文学アレルギーと権力闘争

「文学」と呼ばれることの拒否

文学フリマで聞いた話。ある「ジャンル」(たとえばその時の例は、「やおい」だったが)には妙に「文学」嫌いな方がいて、たとえば褒めるつもりで「三島由紀夫を思わせる」というと極端なアレルギー反応を示し、自作がいかに「文学」的ではないか全力で論証しようとするらしい。すげえ後ろ向き。
http://twitter.com/orionaveugle/status/84145253786976258
(続き)こういうケースが貧しいのは、「文学」というものを恐ろしく狭く解釈していること。文学はもっと広く自由なもので、当然ながら「やおい」対「三島由紀夫」みたいな単純な対立では括れない(なお、これは「やおい」批判ではなく、いるらしい妙に「文学」アレルギーを持つ人への批判です)。
http://twitter.com/orionaveugle/status/84146384705560578
(続き)これは「やおい」だけの話ではなく、こういう事例は他のジャンルでも頻繁にあることだと思う。真に問題なのはこのことだ。「文学」アレルギーは百害あって一利ない。原理的には書かれたもののうちで品質の高いものが「文学」なのだとすると、自分で自分の了見を狭めているだけのことだから。
http://twitter.com/orionaveugle/status/84149013737246720
(続き)念のために補足しますと、これは「やおい」批判ではなく、どのジャンルでもある「文学」アレルギー批判について「やおい」も「文学」も両方親しんできた、とある優れた読み手/書き手の体験談を紹介した次第。私はこのジャンルをよく知らないので、不快に思われた方にはお詫びいたします。
http://twitter.com/orionaveugle/status/84150130328080384

岡和田氏の一連のツイートです。
「自作がいかに「文学」的ではないか全力で論証しようとする」というのは、個人的にも、大変心当たりのある行為です。
TRPGと文学性、娯楽性とか、色々似たような話はありますね。


文学というのが広く自由なものであって、拒否する必要がないという点については私も岡和田氏と同感です。
ただし、それをアレルギーというのは私は反対です。

誉める時は相手のことを考えよう

私はカエルが結構好きで、カエルの中ではモリアオガエルが大好きです。
モリアオガエルって非常に美しく可愛いと思います。
Forest Hip hop musician in Terrarium | Forest Green Tree Fro… | Flickr


ですから私が何かをモリアオガエルに例えるのは心からの賛辞なわけですが、だからといって前置きなしで女の子に「君、モリアオガエルにそっくりだね」と言ったら、わりと惨事になるでしょう*1


その時に、「生物としてのカエルの美しさ」とか「美しさというものを恐ろしく狭く解釈している」というのは論理的には正しいのでしょうが、論理的に正しいかどうか以前の問題なのは言うまでもありません。


これはカエルに限らず、「ゲルググを思わせる」とか「LHC(大型ハドロン衝突型加速器)みたいだ」とかでも同じです。


誰かと話す時は、相手のことを考えて、相手に伝わる言葉を探すべきです。
誰かを誉める時は、相手に伝わる褒め方をすべきです。
それをせずに、言葉が伝わらないことを憤るのは、逆ギレというものではないかと思うのです。

文学アレルギー

そのように十分気を使ったつもりでも、とにかく文学であるだけで受け入れられない、といった場合もあるでしょう。
では、なぜ、そのような「アレルギー」があるのでしょうか?

細かな志向性の違いはあれど、たとえば三島由紀夫から学べることは、いくらでもありそう、というかむしろ読んだほうがよいと思うんですけれどもねぇ。権威主義への嫌悪が別種の権威への信仰に基づくことはよくあります。 RT @fjmt033 文学という言葉が権威主義的に感じたりとかかな。
http://twitter.com/orionaveugle/status/84151737950277632
より正確に「権威主義への“この種の”嫌悪」としておきます。
http://twitter.com/orionaveugle/status/84198826046533632

ここでの指摘にある通り、拒否する理由のひとつは「権威主義」ではないかと思います。

「文学」と権威主義

やおいとして書かれた作品は、やおいであり、かつ、それ以外の様々な見方があります。
TRPGは、たとえば「娯楽」であり、かつ、それ以外の様々なものでもあります。
なのですが、ある種の言論は、実のところ権力闘争の道具として使われます。


「この作品は○○であって、××ではない」たとえば、「文学であるから、やおいではない」といった塩梅です。


こういう言論は、当然ながら、反発されます。
三島由紀夫を思わせる」と言われた時に起きる反発の原因は、そういうものではないかと思います。

文学コンプレックス

もちろん、そういう印象は、言われた側だけが持っている「文学コンプレックス」かもしれません。
文学と言っている側には、そういう意図は無いにも関わらず、言われた側だけが勝手にそういう偏見を持っている。
そこには岡和田氏が考えている通り、別の権威主義への信仰があるかもしれない。


ただし、この場合、両方考えておいたほうがいいと思うのです。
文学を好きな側は、自分の考えている文学の中に、押し付けがましい部分はないか?
文学が嫌いな側は、文学というものを押し付けがましいと決めつけてはいないか?


自分には権威主義はなく、相手にだけ権威主義がある、という決め付けは不毛でしょう。
文学権威主義にせよ、反文学権威主義にせよ、やってる側は自分が主義を押し付けてるとは気づかないものです。


「文学であるから、やおいではない」と直接、そのまま主張する人はいないでしょうが、「文学である部分が重要で、やおいであることはどうでもいい」と言った前提で物を言うこと、あるいはそのように読めてしまうことは結構あります。
もちろん、「こんなに面白いものが文学であるはずはない」といった逆の偏見もあります。

印象を作るもの

誰かが「「文学」というものを恐ろしく狭く解釈している」時、その理由は何でしょうか?


なんのことはなくて、自分の文学話が狭くつまらないから、相手が「文学って狭くてつまらないんだな」と思ってしまった可能性がある。


これは本当にマニアとして我が身を省みることなのですが、「どうして世間の人は文学の、TRPGの(あるいは他の趣味の)素晴らしさを理解しないんだ。みんな恐ろしく狭く解釈している」と叫びたくなる時は、確かにあるのですが、その理由の大半は、自分がつまらない話、相手のことを考えて、相手の興味を引けるような話をしていないからなのです。


気をつけたいものです。

*1:惨事にならずに微笑まれたら、惚れるなぁ。