ニューウェーブSFとTRPG

読解再び

このブログでも二回ほど触れた、岡和田氏のWローズおよび門倉直人氏の作品に関するエッセイ「忘れたという、その空白の隙間で−−門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』試論」を、AGSのほうで紹介されておりました。
「忘れたという、その空白の隙間で−−門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』試論」(「21世紀、SF評論」): Analog Game Studies

 ここから翻って考えるに、アナログゲームが既存のフィクションの「読み直し」として機能するとすれば、フィクション内部での革新運動、例えばSFのニューウェーヴ運動については、ゲームという文脈でいかなる「読み直し」を与えられるのでしょうか?

今回の記事では、門倉論が、ニューウェーヴ運動の「読み直し」につながるという刺激的な観点を提示されています。


正直な感想を言うと、岡和田氏の論考が、SFのニューウェーヴ運動と、具体的に、どのように関連するかはわかりませんでした。


おっとその前に、ニューウェーヴSFとはなにか、ですね。

ニューウェーヴSF

ニューウェーヴSFについては、様々な意見、視点がありますが、ここでは「SFが、文章の形式に自覚的になる過程」くらいにまとめておきます。


「SFは絵だ」というのは、野田昌宏の名言ですが、SFというのは、やっぱりアイディアやビジュアルが優先のジャンルでした。


「でかい宇宙船」「かっこいい光線銃」「おぞましいエイリアン」から始まって、様々な形で深く追求されてゆきましたが、「より面白いアイディア」「より深い設定」が重視されることは変わりません。


逆に言うと、そういう強烈なアイディアやビジュアル、設定を生かすために、プロットや文章は、ある程度、素直で平易なものが選ばれた、という面があります。
スープの味が強い分、麺は素直に、というラーメンみたいな理論ですね。


一方で、文学の世界では、様々な形で「麺」、すなわち「文章そのもの」への見直しが進んでゆきます。
私たちが「普通に書いている文章」というのは、何が「普通」なんだろう? 「普通じゃない文章」を書いたらいけないのだろうか? 文章のつながりを壊したらどうなるのか?
私たちは、自分の考えや気持ちを、筋の通った文章の形で書いているけど、それって本当にそうなの?
心の中って、もっともやもやしていいかげんなものじゃないの?
そうした様々な疑問から、「書いている内容」ではなくて、「書き方自体の研究」、「語られている筋・内容」ではなく「それを語る心の動き」の研究が始まりました。


さて、SFの楽観性は、科学技術に対する信頼とも結びついていますが、その信頼に影を投げたのは、アメリカにおいてはベトナム戦争でした。
科学に限らず、社会全般に対する不信・反抗から生まれた60年代のカウンターカルチャーはSFにも及び、その結果として、「主流SF」に対する見直しが起きます。
先に述べたような文学的な研究がフィードバックして、「SFでも麺の味を見直そうぜ」といった形になります。


その結果、様々な文学的実験がSFのジャンルの中でも行われます。

 例えばニューウェーヴ運動は、ラングドン・ジョーンズの編纂したアンソロジー『新しいSF』に象徴されるように、時代が要請した最も先鋭的な表現でもありました(ジョーンズとともにニューウェーヴ運動を牽引したマイクル・ムアコックは『新しいSF』の序文において、『新しいSF』収録作を「読者志向」であり、「大衆との関わりを念頭に置いている」と告げています!)。

たとえば、この「読者志向」と「大衆との関わり」ですが、本来、本が読者志向なのは当たり前で、「大衆との関わり」も、わざわざ言うようなことではないでしょう。ここには様々な意味があります。


一つには、文学的実験を取り込んだニューウェーブSFというのは、どうにもムズかしく、読者によっては置いてきぼりにされたと感じる作品が数多くあったということです。
「そういう風に見えるかもしれないけど、そういうつもりじゃないよ」という話ですね。


一方、先にも述べた通り、ニューウェーブSFは、カウンターカルチャーの一環であり、「おまえたちが受け入れている既存の社会に反抗しろ! そのためのSFがここにある!」という主張があります。
だからこそ、それは「大衆」への訴えであるわけです。


もう少し穏当にまとめるなら、「大衆は簡単でわかりやすい本だけ読んでろってのもひどい話だよね。俺達の本は難しいかもしれないけど、でも、これはみんなのために書いたものだよ」という意見になるでしょうか。


60年代に始まったニューウェーヴ運動は、運動としては70年代に下火になります。
しかし、ここで得られた文学的な手法は、様々な形でSFを豊かにしてゆくことになります。

ニューウェーヴ運動とWローズ

さてさて、先に述べたように、文学において、またニューウェーヴSFにおいて、「物語を語る」ことから、「物語とは何か?」という見直しが起きます。


そこにおいて、たとえばウィリアム・バロウズが得意としたカットアップ技法のように、文章を文節単位でばらばらにしてランダムにつなぎ変えることで生まれる、意味がわからないが、ちょっとわかる気がする文章に、可能性を見いだすといった技があります。


Wローズにおける「言葉決め」は、たとえば、そうしたカットアップと親和性を持ちつつ、複数の人間が参加し、また、特定の効果を目指すという限定をつけることで、Wローズらしい物語を志向しています。


これらに共通する「ルールによって言葉を再構成し、物語を作る」という指向性から、両者を分析しよいう話ではないかと思うのですが……。


さてさて「物語が物語となるルール」について、岡和田氏は、論の中で、トールキンの準創造の概念を引いています。
また日記では「理論的には、この本はゲール語で書かれるべきだったと思う。」と述べ、「イェイツやフィオナ・マクラウドの文法」を引いています。その一方で、「折口信夫山尾悠子の世界」を遊ぶことを示唆し、「バベルの図書館や妖精文庫を生き直すことを夢見る。」と言います。そしてさらに「私は本作をジェイムズ・ジョイスの魂を持ったRPGと考えている」とも書かれている。


トールキンとイェイツとフィオナ・マクラウド折口信夫山尾悠子ボルヘスジョイスニューウェーヴSFの共通点って何でしょう?


