤として使うことができます。
自分が持っている持論があり、語る対象があり、横着してこれをつなげたい時に、こうした「接着剤」が便利となります。
(対象)(接着剤)(持論)
というわけです。
「このように対象には、間テキスト性が重要である。間テキスト性といえば、俺がいつもいってるこの理論である」みたいな手抜き文章ですね。いわば、対象をマクラ、ダシに使うわけです。これらは「対象の検討」としては質が低い議論なのは言うまでもないでしょう。


第二点として、二つの意味に取れるのは、デマゴーグの論法になるからです。
まずラディカルな解釈で洗脳しつつ、具体的なツッコミを入れられた場合に、穏当な解釈で「いやそれはこれくらいの意味だよ」とごまかすことができるからです。


このような解釈をされることは、岡和田氏の本意ではないでしょう。であるならば、明晰性が必要です。


前者であれば、それを証明する根拠が必要です。
後者であれば、メインの文章は、具体的な「『Wローズ』なりの取り組みと一つの回答」の解説になるはずですが、それは稿の中であまり触れられていない。


要するにどちらにせよ「『Wローズ』は、そういった理念をどのように実装したの?」という話に落ち着くわけです。

理念・実装・受容

TRPGに限らないと思いますが、作品は理念・実装・受容によって分析することができます。
作者が、こういうもの、こういうテーマを作ろうとした、という理念。
それを具体的な形にするために、文章を書いたり、彫刻したり、TRPGのシステムを作ったりという実装。
それを見た人間が、どう捉えるか、という受容。


TRPGを小説と比べた場合、「道具」としての比重が高いとは言えるでしょう。
TRPGは、それを使う人が、それを使って自分なりのお話、体験を作り出すというツールであり、この時、「受容」すなわち道具としての使われ方が重要となる。
解釈の多様性はどんなメディアにもあるので、TRPG独自の、というわけではありませんが、とまれ、「受容」の部分の在り方が大変に重要なジャンルである、とは言っていいでしょう。
そうしたTRPGを批評するのだったら、「理念」と「実装」、「受容」の三方に気を配った批評が必要と思う次第です*2 *3


そこにおいて岡和田氏の今回の話は、あまりにも「理念」に傾きすぎている。『Wローズ』の理念と岡和田氏が考えたものについて解説するあまり、その実装や、受容については省みられていない。
「実装や受容はおいといて、この理念が素晴らしいよ」というお話として聞くにせよ、その語り方が希有壮大で、解釈の範囲が曖昧すぎて問題を起こす可能性があるというのを指摘しました。

TRPG批評

以下は蛇足かもしれませんが、もし岡和田氏が、TRPG界とSF界の架け橋を志しておられる場合、もう少しTRPG全体に目を向けた批評をお願いしたいと思います*4


たとえば、新しいジャンルや文化を、それを知らないところに紹介するのなら、周辺のざっとした紹介を踏まえるのが礼儀でしょう。
「○○SF」(○○にはあなたがマイナーと思う国名)を紹介するなら、特定作品だけではなく、○○におけるSF事情、文化、歴史をさらっておいたほうがいい。

また本稿で登場する「魔法」についての考察は、門倉直人の『ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード』(1989年)や、復刻版に伴うサプリメント『タトゥーノ 〜“風に絵を描く”かりそめの魔法』(門倉直人監修、小林正親著、アークライト、2003年)を外しては語れないが、本稿はあくまでも物語論的なアプローチを基体とするので、ロールプレイングゲームのシステマティックな伝統にまで踏み込む余裕はなく、別の機会を待ちたい。

このように書かれているのは承知の上ですが、これでは「物語論的なアプローチ」というのが、「実装」と「受容」を捨て去った、都合のいいとこどり、と取られてしまう危険性があることは先に書いたとおりです。

この場合だと、『Wローズ』は、TRPGの中でどのような位置を占めるのか。
たとえば、『ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード』、『ファー・ローズ・トゥ・ロード』、『ローズ・トゥ・ロード』(2002年版)についての概観も。


物語を作成するというTRPGの試みは、どのようなものがあり、どのように変化して、その中で門倉氏の試みはどう位置づけられるか。具体的には同じく言葉決め、言葉遊びの要素を持つ『Aの魔法陣』や『ヒーロー・ウォーズ』等々のシステムとの位置関係は。


そもTRPGにおいて、「ルールを曖昧にして判断の自主性に任せる」というのは、「声の大きいGMやプレイヤーが他のプレイヤーを威圧してセッションを支配する」問題と裏腹であり、その矛盾に、各システムは、どう立ち向かったか、『Wローズ』はどう立ち向かったか(あるいは向かってないか)。
物語的な自由度が高いシステムと、そのプレイを円滑に実現させるためのシステムの相克は、TRPG批評において、決して避けることのできないテーマだと考えています*5


こうした観点がなく、『Wローズ』の理念のみをベースに物語論を語ることは、「この車は速いと書かれているから、とても速い」以上の議論にはなり得ない。
それはとても貧しいことだと思うのです。

*1:もちろん数々の例外があります

*2:TRPGでなくてもそうだよ、という気もしますが。

*3:作者の意図やテーマといった理念ではなく、テクストそれ自体を重視すべきだ、という立場もあります。その場合はその場合で、テキスト、すなわち『Wローズ』のシステム構成の検討が重要になりますね。

*4:TRPGが「もの語り遊戯」でも同じです。岡和田氏も述べておられる通り、「もの語り遊戯とTRPGの境界は曖昧であり、『Wローズ』だけが「もの語り遊戯」ではありえず、また『Wローズ』の作り出した「もの語り遊戯」のルールは、周辺作品、歴史との関係の中にあるわけです。

*5:それなしだと、極端な話「これを読んだあなたがたは、『指輪物語』とかを越える超絶すごいファンタジーを頑張ってプレイしなさい」という一文だけで、究極のTRPGが作れてしまうことになる。