エクリプス・フェイズとダブルクロス

AGS様で更新がありました。
「世界内戦」下のポストヒューマニズム――『エクリプス・フェイズ』のアクチュアリティ: Analog Game Studies
今回の更新は、

 本記事は先の蔵原氏の解説を踏まえたうえで、『エクリプス・フェイズ』の世界に関心を持たれた方のため、あるいは他のRPGはよく知っているが『エクリプス・フェイズ』はあまり知らないという方のために、『エクリプス・フェイズ』がいかなるアクチュアリティ(現代性)を有しているか、すなわち『エクリプス・フェイズ』の何が新しいのかということについて、より詳しく踏み込んだ考察を行なうものです。

ということで、前にxenothが書いた、SFとしての『エクリプス・フェイズ』の面白さに関する記事とも方向性が似ています。
読み比べていただけると嬉しいです。
エクリプス・フェイズあれこれ〜Eclipse Phase as Science Fiction〜 - xenothの日記

ポストヒューマンRPGの難しさ

さてさて、『エクリプス・フェイズ』は、人類が社会的技術的肉体的に人類を超越したポストヒューマンに関するTRPGであり、また現代的な問題が投影された世界観でもあります。
岡和田氏は以下のように述べています。

 しかし『エクリプス・フェイズ』を活用すれば、最も手軽な形で、私たちは現在の状況を、戦略論的に、あるいは哲学的にシミュレートすることができるのです。
(中略)
 その意味で、『エクリプス・フェイズ』はあなたが創造に参画する作品であり、言い換えれば、『エクリプス・フェイズ』をプレイすることで――一人では気づかなかったような――世界のエッジを垣間見ることができるのでしょう。
(中略)
「ただ生きる」だけではなく「いかに生きるのか」が問われます。数多のイデオロギーや奇怪な宗教・信念が飛び交い、テロルや陰謀と隣り合わせの状況において、あなたは常に、自らの生き様が問い直されることになるのです。
(中略)
『エクリプス・フェイズ』においても、あなたはルールブックやサプリメント(設定資料)の記述をもとに、想像力の赴くまま、プレイングを通した思考実験を行なうことが可能になります。

ううむ、言ってることはすごいんですが、果たして、そんなことができるのでしょうか?


もし、あなたが、生まれ育ちも思想も、生物としての肉体さえも全く異なる数名のポストヒューマンで、何かストーリーを作れと言われたらどうしますか?
よっぽどのSF作家とかでもない限り「いやそれ無理」と言うのではないかと思います。


数名の人が、バラバラに作ったポストヒューマンのキャラクターで物語を作れと言われたら?
SF作家でも、「いやそれ無理」と言うのではないでしょうか。


そういう難しい問題を、『エクリプス・フェイズ』なら、「お手軽に、戦略論的に、あるいは哲学的にシミュレート」できるのでしょうか?


答えは、「それなりにできないこともない」です。

状況の限定

こちらの紹介記事では何度も書いていますが、『エクリプス・フェイズ』は、基本的なストーリー構造として、プレイヤーを集める組織Firewallと、プレイヤーが立ち向かうべき目的である、人類の危機(存続リスク)が設定されています。


多種多様な生まれと信条を持つキャラクターが、漠然と存在するだけでは、お話を作ることはきわめて難しくなります。
プレイヤーが出会うきっかけがあり、共に協力する動機があるからこそ、そうした信条を乗り越えてゆくことがロールプレイできるというわけです。


AGSの記事においては、蔵原氏も、岡和田氏も、なぜか、このFirewallについて語りません。


『エクリプス・フェイズ』において、Firewallに頼らない形のセッションをプレイすることはできます。
岡和田氏の紹介が、「現代社会の問題を未来社会においてプレイすること」であるのなら、Firewallに縛られないほうが、より広い範囲を再現できると考えたのかもしれません。


ただし「理論的にできる」ことと、「実際に遊べる」ことの間には大きな差があります。


TRPGというのは、プレイヤーとGMが作るものなので、プレイヤーとGM次第では、どんなこともできます。
熟練したプロSF作家と社会学者が集まれば、「現在の状況を、戦略論的に、あるいは哲学的にシミュレートする」ことも可能でしょう。
ただそれは、「白紙の原稿用紙には、どんなすごい名作も書ける」というのと同じことであって、システムの紹介としては間違っています。


