趣味の奥深さを伝えるためにしてはいけないこと〜その2〜

ご意見ありがとうございます。

先程の記事について、嬉しいことにツイッター等でいくつか言及をいただきました。
http://d.hatena.ne.jp/xenoth/20110527/p1
共感される方もいらっしゃる上で、文章に懸念を表明されていた方もおりました。両方とも、ありがたい限りです。


懸念された方の意見は、xenothの理解では、このようになるでしょうか。

  1. 「何かを褒める際に他を否定しない」は、自分を律する基準としてはいいが、それで他者の発言を断罪するのは、よろしくない。
  2. 何かを、きちんと評価する際には、他との比較が必要となる。比較を禁止することは、批評を損なうことになる。

これらについては、言葉と、それ以上に考えが足りていなかったので、もう一度考え直して整理してみました。

他者を断罪しないこと

これについては、おっしゃる通りです。
前回の記事は、もともと「他人に受け入れてもらうために、どういう書き方が良いか」という方法論であり、また、何かを貶すつもりがなくても、ついうっかり、けなした書き方になってしまうことへの懸念でもありました。
ですので、お互いに、けなさないように気をつけようというのが本意であり、結果的にけなす書き方を断罪することが望ましくないのは言うまでもありません。


その上で、「何かを誉めるために何かをけなす」記述には、xenothは強い反発があるので、つい、感情的になり筆致が強くなった部分もあると思います。
ご指摘に感謝します。

評価と比較

次のご意見ですが、何かをきちんと評価する際に、他の何かとの比較が必要となるのは当然のことです。
評価をする際に、優劣をつけていけない、とすると、きちんとした評価ができなくなり、「みんな一等賞」的な、生ぬるい環境を産みます。
そうなれば、たとえばTRPGなら、工夫された作品も、手を抜いて、いいかげんに作られた作品も一緒くたに「面白い」とされ、良い作品を作ろうとするモチベーションが失われます。
悪しき相対主義というやつです。
それがよろしくないことは言うまでもありません。
こうした態度の強制は、最終的には人の努力や個性それ自体を否定し、社会の崩壊さえ生みますが、さすがに話が行き過ぎました。


このあたりは、ご指摘いただいているとおり、論が拡散しすぎて筆が滑っていたので、もう一度まとめることにします。

  1. 自分が好きなものを、誰かにも好きになってほしい、という場合において
  2. 相手が好きな(好きかもしれない)物を、好きな気持を踏みにじるのは
  3. 無用な反発を産むので気をつけたほうが良い

という点になります。


もちろん、これは一般論であり、様々なTPOに応じた変形や例外があり得ることは言うまでもありません。
また、最初に述べたように、これは気をつけるべき点であって、結果としての発言を咎めるものではありません。

真摯に批判するということ

相手の好きな気持を批判しないほうがいい、とは、書きましたが、これももちろん絶対ではありません。


時には誰かと一対一で向い合って、相手のプレイスタイルや生き方それ自体に批判的に向かい合うことも大切です。
もちろん、これは気楽にできることではありません。
自分のこれまで生きてきた経験と人格、そして信用を賭して真剣に行うべきことです。


そうした真摯な批判において重要なのは、自分の信ずるところを述べつつ、かつ、自分が絶対に正しいと思わず、自身の責任を明確にして、相手の意見に耳を傾ける姿勢を持つことです。

空気のような批判

実際のところ、ありがち、やってしまいがちなのは、そうした正面からの責任ある批判ではなく、なにかの正しさを盾にとって、押し付ける批判です。
「○○が優れているのは皆が知っている当たり前のことである(だから△△は優れていて、××はクズなのである)」といったタイプの言論です。
こうした「皆が認める正しさ」を前提に、特定の意見を押し付けることを同調圧力と呼びます。


たとえば、「努力して学ぶことは素晴らしい」という常識を前提に、現実や学問と結びついた作品を高く評価する一方、「楽して遊べるスタイル」を、見下して「単なる娯楽」、「受身の時間潰し」といった言葉で呼ぶ言論です。
逆に、「手間がかからないことは望ましい」という常識から「手間がかかるスタイル」を「苦行」として見下す場合もあります。


あるいは、「オリジナリティの素晴らしさ」という前提から、既存の作品の再現性をもったTRPGやプレイスタイルを、「パクり」といって貶める場合があります。
逆に「よくわかることが望ましい」という常識から、オリジナリティがある世界設定を読み込もうともせず、「作者のオナニー」といったレッテルを貼る場合があります。


実際のところ、やりがいのある努力は好ましいですが、無駄な努力を押し付けることは正当化できません。
創作において、模倣とオリジナリティは密接な関係にあり、どちらを捨てても成立しません。
単なる一般論としては、「努力して学ぶことは素晴らしい」も「お手軽なことは望ましい」も、「オリジナリティは素晴らしい」も「再現性という機能の重要性」も、どれも正しく、どれも同時に成立するわけです。
逆に言うと、それらは特定の作品はプレイスタイルを見下さす理由にはならないわけです。


その上で立場を明確にして、たとえば、「私はTRPGは○○であるべきと思うので、××というシステムは、ここが望ましくない」という批判を行い、対話を続けるのであれば、良い結果を生むでしょう。


ここで問題としているのは、そうした真摯な批判ではなく、あたかも空気のようにそうした常識を押し付けて何かを貶めることです。

空気のような批判をしないために心がける点

さて、何度も書いている通り、こうした空気のような批判、同調圧力は、多くの場合、意識せずに、「ついつい」やってしまうことです。
そうしないためには、どうすれば良いでしょうか?


xenothが思うに、それは、「何が正しいかを、根底からよく考えること」です。
「空気のような批判」の問題点は、おおざっぱな正しさを盾に、思考停止と同調を強いることです。それは書いてる側にとっても同じです。


例えば「作品Aは、新世代のTRPGであり、旧世代の作品とは一線を画している」といったタイプの文章があります。
この文章が言っていることは、「Aは新しい」というだけです。
具体的にどこがどう新しいのか、新しいのはいいとして、それは価値がある新しさなのか、それとも単に奇を衒っただけなのか、といった点は無視されています。


こうならないようにxenothが心がけているのは、単純な比較を廃して、直接的、具体的に書くことです。そうすると、自然とAの、どこがどう新しいのか書く必要が出てきます。。
「作品Aは、○○というシステムによって、××が表現できます」となるわけです。
で、そこまで書けば、「そのXXは面白いんだろうか?」と自問自答することになります。
「新しいから素晴らしい」という思考停止ではなくて、具体例として「Aのここが新しいことは、どのような意味を持つか」というところに考えが至るわけです。


比較に頼らずに物を書く癖を作るのは、このように思考停止を避ける第一歩と言えましょう。


そのように評価を具体的に書くことを心がけた上で、最終的に比較があったほうが良い場合は、そのように書けば良いでしょう。
「作品Aは、新システム××により、このような表現が可能になった。これは、これまでのTRPGでは表現できなかった部分であり、新世代TRPGの幕開けと呼ぶにふさわしい」といった具合です。


安易な評価を排して書くというのは、このように、他者への配慮だけでなく、自分が客観的に物事に向かい合うためにも有用なテクニックであるというわけです。
どうか有効に使って、よりよいTRPGライフをお送りください。