失敗の概念について

アクション・クトゥルフ

システムのコンセプトに従わずに遊んで上手く行かなかったから失敗(ダメ)、という例と思われますが、正直、全く失敗でも何でもない普通の例だと思います(笑)。
(中略)
実に多種多様なジャンルをカバーしており、元のシステムのまま無茶して遊ぶ場合もあれば、改造データでバリバリ伝奇アクションをやってたり、公式にモンスター討伐に特化したクトゥルフD20、クトゥルフ・ダークエイジ、比叡山炎上などもあります。


上記程度のハメ外しで失敗云々言うのは到底お門違いもいいところである、というのが僕の認識です。バランス調整し直して遊べば普通に遊べると思うなあ。とりあえずPCのPOWは18で正気度90のPCばかりでガンガンいけば普通に行けるかと。武器が要るならクトゥルフNOWを導入して近代兵器充実で突っ込めばばっちりかのう。
http://simizuna.exblog.jp/11351009/

紙魚砂さんは、勘違いされているようです。
私は「クトゥルフでアクションをやろうとすること」自体が、間違いという話はしていません。


(未改造の)クトゥルフでアクションをやるのがシステムコンセプトと異なるということを「理解せずに」、コンセプトに向かないプレイをした結果、ゲームが破綻して、つまらないと感じたから、失敗なのです。

クトゥルフでアクションを行うまで

a.TRPGというと、D&Dしかやったことがない。
b.方眼紙にマッピングしながら進んで、戦闘で撃破するのが、TRPGと思ってる
c.「クトゥルフの呼び声」も、意味をよくわからずに、そう遊んだ。
d.その結果、誰も望んでいなかった、つまらないセッションになった。


これを失敗と呼んだわけです。


1.クトゥルフ神話のジャンルは多種多様である
2.一方、TRPG「クトゥルフの呼び声」の、基本コンセプトは、弱い人間が、強大な恐怖の前に狂ったり死んだりしながら頑張るというものである。
3.故に、TRPG「クトゥルフの呼び声」は、クトゥルフ神話の1ジャンルである伝奇ヒーローアクションをやるには、そのままでは適さない。
4.敢えて伝奇ヒーローアクションを行うのであれば、GM、PLとも、そのような認識を持ち、ハンドリング、プレイングを変えて、多くの場合システムも修正する必要がある。
5.そのように修正して遊んでみたが、初回は、うまくいかなかった。次はもっと頑張るぞ!


この場合の「5」と上記の「d」を一緒にしたらいかんでしょう。

システムコンセプトの理解

さてさて、紙魚砂さんの文章を私なりに読解すると以下のようになります。
第二世代TRPGは、再現するシチュが広いため、何をするかをユーザーが取捨選択する自由があり、ユーザーが試行錯誤していた。
試行錯誤における「失敗」は、プレイの過程であって、「ラスボスに負けた」とかと同根で、悔しくはあっても忌避されるものではなかった。


これに対して、第三世代TRPGは、特定のジャンル、ストーリー、シチュエーションの再現に偏っており、それを明示しているため、それから外れたのは「失敗」であり忌避すべきものとなった。


こんな感じでしょうか。

マインドセット

もう一度私の失敗例を見て見ましょう。


a.TRPGというと、D&Dしかやったことがない。
b.マップに地図を書いて、戦闘で撃破するのが、TRPGと思ってる
c.「クトゥルフの呼び声」も、よくわからずに、そう遊んだ。
d.その結果、誰も望んでいなかった、つまらないセッションになった。


ここにおいて、問題は「誰も望んでいなかったつまらないセッション」であるという点です。
「敢えてクトゥルフで伝奇アクションやろうぜ!」という前提で遊ぶのであれば、失敗したにせよ、それは予期できた失敗であり「次はうまくやろう」であり、「誰も望んでいなかったつまらないセッション」にはならない、という点です。