『エクリプス・フェイズ』の設定や世界観が、ポストヒューマンだからといって、ポストヒューマンなゲームができるとは限らない。
『エクリプス・フェイズ』の設定やシステムやシナリオによって、別に熟練したSF作家でなくても、ポストヒューマンなゲームができる、というのであれば、それがどういうギミックでそうなってるかを紹介しなければいけない。


で、そのギミックの基本となる部分こそが、Firewallと人類の危機なわけです。

世界設定

また世界設定の紹介についても、岡和田氏、蔵原氏とも、あえて外している部分があるのが気になります。

 多くの人は戦前よりもはるかに慎ましい暮らしを余儀なくされています。にもかかわらず、人間の基本的な関心毎がまるで変わらず、物資(モノ)の充実を求めたり、あるいは社会的地位の向上や権力闘争に躍起になっているという状況を、いったいあなたはどのように受け止めることでしょう。
(中略)
 太平洋戦争の後の闇市から日本が驚異的な経済成長を果たしたように、人々は不屈の精神を発揮し、かつての繁栄を取り戻すだろう。かように淡い期待を抱きたくなるかもしれません。

岡和田氏の紹介を読む限りでは、『エクリプス・フェイズ』の人々は、戦後の闇市のごとく、欠乏した物資の充実を求め、また権力闘争に躍起になっていると読めます。


一方で、『エクリプス・フェイズ』の設定の基本的な点として、ナノテクノロジーの発達で、社会のほとんどにおいて、基本的に衣食住に必要な収入(ベーシックインカム)が完全に保証されている、というものがあります。
さらに、そうした状況で、お金の価値も変わり、従来の貨幣経済と平行、または置き換える形で、信用経済が台頭しているのです。
また、経済状況の変化もあって、政治体制も様々なものができており、当然、権力それ自体のありかたも変化しています。


信用経済の出現や、政治体制の変化も、現代の一側面と言っていいでしょう。
『エクリプス・フェイズ』の現代性(アクチュアリティ)について解説するなら避けられない重要な点だと思うのですが、なぜか、そうした側面は捨て去られ「世界内戦」や「パラノイア」の面ばかり紹介されています。

ポストヒューマンは怖くない

ポストヒューマンは難しい、という話ばっかになってしまいましたが、実はこれ、考え方の問題で、そこまで難しい話ではありません。
日本には、ポストヒューマンテーマを扱い、優れた現代性を持つTRPGがあります。
ダブルクロス*1です。


ダブルクロス』は、日常の裏で、オーヴァードと呼ばれる能力者同士が戦うというTRPGです。


オーヴァードとなった人間は、事実上不死となり、様々な人間を超えた力を身につけます。また人間以外のオーヴァード知性体も登場します。これらはポストヒューマンテーマですね。


オーヴァードの戦場は結界によって人目から隠されており、その中では法律の通じない殺しあいが行われます。これらは「例外状態」そのものです。
そのように日常が、目に見えない戦争と犠牲によって支えられているという構造は、繁栄する先進国と、それを支えるように搾取され混乱する途上国の構図でもあります。


ダブルクロス3rd』では、それまで隠蔽されてきたオーヴァードの存在が、一部明るみに出て、隠しきれない方向に世界が進みつつあります。ステージの概念により、オーヴァードの存在が秘密なセッションも、露見しつつあるセッションも、完全に露見したセッションもプレイすることができます。
これらは、そうした例外状態が、先進国の日常に浮上したという意味で、岡和田氏の言う「世界内戦」といえるでしょう。


ダブルクロスに登場するPCは、様々な出自と思想を持っています。
一般人がオーヴァードの世界に巻き込まれたものもいれば、職業的な軍人もおり、研究施設で生まれたUGNチルドレンなどもいます。またオーヴァードのことを世界に知らしめるべく活動し、そのためにはテロも辞さないファルスハーツとしてプレイすることもできます。
そうしたキャラクター達は、ロイスと呼ばれる人間関係を結び、互いの思想を乗り越えて協力します。
こうした背景をふまえて、発売されている様々なリプレイでは、実に様々なテーマが描かれています。


