会話型RPGの面白さを理論的に分析する時に文句を言われないようにする方法

要約

  • 理論を構築する際は散漫にならないように、方向性を設定する必要がある。
  • 「何が面白いか」といった議論で価値的に中立な理論というのはありえないために、特定の理論は必ず何かの価値観を否定する側面がある。
  • 理論に方向性を与え、他者の価値観を尊重する基盤として「実プレイ分」が存在する。
  • 「理論言うヒマにプレイしろ」という批判は、「理論を語るのが意味がない」という批判ではなく、「その理論には実プレイ分=実地検証が足りて折らず、有害である」という場合が多い。

メタメタ議論

会話型RPGにおけるメタ化: Analog Game Studies
さて、上記の齋藤氏の議論で、本論を外れますが、面白い示唆がありました。

 例えば私が
「会話型RPGの面白さを理論的に分析してみよう!」
 と言ったとする。


「自分語り乙(自分語りお疲れ様)」
「分析する前に自分のRPGライフ充実させろよwオレオレRPG論はつまらないんだよねww」
 と言った反応がでるかもしれない。

こうした反応は、本論をわざと横滑りさせる、メタ視点を悪用した議論であるという指摘です。
その通りで、論の考察を個人攻撃にすりかえるのはよろしくない。
一方で、「会話型理論の面白さの分析」について、直接の議論内容以外のところから批判が起きるプロセスについては、検討する価値があると考えます。
以下は、その検討です。

理屈と膏薬

理論の話をする時に一つ認めなければならないことは、「人間は屁理屈をこねることが楽しい」ということです。同様に、「屁理屈であっても否定されることは嫌」ということです。
これらの気持ちに自覚的になってない人は、「揚げ足をとられにくい屁理屈」をこねることだけに特化した議論を、はじめがちです。言うまでもありませんが、こうした議論には滅多に価値がありません。


揚げ足を取られにくい議論の一例が、「具体例を避けること」です。
特定の抽象論をどんどん積み重ね「それって具体的にどういうこと?」という質問を避けてゆくと、いくらでも屁理屈を積み重ねられます。
D&Dの面白さについて」よりも「TRPGの面白さについて」のほうが、揚げ足を取られにくい。


繰り返しますが、人間には屁理屈を言いたい欲があります。否定されたくない欲があります。無意識のうちに「揚げ足をとられにく屁理屈」に傾きやすい。
そうならないためにはどうしたらいいでしょう?


一つは屁理屈になりにくい縛りを入れることです。理論にある目的を設定し、その目的からずれたり間違ったりしたら、自他ともにわかるようにすることです。
もう一つは、抽象論の中に、具体例を常に意識し続けることです。


「理論にある目的を設定する」というのは、たいていの場合、理論の実用性につながります。
TRPGの面白さについて言うなら、「より面白く遊ぶためのテクニック議論」となるわけです。
「具体例を入れる」というのは、TRPGの面白さの場合、「実際にプレイした時起きること」ですね。体験談や、仮想的な体験談です。


こうしたものを意識することが「揚げ足をとられにくい屁理屈」にならないためのチェック機構として働きます。
もちろん、実用性や具体性と別のところの理論もありますし、必要な場合もあります。ただ、そうした理論は、実験を欠いた科学みたいなもので、あやふやでいいかげんになりやすいです。
目的や具体例を設定するのが理論的に不可能な話題ならともかく、可能な話題ならできるだけ設定すべきでしょう。
そして理論的に不可能な話題であるなら、自分の言っていることがいいかげんになりやすいことに、常にも増して自覚的であるべきでしょう。

価値観のぶつかりあい

さて、「役に立たない屁理屈であってもいいじゃん。屁理屈の中からたまに使えるものがでてくればいい」という立場は当然あります。
ある意味ではその通りなのですが、別の意味ではそうではない。
なぜなら、「よく考えない屁理屈」には無意識の偏見が反映されやすいからです。


フェミニズム論を研究される方ならご存じでしょうが、世の中、価値的に中立な論、理解というのはなかなか存在しません。
「TRPGの面白さ」についての論評は、多くの場合、特定の面白さを持ち上げ、別の面白さや価値観をけなすこととセットになっているのです。


たとえば「円滑に卓を回すために、お約束を利用しよう」という穏当な提案も、齋藤氏が言っているように、ステロタイプを無批判に受け入れることで、差別を再生産することにつながる側面もある。


