没入と他者化

整理

AGSの齋藤路恵氏の記事を拝見しました。
会話型RPGにおけるメタ化: Analog Game Studies
興味深い内容で賛同する点も多いものでしたが、幾つか、自分の中ピンと来ない点がありましたので、xenothなりの整理をしてみました。
キーワードは「没入」と「他者化」です。

用語定義

さて、齋藤氏の議論における「メタ化」という言葉と似たもので、現代のTRPGでは「メタプレイ」という用語が一般化しています。
この「メタプレイ」とは、PCの視点、PCの利害だけで考えるのではなくて、PLの立場の視点を活用しようというものです。
メタプレイの一番基本的なものは、「PC的に正しいからって、他のPLに迷惑かけないようにしようね」というのが最初に来ます。ここにあるのは「意識的なメタ視点の活用」です。


一方、齋藤氏の議論の中における「メタ化」は、能動・受動の区別がないため、、

  • 意識的に外部の視点を持つこと(能動的)
  • PC以外の視点(だけ)で考えてしまうこと(無意識的)

の2点が混ざっていることに注意する必要があります。


齋藤氏は、メタ視点のバリエーションとして、他者化というのをあげています。
これは「ある視点に注意が向くことで他の視点が忘れ去られること、自分に利害関係のない他の視点が切り捨てられること」ということで、xenoth流に平たく言うと「自分のことを棚にあげた視点」ということになります。
後にあげる理由から、xenothとしては、他者化を二つにわけ、以下のような用語定義を行おうと思います。

  • 没入型視野狭窄(ゲーム内=PCの視点だけでしか見れておらず、ゲーム外=PL視点への配慮が抜けた状況。他者化の一形態)
  • メタ型視野狭窄(ゲーム外=PL視点だけでしか見れておらず、ゲーム内=PC視点への配慮が抜けた状況。他者化の一形態)
  • 意識的なメタ化(ゲーム内=PC視点と、ゲーム外=PLの視点の両方を持ち、意識すること)

没入しやすさと現実

さて、齋藤氏の記事の中では、基本的にはPLとPCの距離が近いほど、PLの住む現実と、ゲーム内の現実が近いほど、PLはPCに没入しやすい、という仮定があるように見受けられました。
PLとPCが近ければ、PLはより自分らしく振る舞えるから、というものでしょう。
ただし、「細部の限界」があるので、一部のプレイヤーは「破天荒な(=現実から遠い)」設定のほうが没入しやすい、と。


私の経験において、「物語世界が現実に近いこと」が没入度を高めるかというと、必ずしもそうでないです。同様に、「PCとPLの知識、立場が近いこと」も、必ずしも没入度に関係しません。これは「細部の限界」の問題とはまた別の話です。


没入、すなわち感情移入ができるかどうかは、まずそこに魅力的な感情があるかどうかで決まります。端的な言い方になりますが、たとえば、愛、あるいは正義。そうした好ましく魅力的な感情がある時、人間は没入しやすい。
だからこそ、現実から遠く離れたファンタジー世界、悪の大魔王を助けたり、囚われの姫君を救ったりする時に、我々は強い没入を得ることができます。
その際、PLがおっさんでも、PCが青年や少年、少女であることは感情移入を妨げません。


逆に、舞台が現代日本で「会社行って、毎日同じ決まり切った仕事します」というTRPGを仮にプレイする場合、没入することは難しい。そこにあるのは「退屈」とか「苦痛」といった感情で、魅力的ではないからです。
故にそうしたゲームは没入するのではなく、メタ視点をメインとしてギャグや皮肉として遊ばれることが多いでしょう。


クトゥルフ神話TRPGなどホラー系のゲームにおいては「恐怖」という感情がありますが、この恐怖は一面魅力的ではありますが、本当に怖いのはいやだという心理もあり、アンビバレンツな性質を持ちます。
だからこそ、クトゥルフ神話TRPGは、没入してプレイする場合とギャグ的に遊ばれる場合(自分のPCが発狂するのを見て楽しむ等)があるわけです。


細かい点ですが、なぜ、ここを指摘するかというと、次項の差別問題で重要な意味を持っているからです。
もう一度確認しますが、ここでの齋藤氏の仮定は、

  • 没入しやすい=PCとPLが近い
  • PL/メタ視点でプレイする=PCとPLが遠い

というものでした。
そしてxenothの理論では、

  • 没入しやすい=PCが魅力的な感情を体験する
  • PL/メタ視点でプレイする=PCの体験がPCにとって魅力的ではない

ということになります。

没入型視野狭窄としての差別

さて、齋藤氏は、被差別ロールプレイの問題について触れます。

 ハーフリングが卑しいチビと馬鹿にされたり、エルフが高慢ちきの耳長と馬鹿にされたりする。


 だが、もちろん現実の差別が楽しいものであるはずがない。
 それが、楽しめてしまうのはなぜか?


