「海外のわけのわからないもの」に向きあうために

海外のわけのわからないものより身近なサブカルチャーを褒めろ? - Flying to Wake Island 岡和田晃公式サイト(新)
岡和田氏のブログの記事で、共感するものがあったので感想を書かせていただきます。
上記の記事で、岡和田氏は、わかりやすい、内輪のものばかりに目を向けるだけではなく、海外のものに代表される他者にも目を向けるべきだという主張をされており、大変に納得できます。


TRPGに頼るなら、現在の国産の有名なゲームを遊び楽しむのもいいとして、海外や過去の、よく知られていないゲームについても、きちんと遊び、紹介することで、よりよいゲーム生活が送れるということになるでしょう。
もちろん遊べるゲームの数にはきりがあるので、ある程度偏るのはしかたないにしても、「海外のわけのわからないもの」というレッテルで見下すことはすべきではない。
全くその通りと思います*1


xenothの記事でも、AGS様の記事などに触発されて、過去、いくつかの海外ゲームを紹介してきました。
その際に気づいたことなどを、まとめてみます。

偏見をもたない

自分と違う、これまでにない発想を、どう理解し、どう伝えるか、というのは重要であり、難しい問題です。
しかし、そこを意識しすぎると、かえって気持ちが硬くなって、柔軟な理解ができない場合があります。
大切なのは、偏見を捨て去って柔軟に捉えることです。


具体的に言うならば、国内のお馴染みのゲームデザイナーの新作だからといって、「あぁ、アレね」とわかったつもりになってはいけない。そこには新しい概念やプレイスタイル、常識を揺さぶる他者性があるかもしれない。
同様に、海外のムズカしそうなゲームだからといって、それだけで難解だったり高尚だったりするとは限らない。書いている人はベタなアニメネタが大好きな心通じ合えるオタクかもしれない(笑)


たとえば、あるゲームのキャンペーンのクライマックスで「世界の現実が崩壊し、人類の精神が高次意識に飲み込まれそうになる」というシーンがあったとします。
これがアメリカの作品だと「科学万能思想的なモダンが、パラダイムシフトして、ポストモダンから神話的プレモダンに回収される〜」とか「現実崩壊を描き出したニューウェイヴSF的な思想が〜」といった具合に言われるかもしれません。
一方、これが日本の作品なら「補完計画乙。エヴァ好きなんだね」「ゲッターじゃね?」と、言われる。
ですが実のところ、アメリカのオタクの間でもエヴァは当然人気で、エヴァブームも、日本より少し遅れて来ていたりするわけです(笑)


ここで問題なのは、どっちの解釈が正しいか、ではありません。
アメリカのゲームだって、エヴァの影響をうけているとも言える。
日本のゲームだって、ポストモダンや、ニューウェイブSFの影響を受けているとも言える。
にも関わらず、「海外なら思想性」「日本ならサブカルの引用」とだけ決め打ちするパターンは、よくある偏見です。


もちろん、たとえば言語や文化の違いは大きく、外国で作られたもののほうがわかりにくい傾向はありますが、ひとつひとつの作品と向きあう時には、そうした傾向は忘れ、そこに何が書いてあるかを虚心に読み取ることが大切です。

他者の顔を思い浮かべる

ある作品が生まれる時、そこには土壌があります。
歴史があり経緯があり問題意識が生まれ、それへの解答が作られ、そこに受容層が生まれます。


たとえば、『まどか☆マギカ』が大ブーム(土壌)で、各地のプレイで、まどマギネタは盛大に遊ばれています。
まだ商業システムやリプレイでは反映されてないかもしれませんが、「まど☆まぎやりたい!」という声(問題意識)で、魔法少女やQB的なギミックが、実装されるのは間違いないでしょう。『魔道書大戦RPG マギカロギア』あたりは、いれてくるんじゃないですかね*2


一方の『まどか☆マギカ』自体も、様々な問題意識と土壌の上に成り立つ作品です(魔法少女というジャンルの持つ童話性と悲劇の親和性に注目する流れがあり、セーラームーン他の様々な戦闘魔法少女物の流れあり、『仮面ライダー龍騎』他のバトルロイヤル系の流れありetc)。