そんなわけで『ダブルクロス』には、様々な現代的なテーマが盛り込まれており、自然にプレイするだけで、「現在の状況を、戦略論的に、あるいは哲学的にシミュレートすること」ができますし、「「ただ生きる」だけではなく「いかに生きるのか」が問われます。数多のイデオロギーや奇怪な宗教・信念が飛び交い、テロルや陰謀と隣り合わせの状況において、あなたは常に、自らの生き様が問い直され」ています。


なんて書いてみましたが、ダブクロを遊んでる人からすると「えっ、そうだっけ?」と思う方もおられるでしょう。


人知れず能力者が戦って日常を守るという『ダブルクロス』の基本的な設定は、たとえば『ナイトウィザード』や『デモンパラサイト』『パラサイトブラッド』『ハンターズムーン』等々、多くのTRPGと共通するものですし、また、様々なアニメや漫画、ライトノベルなどとも共通しています。
サプリメントやリプレイの幅の広さから、ダブクロを選びましたが、もちろんほかのTRPGでも構いません。
もっと言うならば、変身ヒーローの大本となった数々の作品、特に『仮面ライダー』シリーズや『サイボーグ009』などから、そうしたテーマは存在していました。


何が言いたいかというと、技術によって変化する人間と社会を意識し、戦争と日常を意識した作品というのは、大変にありふれているわけですね(笑)

 あらゆる芸術がその芸術を成立させた社会的背景と無縁でいられないように、『エクリプス・フェイズ』は、私たちが生きる、この時代の縮図にあり、私たちの世界の変動と技術の革新を、ゲームという形式で、手軽に体感することができるのです。

岡和田氏は、このように書かれていますが、「あらゆる芸術が社会背景と無縁でいられない」からこそ、『エクリプス・フェイズ』に限らず、ほとんどすべての作品において、それらを時代の縮図と見る視点をもてるのです。

時代意識とゲーム

あなたは、既存のゲームにどこか物足りなさを感じることはありませんか。そこで語られる物語が、愛、正義、勇気といった、誰しもが憧れる要素が、作り事めいて興ざめしてしまうことはありませんか。

 もし、少しでもそう感じたことがあるのでしたら、『エクリプス・フェイズ』は、あなたのためのゲーム、あなたのためのRPGです。

ここで岡和田氏は、「既存の物語の作りごとめいた愛、正義、勇気」と、「現代社会の持つリアリティ」を対比させています。


一方で先ほど書いたように、愛、正義、勇気の代表例とされる、変身ヒーローものの系譜は、世界の変動および技術の革新と深く結びついています。


さて「リアリティがあること」が、「愛・正義・勇気」と反発するというのは、錯覚です。しかも、性質の悪い錯覚です。
現実において、愛・正義・勇気というのが簡単に決められない、というのはその通りですが、変身ヒーローものは愛や正義や勇気を一方的に押しつけてるかというと、そんなことはない。
むしろ、「本当の愛や正義や勇気とは何か?」というのをヒーローが悩みながら立ち向かってゆくものでしょう。


私が恐れるのは、「リアリティ」に固執するあまり、既存の価値観を否定するニヒリズムに陥ることです。
「現実は物語ほど単純ではない」は事実ですが、「複雑でわかりにくいことこそがリアリティ」というのは、勘違いです。
それらは性質の悪い思考停止であって、リアリティでも何でもない。


蔵原氏は、『エクリプス・フェイズ』の「リアリティ」について語る時、パラノイアの面から語りだし、洗脳と情報操作を強調しました。
岡和田氏は、「作り事めいた愛・正義・勇気」と対置させました。
お二人とも、(ある意味)「正義の組織」であるFirewallの解説を外しました。
希望のもてる未来である、ナノマシンによる物資の充実や、信用経済の解説を外しました。


そうした紹介の意図がどこにあるのかはわかりませんが、そこから見えてくる『エクリプス・フェイズ』像は、暗く混乱し、不道徳で、信念の手本となるものが何もない未来像です。
それは『エクリプス・フェイズ』の紹介としては偏っているし、それらが岡和田氏の考える「現代性」だとするなら、貧しいものだと思います。

*1:書き終えてから気づきましたが、思い切り id:crow_henmi さんの、AGS記事へのブクマコメントhttp://b.hatena.ne.jp/entry/analoggamestudies.seesaa.net/article/194779119.html とかぶっていました。