正直「文章を書いた」以上のことを、私は思いつきません。


要するに「物語とは何か?」あるいは「詩の詩らしさはどこから来るか?」というのは、文章を書く人間にとっては永遠の命題なわけです。


それはトールキンにとってもイェイツにとってもボルヘスにとってもジョイスにとってもそうで、もちろん、あかほりさとるにとっても神坂一にとっても、奈須きのこにとっても、西尾維新にとってもそうです。
まぁ当たり前ってことですね。


ローズ・トゥ・ロードと21世紀(http://d.hatena.ne.jp/xenoth/20101221/p1)でも書きましたが、岡和田氏の書いていることは、抽象概念を大きく拡げすぎた結果、何にでも当てはまるような空疎な論になっている印象を受けます。
今回もニューウェーヴという用語の提示が、単に「それだけ話を拡げればニューウェーヴSFも入るよね」というだけのことにしかなっていない。逆に言うと、無駄に難解な用語を導入しているだけとも言えます。

@yy_sato 『ローズ・トゥ・ロード』はロシア・フォルマリズム的な物語をシステムとして捉える姿勢と、おっしゃるような言語態についての意識に、適宜無作為性と間テクスト性を導入しつつつ、複数人での相互干渉性を入れ込むことで固有値の位相を模索する試みであるというのが端的な趣旨です。 2:14 AM Jan 5th webから yy_sato宛
http://twitter.com/orionaveugle/status/22340006785843200

これですが「適宜無作為性と間テクスト性を導入しつつつ、複数人での相互干渉性を入れ込むことで固有値の位相を模索する試み」というのは、つまり、「Wローズと関係ない複数の本を持ち込み(間テクスト性)」「ランダムにページを開いて言葉を選ぶ事で(無作為性)」「皆で言葉を集めることで(複数人での相互干渉性)」「それぞれが納得できる形のおはなしを作る(固有値の位相を模索する)」ということですよね。


もちろん、岡和田氏が、このように簡単に書けることを、わざわざ難しい言葉を使ってわかりにくく書いているはずはないと思います。
ここでこうした用語を使うことには、それなりの意味、目的があると思います。
ただ、少なくとも私の理解力だと、そうした用語で、どのような指向性を持っているのかがわからず、単に曖昧な表現を使ったので曖昧に取れる、で終わってしまいます。


文章に解釈の幅がある時、読み手はどのように考えればいいのでしょうか?
それに関するヒントは岡和田氏の日記の中にありました。

批評と文学

 最近ふとした機会に、とある編集者の方と雑談をしたことがあるのですが、そこにおいて私が批評というジャンルを選択している理由というものを尋ねられました。


 そこで私は「評論には、例えば小説よりも、読まれ方を限定できる。厳密さを持って言葉を紡ぐことができる」という具合に答えました。
(中略)
 「読み手による解釈の多義性」へ安易にすがることなく、議論の対象や論考の方法を絞ることで、思考のルートを確実に提示できること。それこそが、私が評論というジャンルを選択している理由にほかならないのです。

陰謀論と読まず批評を駁する - Flying to Wake Island 岡和田晃公式サイト(新)
さて、先ほどの問題に戻ります。
「間テキスト性」や「固有値の位相」といった言葉は、抽象度が高いが故に、そのままでは解釈の多義性が生じると言って良いと思います。
よって、
「間テキスト性」とは、「この場合、具体的には」何を意味するのか?
固有値の位相」とは、「この場合、具体的には」何を意味するのか?
そして、それらは、なぜ、その用語でなければいけないのか?
こうした点にもう少し気を配っていただけると、よりよい論、少なくともxenothにわかりやすい論になるのではないかと思う次第です。


一方で、岡和田氏は以下のようにも書いています。

岡和田: エッセーとハード・サイエンスは循環できると思うんですよ。私は最近、「21世紀、SF評論」というところに『ローズ・トゥ・ロード』論を掲載いただきましたが(http://sfhyoron.seesaa.net/article/173296285.html)、この原稿で目指したのは、鷲巣繁男という詩人のエッセーのような、ある意味、理論では厳密に捉えきれない中間領域について文学的に斬り込むという方法です。

鷲巣繁男のエッセーは、前の文章で言うなら、読み手による解釈の多義性を大切にした小説的な読み方を許容し、それゆえに面白い作品だと理解しています。


そのような小説的な、「文学的な斬り込み」であって、評論ではない、ということでしたら私の筋違いかもしれません。


しかし、論において「解釈の多様性」や「文学性」を前提とすると、いくらでも言い訳が効くので、堕落しがちになります。
2009年7月に、岡和田氏が「「読み手による解釈の多義性」へ安易にすがることなく、議論の対象や論考の方法を絞ることで、思考のルートを確実に提示」することを宣言したのは、それ故ではないかと思うのですが、もし考え方を変えるようなことがあったのでしたら、それについてお聞きしたいと思いました。