特定のプレイスタイルを解説したつもりが、プレイスタイル間に、無意識に優劣をつける結果になる。TRPGを分類したつもりが、分類にはずれたものを「TRPG以外」という烙印をはる結果になる。
理論というのは、そういう恐ろしさがあります。

立ち位置を示すこと

このように理論は人を傷つけますが、だからといって、あらゆる理論を否定するのは逆効果です。それはそれで各自の偏見が永遠に修正されないままぶつかりあうことになってしまいます。


そうした中で、どのように自分の意見を主張すべきか、というのをフェミニズム論に習うのならば、一言で言えば「責任を持つ」ことです。


僕は、こういう立場の人間で、こういうのが好きでこういうのが嫌いだ。おそらくは、こういう偏見があるかもしれない。その上で、共通の理論を目指して、この理論を主張する。間違っていたらそれは僕の責任だ。
こうした態度が重要となります。
言い替えるなら、「この理論は、人間が書いたものなので政治的で偏見を含んでいる。含まないように努力してるが、含んでいたら俺の責任だ。だから批判してくれ」という立場です。



逆に、最悪なのが、わざと責任を主張しないタイプです。
「僕は君たちより一段上の視点から語っているので、万事中立だよ」といった態度や、「勝手に政治的立場とか読まないでね」といったものです。これらは、偏見の正当化の温床となりやすい。


おっと、抽象論が続きましたね。具体例にゆきましょう。
「僕はD&Dが好きだ。D&Dボードゲーム的な戦闘の部分が気に入っている。だから、以下のTRPG論は、TRPGの一般論について語ったつもりだけど、そういう偏見が入っている可能性がある」
これが、自らの立場を明確にする議論です。
そのように書いていれば、「もしもし、僕は、どちらかというとTRPGの物語的な側面を気に入っている「ストーリーテラー」好きプレイヤーだけど、君の論考にはこうした側面が欠けているんじゃないかな?」
という話が、スムーズにゆきやすくなるわけです*1


逆に悪いのが、そうした立場抜きで、抽象的な理論を語るものです。
「バーチャルテーブル理論*2においては、TRPGのあらゆる要素がトークンおよびその相互作用で表される。具体的なパフォーマンスとしての演技は、トークンおよびトークン移動の評価外であり、よってTRPGの本質ではない」といったものです。
この論は、「トークン化できる要素の多いTRPG」を高く(あるいは本質的だと)評価し、そうでないものを低く評価するという偏見があります。
偏見があるのはどのような論も同じですが、論の作者が、自分の偏見や立場を意識せず、表明しない時に、それは中立性を装った押しつけとなります。
こういう意見に対して、「で、あなたは実際に何をどうプレイしているの?」という意見が出るのは、論説そのものの否定ではありません。
自分勝手にメタ視点に陣取って嘘の中立性を装っている偏見に対して、具体的な共通基盤を作ろうというコミュニケーションの試みなのです。

自戒・自己研鑽・共通基盤

以上をまとめると、こういうことになります。

  • TRPGの面白さといった抽象的な論を語る際は、「目的」や「具体例」を強く意識し、論に明示することが重要。
  • 自分に偏見があることを自覚し、同じく偏見がある相手と話し合うために、その立場を明確にしてゆくことが重要。。
  • 異なる偏見がある人間同志が共通基盤を築くためにこそ、「共通経験」が重要。


ここにおいて「目的」≒実用性、「具体例」「自分の立場」「共通経験」≒プレイ経験です。
「TRPGの面白さについての理論」を語る時に、「実際に遊べ。話はそれからだ」という議論が出てくるのは、こうした基盤があるからです*3

*1:具体例としてわかりやすくするためにシステム名をあげましたが、D&Dストーリーテラーのシステムおよびプレイヤーの一般に、そうした安易な偏見があるという話ではありません。D&Dにせよストーリーテラーにせよ、様々なプレイスタイルを是認する仕組みがあり、様々な良い製品と素晴らしいプレイヤーを輩出していることは一目瞭然と思います。一目瞭然である有名な作品であるために、例として使わせていただきました。不愉快にさせて申し訳ない。

*2:架空の無駄に抽象的な理論です。「トークン」およびその「相互作用」が具体的に何かとかは明示しません。

*3:くだくだしく書きましたが、「TRPG一般の面白さ」を語る時に、「一般を語るなら色々なTRPGをやれ」「全部のTRPGをやってないというなら、何をやってるかくらいはっきりしろ」というのは当たり前すぎるくらい当たり前の話ではありますね。