第二世代であろうが、第三世代であろうが、「誰も望んでいなかったつまらないセッション」がイヤなのは変わりません。

第二世代TRPGのコンセプトと再現範囲

例えば「トラベラー」というゲームがあります。
このゲームは、D&Dと同じ感覚で戦闘をすると、ひどい目に遭います。
D&Dが「英雄がバンバン戦って強くなって行く」TRPGであるのに対し、トラベラーは「等身大の人間が、智慧と勇気で活躍してゆく」TRPGだからです。
人は無限に強くなり、最後には神の領域に達することが出来る。それがD&Dの世界観です。
どんなヒーローでも、人は人。弾が一発あたれば終わる。ただの人が活躍するからこそヒーローと呼ばれる。それがトラベラーの世界観です。


D&Dで強くなれば、ザコ敵蹴散らして無双できますが、トラベラーでは、どんなに成長しても、大勢の敵に策無く突っ込めば死にます。成長するほど強くなるかというと、ベテランは年齢効果が入って弱くなったりもします。


第二世代TRPGにも、コンセプトは明確にあり、コンセプトを踏まえた遊び方をすることが重要となります*1


派手なスペオペをやりたい時に、俺ならトラベラーじゃないシステムを選びますが、敢えてトラベラーでやるなら、少なくとも「これはトラベラーじゃないよ。スペオペをやるために改造してるよ!」というのを、ちゃんと言わないことには「事故」るでしょう。

・リプレイはほとんどなく、コンセプトに則った遊び方が浸透していない。そもそもそんなものがあるかどうかすら不明

なので、これは間違い。第二世代TRPGにおいても、コンセプトは確実に存在します。
確かに、第二世代TRPGは、一般に、第三世代TRPGより再現の幅が広いです(GM投げっぱなしor電話帳サプリアタックとも言います)。


D&Dのつもりでトラベラーやったら事故るよ」という意味で、それぞれのコンセプト、再現範囲は確実に存在し、それを無視したセッションを強行すれば、dの意味で「失敗」することは間違いありません。
そこにおいて、第二世代と第三世代に違いはありません。

ケーススタディ:CLAMP学園と戦場まんが

で、場所によって遊び方が全く違うの好例としては、RPGマガジングレートに掲載されていた、

CLAMP学園RPGのシステムを使って二百三高地をやる」

というリプレイがありました(非常に面白かったです)。

あの記事は俺も大好きです。ちなみに「TRPG:サプリ01」掲載の「南溟の死闘」ですね。名前からわかる通り、二百三高地ではなかったかと。
これを行う際に、桂さん(のところのGM)が行ったことを見て見ましょう。


1.デザイナーはCLAMP学園を、巨大な学園で、はちゃめちゃな事件が起きて、主人公達がそれに翻弄される世界観であると理解した。
2.故に、CLAMP学園TRPGのシステム特性、コンセプトは、事件が自動で連鎖し、プレイヤーはそれに影響を与えるが、キャラは、事件を直接コントロールできない、というものになっている。
3.事件が自動で連鎖し、キャラは事件を直接コントロールできないのは、松本零士の「戦場まんが」シリーズの、兵士の立場に似ている。ギャグと悲劇という差はあれ、巨大な事件に翻弄される個人というコンセプトにおいて共通部分を見いだすことができる。
4.故に、「戦場まんが」を、CLAMP学園TRPGで遊ぶとうまくゆくのではなかろうか?


このような理解に基づいた、戦場まんがセッションです。だから記事として面白いのです。
クトゥルフのシステムで、伝奇アクションをやる」という安易さとは、全く正反対です。

・上手く回るならどっちでも良いじゃん
というのが第2世代に親しんだ人のスタンスかなあと思うのですが。

「上手く回す」ためには、システム特性、デザインコンセプトがあり、それの理解および共有が必要になるわけです。


この立場に近い形で、「クトゥルフ伝奇アクション」をするのなら、「クトゥルフの呼び声」の改造ではなく、D&Dなりなんなりの、戦闘をすることが面白いTRPGを持ってきて、固有名詞と舞台だけクトゥルフっぽくするという形になるでしょう*2

