遊ぼう。力のかぎり

ご挨拶

xenothです。しばらく更新が空いてしまい、時節柄ご心配おかけしたようで、申し訳ありません。
東京住まいですので、物理的には何不自由なく暮らしております*1
今回の震災に出来ることを考えましたが、まず平常通りの暮らしを続けていくことが一番と思い、こちらも平常どおりに更新してゆこうと思います。


とはいえ、いつもどおりにAGS様の記事に辛口の感想を書くというのも、我ながらどうかと思ったので、そちらは後に回すとしまして。
TRPGと遊びについて、駄文をしたためましたので、公開させていただきます。

TRPGとヒーロー

日本と海外を問わず、およそ発売されてプレイされているTRPGの中では、様々な意味でのヒーローをプレイするゲームが最も多いといっていいでしょう。
この場合のヒーローをプレイするとは、自分たち以外の誰かを助けることを、ゲームの目的に含むものです。
「別にヒーローをやらなくてもいいTRPG」は沢山ありますが、そうしたTRPGも含めて、基本的には、正面から世界を救ったり、見えないところで日常を守ったり、大切な人のために頑張ったりといったプレイスタイルが一般的だと思います。


考えてみると、これって、結構すごいことだ思うのです。


TRPGは、「自分と違う誰か」をプレイするゲームですが、自分と違えば違うほど、様々にプレイが難しくなります。知らない職業はプレイしにくい。
そう考えると、「ヒーロー」というのは、実はプレイしにくいはずなんです。誰しも、毎日世界の危機と戦ったりしていませんから。そしてプレイしにくいものは、普通は好まれないはずなのです。
でも、誰も彼もがそんなことを越えて、「ヒーロー」をプレイしたいと思っている。そしてプレイできている。


これはTRPGに限りません。
娯楽作品には様々なものがありますが、いつの時代もヒーローが活躍するものが、大きな位置を占めています。


さて商業的な娯楽は大衆の趣味嗜好を反映します。大勢の人が持っているむきだしの欲望の反映です。
欲望には善悪はないわけで、当然「ムカつくやつをブチ殺したい」とか「とにかくエロいことしたい」といったものもあり、それに対応する娯楽作品も人気です。そうした娯楽作品も重要ですし、xenothも好きです。
その上で、そうしたあらゆる欲望をひっくるめた中で、「ヒーローになりたい」「誰かを助けたい」という欲望が市場の中で大きく突出しているというのは、考えてみれば、結構すごいことなんじゃないかと思うのです。


xenothが思うのは、それだけみんな、誰かを助けたいと思っている、ということです。人間というのは他人を救えると嬉しい生き物だということです。
そう思うと、ちょっと心強くなりませんか?


時折、ヒーローが世界を救うタイプのストーリーや、そうしたTRPGについて、幼稚だという批判があります。現実は、もっとシビアで、つらいものだ、という意見があります。


もちろん、TRPGのセッションは、現実に比べれば単純です(当たり前だ)。
ですが「脳天気でヒーローが世界を救うお話」が単純とすれば、「悪意に満ちた悲劇的なお話」も単純なのです。それらは現実のどこをどう切り取るかの差でしかありません。
「極限状況で起きたひどい話」をトリビアにして、人間の汚い、悲しい側面をメインに描いて「これこそが本当のリアル」というのは、単なる錯覚に過ぎません。


現実を見れば、ヒーローが沢山いることがわかります。
家族のために愛する人のために体を張る人がおり、見ず知らずの人のために職務に尽くす人がおり、直接できることがなくても、温かい気持ち、明るい気持ちを届けようとする人がいます。


ヒーローとなって世界を救うTRPGは、そのリアルな縮図であると思うのです。

共感するということ

もちろん、世の中のシビアさにも一面の理はあります。
それだけみんなが他人を救おうと思っている割には、戦争も紛争も続いています。解決が難しい問題は沢山ありますが、それにしても皆が皆のために協力すれば、もっと平和的に解決できそうな問題もあるのは確かです。


人間が協力するために大切なのが、想像力です。
よく知らない人、何考えてるのかわからない人のために頑張るのは、よく知っている人、気持ちが伝わる人のために頑張るよりも難しいのです。


これは違う国や、文化、宗教についてもそうですし、違う職業や生活環境の人でもそうでしょう。
たとえば、私たちが政治家に気楽に文句を言えるのは、大半の人が政治家をやったことがないからです。
職業として見た場合、政治家という職業に大変なことは沢山あると思いますが、そういう知識がないので、なかなか「政治家も大変だなぁ」とは思えないわけですね。*2