こういう調査は面白いですが、しかし、こんな風に遡っていってもキリがないわけで、ともすると、知識自慢や妄想仮説のぶつけ合いに堕しかねないわけです。


私がポイントとして考えているのは「遊んでいる人の顔が思い浮かぶ」ことです。
TRPGなら、どんな人たちが、どう遊び、どう楽しんでいるのか。本なら、どう読まれているのか。
「まど☆マギとか好きだから!」というプレイヤーやGM、デザイナーの顔を思い浮かべられること。
大切なのは、そこです。


そういう視点から理解しようとすることで、また作者が何をどう作り、どう工夫したかも見え易くなります。

紹介と批評を分けること

もうひとつ注意したいのが、紹介と批評を分けることです。
ある作品が、「未来世界で、正義の秘密結社に入って、世界の危機と戦う」というゲームであるとします。


この時、その作品を批評するのであれば、作品のどこに注目するかは自由です。作品内の道徳や社会の問題が気になったなら、そこに注目して物を書くことは問題ない。


一方で、その作品を「紹介」するのであれば、偏った批評で誤解を与えてはいけないでしょう。
この場合なら、「正義の秘密結社に入って世界の危機と〜」の部分は、きちんとわかりやすく紹介する必要がある。
基本を押さえた上で、自分ならではの批評的な視点を入れることはもちろんいいのですが、最初から印象をねじ曲げてはいけない、というわけです。
当たり前ですね。

私vs作品

さて、作品の受容の仕方は人それぞれです。
ある作品が一般的にこう遊ばれて、作者がそのように作ったからといって、そういう受け取りかただけしかしていけないわけではない。


これまでの論点では、作品の一般性の理解の重要性について書きましたが、そうした点を強調することは、他の解釈を否定しかねない問題があります。
そういう観点からは、「どのように作られたか」「誰がどんな風に遊んでいるか」を一旦忘れて「私にとって、この作品は何か?」を考えることも大切です。


しかし、「私vs作品」に偏りすぎるのも考えものです。


人間は、基本、好き勝手に物を解釈するものですから、自分ひとりだけだと、自分の都合のいいように解釈してしまう場合が多いのです。
その作品の中で、自分の理解、問題意識に一致する部分だけ見つけて、そういう作品だ、と、納得する。
この時、ここに「他者と向かい合う姿勢」があるか? というと、ないでしょう。


そういう意味では、「難解な作品」≒「好き勝手な解釈ができる作品」であって、ナルキッソスの水鏡そのものに、極めてなりやすいのです。
エヴァ見て舞い上がってた頃、そういう痛々しい批評を俺も書いたことはありますし、皆さんも覚えがあるのではないでしょうか(笑)


客観と主観は、どちらも欠かすことのできないものです。
本当の意味で、作品に向かい合い、自分なりの理解をするためには、作者がその作品をどう作ったか、どういう背景でどう受容されたかも調べて考えることが大切なのです。
「他者性」に迫ろうとする時は、作者なり読者なりの具体的な人間としての「他者」を理解しようとする努力を忘れてはいけないと思います。
そしてまた、自身の論に関する反論やツッコミという他者にも、誠実であることが大切です。
私も覚えがあるのですが、深遠な(と思う)作品を書くと、瑣末なツッコミが非常に腹がたちます。
ですが、瑣末でも本当に間違いなら訂正すればいいだけの話です。
もし間違いを訂正したくない、と、思うのなら、瑣末じゃない問題から、無意識に目をそらしたいと思っている場合が多いです。


さて岡和田氏は、「そもそも海外作品を受容しているだけで偉ぶっている」といった偏見」について語りました。
その偏見は不当であり戦わなければならない上で、難しい作品を重層的に読もうとすればするほど、他者性を欠いた「えらぶった」論に陥りやすいという点は、どれほど強調してもしすぎることはないと思います。

*1:これの逆パターンで、商業的に成功した作品を「愚かな一般大衆向けのくだらない作品」として見下すパターンもあり、それも大きく間違っています。

*2:おっと、こういう書き方をすると、流行りものの記号だけを取り入れてるみたいですが、そういうネタもすごく楽しい上で、それだけではありません。そもそも、日本のTRPGの多くは現代伝奇系を扱っているので、「まど☆マギ」の物語構造やテーマ性は、『ビーストバインド・トリニティ』でも『ダブルクロス』でも『シノビガミ』でも十分に表せるキャパがあるんですね。その中で、より「まど☆マギ」らしさを、どう実装するかというのは、色々面白い問題です。