システムを選ぼう

1)セッション成功。全員が楽しければ成功、という概念
2)システムのコンセプトに則って遊ばずにうまく行かなかったら失敗

 1)はまあ、別にいいと思うんですが、問題は2)の方かと。2)の方は、多分どこにも明文化されてないでしょうが、こういう概念が発生した起源というのは第2世代TRPGの基本概念との際によって生まれたものだと考えていて

第二世代TRPGの頃から、「システムのコンセプトに則って遊ばずにうまく行かなかったら失敗」というのは、ありました。
「トラベラー」で戦闘シナリオをやる場合の、ツボ、基本線。
「RQ」で戦闘シナリオをやる場合の、ツボ、基本線。
D&D」で戦闘シナリオをやる場合の、ツボ、基本線。
戦闘シナリオがラブコメでも探索でも、道徳的葛藤でもなんでもいいですが、全部、それぞれにツボがあるし、デフォルトがあります。それを無視するなら、そのゲームで遊ぶ意味がない、というポイントが確実にあります。


逆の話、ブレカナで毎回マロウダーを殺すのがいやなら、改造して、マロウダーを倒さずに済むゲームを開発すればいいと思います。
かなり難しいと思いますし、全くお勧めしませんし、違うゲームを遊んだほうがいいと思いますが、
「事故」「地雷」として嫌われるのは、「ブレカナというシステムで、無理矢理マロウダーを倒さないこと」であって、「ブレカナを改造して、マロウダーを倒さないゲームをすること」では、ありません。

メリット、デメリット

システムで提示される『正しい』遊び方が明示されるようになりました。まあ、これにはメリットもデメリットもありますが、デメリットとしては

・「クライマックスが明示されないと、いつ終わるかわからなくてストレスを感じる」と声を大にして言う人が現れるようになった(笑)
・ラスボス戦闘しないと文句を言う人が現れるようになった
・ラスボスを説得して懐柔するとか、自分がラスボス側に寝返ると行ったプレイが否定されるようになった

終わりが見えないとストレスが感じて、プレイがダレるというのは、昔からある問題ですよ。
第二世代TRPGがうまく回っている時は、システムもしくはGMのテクで、うまくプレイヤーと時間配分を共有できている時です。逆の話、プレイヤーに文句いわれるようだったら、システム的に終わりを明示するゲームを遊んだほうがよろしいかと。
ラスボス戦闘しないと文句いう人、というのは、「クトゥルフの化け物が(D&Dに比べて)強くて倒せない!」という人と同じです。TRPGの世代関係なく、昔からいました*3
ラスボス戦闘しないと、あるいは、戦闘で倒す以外のプレイをしたいのなら、そういうTRPGを遊べば良いでしょう。

この辺の弊害については、デモンパラサイトで「まあ、戦いたくなければ説得でも良いじゃん」という概念が導入され、逆輸入的に最近のDXの公式のリプレイでPC自身がオーヴァードになる話が出てきて、やっとまともに日本的善悪観が遊べるようになってきたなあと感慨ひとしおなのですが。

別にデモパラ以外でも、ラスボスを殺さないでもいいTRPGって、たくさんあると思いますが……。
仮にそうだったとして、それは「俺のやりたいシステムが少ないなぁ」という話であって、FEAR社とはなんの関係もないでしょう。

*1:ここで書いたD&Dとトラベラーのコンセプトは、色々単純化しています。なのでまぁ言い過ぎの点、言い足りない点はあるでしょう。とはいえ、両者のコンセプトが違うこと自体は賛同いただけると思っています

*2:最近は、D20クトゥルフなりD20モダンなりがありますな。いい世の中です

*3:俺のクトゥルフの失敗談は中学の時である。誰にだって中学の時はあるし、恥ずかしい間違いや発言は、する。売れてるゲームの場合、それに基づいた間違いが多いのも、これも世代、システムに関係ない。