そこを埋めるのが、知識と想像力です。


TRPGの一側面として、ごっこ遊びがあります。
子どもが、母親や父親を真似て、家庭ごっこをするように、様々なキャラクターを演じて、その気持になりきります。


自分と違う誰かを……たとえばN◎VAとかやって、政治家プレイをすれば、それだけ、自分の知らない誰かに親しみをもてます。
その親しみからは信頼と協力が生まれます。


もちろん、子供が、ごっこ遊びで「パパ」をやっても、パパの会社の仕事を知ってるわけでもありませんし、その意義や苦労とかが、すぐに理解できるわけじゃありません。
N◎VAで政治家をプレイしても、政治家の仕事がすぐにわかるわけではない。
それでも、そこに親しみと興味が生まれます。
自分に関係の無い誰か、ではなくて、自分と同じ人間としてがんばっている人である、という認識が生まれます。
「政治家は何やっても文句言われて大変だなぁ」くらいの感想は持てるようになるでしょう。
それは無関心に比べて遙かに素晴らしいものです。
子供が仕事帰りでお疲れのパパやママをロールプレイすることに、気持ちが通ってなくて無意味だなんて思わないでしょう?
それにTRPGプレイヤーは凝り性ですから、そこから知識を深めて、本当に政治家を理解するきっかけにだってなるかもしれませんしね。


TRPGの、ごっこ遊びと呼ばれる側面、つまり、自分と違う誰かになりきって遊ぶということは、共感を広げ信頼を生むという、社会全体にとってこれ以上ないほどの大きな意味があるのです。

遊び

TRPGのすばらしさとして、ヒーローになりたい気持ちを再確認できること、自分でない誰かに共感するきっかけとなることの2点をあげました。


それについて、「皆が皆ヒーローになりたくて、信頼、信頼言ってる社会も、それはそれで気持ち悪い」という感想もあるのではないかと思います。
その通りです。


ヒーローになりたい気持ち、誰かに共感する気持ちは、大切だと思いますが、それが押し付けられたり、皆が皆同じようなヒーロー像を崇めたりするようになると、端的に言って気持ち悪い。
もっと言うと、そこには多様性がない。
皆が皆同じ考えを持つ社会というのは、硬直した、弱い社会になってしまいます。


TRPGで大切なことは、それが「遊び」であることです。
ヒーローになりたい気持ちは人それぞれで、実際にどんなヒーローかは好き勝手に、深く考えずに、バカバカしく、マンガやアニメを参考にして、ネタに走ったり、現実にはありえない厨ニ病的なかっこ良さを追求して、不真面目に決めていい。
ネタキャラとして作ったものでも、ロールプレイを続ければ愛着も湧き、首尾一貫した設定もできてくる。
そこに人それぞれの個性が加わり、多様性が生まれる。十人十色のヒーローたちが世界をにぎわす。
それがTRPGの素晴らしいところです。


もしもそこで「そんなヒーローはリアルではない。よりリアルなヒーローはこうだ!」といった話を押し付ければ、自由な発想は失われ、プレイしようとする気持ちも消えてしまいます。
そこに残るのは「リアルなヒーロー像」ではなくて、「画一化された貧しい理念」でしかないのです。


もしあなたが、自分の思うヒーロー像の素晴らしさを広めたければ、他の人の思想や思考を否定せずに、自分自身でそのヒーローをかっこよくプレイし、語ればいいでしょう。
それが本当にかっこよくて楽しそうなら、多くの人が「お、あれ面白そう!」と思ってついてきます。
それと同時に、他の人のプレイスタイルで「お、面白そう!」と思ったものに心を開き、取り入れてゆきましょう。
そうやって遊ぶことで、想像力は豊かになってゆくのです。


TRPGに限らず、遊びが遊びであるというのは、この世でもっとも大切なことの一つです。
遊びであるというのは「何かの役に立つことを強制されていない」ということです。
強制されていないからこそ、そこには無限の可能性があるのです。
数学も天文学も電気もコンピュータも、最初は何の役に立つことも期待されていない、ただの遊びでした。それらが世界を変えたことは言うまでもないでしょう。


人間だって同じです。
誰にも強制されずに遊ぶことは、まずその遊んだ人間を幸せにします。そして、その幸せが、より大勢の幸せを生むことにつながるとしたら、こんなに素晴らしいことはないでしょう。


だから、遊びましょう。
熱心に、不謹慎に、真剣に、不真面目に、そして何より楽しく!
TRPGを遊びましょう。
みなさんの卓に、豊かな物語がありますように。

*1:特に何かしてるわけじゃないんですが、心労のほうはたまってる感じです。緊張が続くと心が疲れるのは自然の摂理ですので、みなさまもどうか、体と気持ちをいたわってください。

*2:建設的な政治批判は大切ですが安易な悪口やバッシングになりやすいという話です。もちろん行き過ぎない限り、建設的な批判以前の悪口を、気軽に言えること自体は良いことです。