DHとか反論ヒエラルキーとか

DHとは何か?

http://d.hatena.ne.jp/gginc/20091008/1254983384

 相変わらず反論ヒエラルキーが低いなあと思ったので寸評してあげよう。今回はDH2だね。精進してね。

DH2って何じゃらほいと思って、調べて見た。
おお、尊敬するポール・グラハムさんのコラムですね。
http://www.paulgraham.com/disagree.html
翻訳はこのへんかな?
http://tamo.tdiary.net/20080329.html

DH2. 論調批判

このひとつ上がったレベルからは、筆者ではなく、文章に対する反応が出てくる。そうした反応のうち最低のものは、論調に異議を唱えるという形態だ。
例:


この人がこれほど尊大な調子で ID (知的設計) 説を退けるなんて信じられません。

なんというかメタ議論になりますが、内容に関する吟味無く、「おまえはDH2だ」とか「DH4」だとかで終わらせるのは、それこそDH3(単純批判。根拠を出さずに単純に否定すること)なんじゃないすかね。

主眼は違うと言っている

 よくがんばったが,残念。おおむね予想通りだが,DH(反論ヒエラルキー)4止まりだ。相変わらず主張と関係のないところを論じている。

なるほど。DH4については、以下の通り。

DH4. 抗論

レベル 4 では、初めて説得力ある反論に到達することになる。これを抗論と呼ぼう。ここまでの反論はたいてい何も論証しないものとして無視できるが、抗論は何事かを証明するかもしれない。問題は、何を証明するかがわかりにくいということだ。

抗論は、単純否定に論理・論拠を加えたものであり、もとの主張にまっすぐ向かっていけば説得力を持ちうる。しかし残念ながら、微妙にズレたところへ向かうことが多いのだ。だいたい、感情的に言い争っている二人の話題が実はぜんぜん違っていたなんていうのはよくあることだ。ケンカに熱中するあまり、お互い賛成しているのに気づかないことさえある。

筆者の論点からズレたところを論じるのが正しい場合もある。相手が問題のキモをとらえていないと感じるようなときだ。しかしそれなら、ズレたところを突くぞ、とハッキリ言うべきである。

さて、ここには「筆者の論点からズレたところを論じるのが正しい場合もある。相手が問題のキモをとらえていないと感じるようなときだ。しかしそれなら、ズレたところを突くぞ、とハッキリ言うべきである」とあります。


私は、前回、「gginc氏の記事の主眼が「業界批判」でないことは明か。ただし、主眼でないところで、業界批判しちゃってるので、そっちのほうが問題」と書きました。
このように「ズレたところを突くぞ」とハッキリ書きました。

私は、ggincさんの主張を別に全否定してるわけでも、したいわけでもないのです。
そうですね。
たとえば、「日本が今の不況を乗り越えるのは困難だろう。理由として、世界経済の状況、民主党の政策、あと、日本人が人種的に劣等だから」という主張をしてる人がいたとして。
「不況を乗り越えるのは難しいことには賛成。でも、人種的に劣等ってのは、ちょっとまてよ、おい」という話になるわけです。


今回の場合であれば、例えば「システムを評価し、批評を充実させることは大切」という部分には、全く反論はない上で、「商業のイノベーションは遅い」という部分に疑義を持っています。

「個人」vs「自分たちユーザー」

 「それが首尾よく果たされたとして,どんな価値があるのか?」を明示しないと,他人にやらせる説得力は持てない。

全くもって、おっしゃる通りです。私がggincさんの議論で批判している点も、そこです。


「死にバラ」というゲームに「ファッキンチップ」というシステムがあって、批評されていない。もったいないなぁ、という話だけだったら、それはggincさんの意見です。特にツッコミどころはありません。


私個人は批評は大切で意味があると思いますが、したい人がする中で、良い結果をフィードバックすればよいと思っています。
ですから、「死にバラ」あるいは「ファッキンチップ」の批評がされてないこと単体には、特に文句はありません。他にもされていない批評は、沢山あります。それらの作品を面白いと思った人が論じれば良いでしょう。

 ですが,商業ではなかなか挑戦できなかった前衛的な表現への挑戦が,忘れ去られ,今頃になって「商業作品のイノベーション」として論じられてしまいかねない今の状況は,一体自分たちユーザーはシステムデザインというものについてどれだけ真面目に考えて来られたのか,疑わざるを得ません。

一方、このように、ggincさんは、「死にバラ」の批評を「自分たちユーザー」の問題と、拡大している。
「死にバラ」「ファッキンチップ」を論じる責任を、TRPGユーザー全体に拡大し、「真面目に考えてない」と批判している。


私は、先に書いたとおり、特定のゲーム、システムの批評は、そこに価値を見いだした人が(平たくいえば、それが面白いと思った人が)やるべき、と、考えています。
私も含むTRPGユーザーを、ggincさんは、「自分たちユーザー」として、「批評しろ。さもなくば不真面目だ」と言っているわけです。


良いですか?
ggincさんが言った通り、「他人に「特定のトピックに対して論じることに価値がある」と思わせたいのならば,自分でももっとがんばって,自律した「批評」を立ち上げる必要がある」のです。


であるのなら、ggincさんは、まず、「死にバラ」に対する批評を、「あ、なるほど。確かに死にバラに対する批評がなかったのは、自分たちユーザーの怠慢だった」と思わせるような批評を書く必要がある。
そうなれば、私も、喜んで、ggincさんの考える「自分たちユーザー」の一員として、批評に参加する気になるでしょう。


また、ggincさんの視点で、TRPGユーザーが全体として、様々なシステムを評価すべきである、とするのなら、「商業システムのイノベーションは遅い」という風に単純に断じるのは暴論であろうと思います。
そうした態度が、まさに、「死にバラ」の看過を生んだのではないかと思うわけですから。