 これらが楽しめるのはPLが結局のところ「自分は本当は(ゲーム外では)、ハーフリングでもエルフでもない」と思っている限りにおいてではないだろうか。

ここでは「差別されているハーフエルフ」と「PL」の立場が遠いとし、故にそれは「没入」ではなく「メタ/PL視点」で遊ばれている、と結論づけられています。
「差別されてるハーフエルフ」を楽しんでるのは「ネタ」であるから楽しいというわけです。xenothの分類によれば、「メタ型視野狭窄」ですね。


私はこれは間違いだと思います。


没入の項で述べた「魅力的な感情」の中には、「不当に迫害されたことへの義憤」が大きく存在するからです。
よって「快い被差別」は(ある種の妄想の中に)あります。
つまり、「私は不当に迫害されている!」と思うことは、「正義は我にあり!」といった自己満足、陶酔を与え、快感を伴う場合があるわけです。
現実の差別の中でお腹空かして強制労働している時においては、そんなことも思ってられないことが圧倒的に多いでしょうが、TRPGの中ならそうした「楽しい被差別」や「正義の戦い」がやりやすい。


よってTRPGにおいて、被差別ロールプレイが行われるのは、むしろ「没入型視野狭窄」の産物である、というのが私の理解です。
「自分は本当は(ゲーム外では)、ハーフリングでもエルフでもない」ではなく「私は現実でも(TRPGの中の都合のいい)ハーフエルフになりたい」という心情が存在する。


差別意識は、差別意識に容易に結びつきやすい。だから、差別が快感であるのと同じように被差別も快感となりうる。
ここは重要で忘れてはいけないことだと思います。

メタ型視野狭窄としての差別

齋藤氏は、また以下のようにも書いています。

「お約束で現実はそうじゃないってわかってる」
 という理屈は、他の視点の一部を抹消していないだろうか。抹消した視点が他者の痛みとつながっている可能性はないだろうか。新しい視点を手にしたつもりで、無意識に悪いメタ化を行っている、つまりネタ化している可能性はないだろうか。

このような問題も、また確かに存在します。ここで言われているのは「メタ型視野狭窄」ですね。
PCにとっては、その世界で生きている人間にとっては重要な問題を、メタ視点で見ることで、笑い話、ネタとして扱ってしまう。


PC視点に過剰に没入する時、我々は「差別が当たり前の世界で差別するPC」や「被差別階級に酔うPC」に同化してしまいます。
一方で、PL視点に過剰に没入する時、我々は「差別も虐殺もネタでしょ」という笑い話で済ましてしまいます。


皮相的な見方をすれば、それもTRPGの楽しみではあるのですが、どちらも、何か大切なものを失っている印象があります。


ここで重要なのは「意識的なメタ化」です。
PCへの過剰な没入については、それがゲームであり、様々な意味でPCやPLに都合のいい世界の出来事であることを銘記すること。つまり、PLの視点を補強すること。
重要な出来事を冷笑的に見ることについては、それがその世界の中にいるPCたちにとっては笑い事ではない、という意識を持つこと。つまり、PCの視点を補強すること。


このように、同じ「意識的なメタ化」といっても「被差別境遇に陶酔するハーフエルフ」と「差別ネタをお約束のギャグとして片付ける立場」は、ある種正反対になります。
「PC視点の欠如」「PL視点の欠如」そのどちらからも問題は生ずるので、それらを見分け、意識してゆくことが重要でしょう。

 会話型RPGにおけるメタ化は重要な楽しみの一つであり、自己に適応されれば現実社会への関心のきっかけとなりうる。しかし、安易な他者化に用いられれば、人を傷つけることになるだろう。

補足するのであれば、メタ化=メタ型視野狭窄=PL視点の暴走によっても人を傷つけるプレイは起きえますが、同時に、メタ化を失った、没入型視野狭窄=PC視点の暴走によっても問題は起きえます。
重要なのは、意識して双方の視点を持つことです。