対談感想その3

つれづれ

各段落のとりとめない感想。前後したり重なったりしています。

80年代シナリオ

岡和田: シナリオに話を戻しますと、箱庭RPGに興味がある人は、『ウォーハンマーRPG』の資料やシナリオ読むべきですよ。いや、本当に。
高橋: まあ……1980年代までの、特に海外の会話型RPGシナリオって、「今の会話型RPGプレーヤー」とは全然異なる文脈やリテラシーを要求しているところはありますので(笑)、一概に言えないのですけれども。今遊んだら「クソゲー」認定されかねないけど、当時はそうとも限らなかったんじゃないか? という。この辺は、クリアに語りたくても、なかなか難しいところです。

80年代までの海外TRPGに違うリテラシーや文脈があるのは確かです。
背景世界の設定を生かしたセッション(いわゆる第二世代型)については、以下にちょっと書いたことがあります。
自由なセッションとシステム - xenothの日記
細かいシナリオはあまり用意せず、シチュエーション、状況だけを用意して、それに対する対処法を、PLが自主的に決めて、その処理は、背景世界の読み込みで行うといったスタイルです。
『トラベラー』や『ルーンクエスト』とかのシナリオを見ると、わりとそんな感じかな、と、思います。


一方で、対談であがっている『ニャルラトテップの仮面』とかは、もう少し細かいストーリー、シナリオがあります。
特定のシチュエーション、ストーリーの再現を目指すギミックが組み込まれたTRPGを第三世代とするなら、『クトゥルフ神話TRPG(クトゥルフの呼び声RPG)』は、第三世代の走りです。SANチェックをはじめとして、ホラー的なストーリー、ノリの再現が期待される。
だから、シナリオも、よりストーリー性の高いものになる。
一方で、そこには第二世代的な、膨大な背景世界設定を前提とする自由度の高い処理も期待されている。


『黄昏の天使』にせよ『ニャルラトテップの仮面』にせよ、「箱庭型」というよりかは、『箱庭型』から『シナリオ型』へ移る、その過渡期の作品、と、考えたほうが整理しやすいかなと思います*1

カットシーンとシーン制

岡和田: (笑)。で、2版になって『ウォーハンマーRPG』は、本国でもウェブがサポートとの大きな部分を担っていました。公式サイト上でシナリオ・コンテストをやっていたんです。例えば、ダウンロード・シナリオの『ライク川にかかる橋』(http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/dl_scenario.html)。
というシナリオはその優秀作。このシナリオはすごい。なんと、シーン制です(笑)
高橋: 素晴らしい!(笑)
岡和田: 後に『D&D』第4版の『ダンジョン・マスターズ・ガイドII』でも紹介される「カットシーン」という考え方が出てきます。

ここで岡和田氏が言っている「カットシーン」は、FEARのゲームで言う「マスターシーン」ですね。PCが登場していないシーンがシナリオ中に登場します。
具体的に言うと、「一方、その頃、悪漢に率いられた三下達は〜」というシーンが登場し、PLは、その三下達を、一時的にロールプレイします。
FEARゲーや、そのリプレイでもおなじみのパターンですね。


FEARゲーだと演出戦闘とかになるところですが、このシナリオでは一応ダイスを振らせるようです(ただし、ルール処理はGMがやって軽く終わらせることというニュアンスがあります)。
GMは最初にシーンの目的と内容をPLにはっきり説明することと書いてあるあたりは日本のノウハウと同じです。


日本だとN◎VAレヴォが出たのが1998年ですね。このシナリオが2006年。
どのように並行進化していったのか、あるいは日本のノウハウが海外に伝わった可能性もあると考えると楽しいですね。
『エキストラ』(データをもたない設定だけのキャラ。GMが(GMの許可の元でPLが)好きに処理していい)の概念についてどう思うかも聞きたいところです。

岡和田:岡和田は個人的に、システムで公式にサポートされる前の、いわばシーン制の私的な運用が昔から好きなんです。例えば『ドラゴン・ウォーリアーズ』というケルト的な雰囲気を押し出した素晴らしいRPGがあるんですが、これはシステム的には良い意味での『クラシック D&D』フォロワーだったんです。クラスは1巻だと、騎士とバーバリアンしかない(笑)いわゆるロールプレイ支援システムも皆無。でも、面白い。現在では、英語版は続刊を込みにした合本として復刊し、シナリオなども刊行され続けていますが、私が以前このシステムでやってたシナリオは、まぎれもないシーン制だったんです。発狂しているんか、オレ。

ちなみに、こちらのセッションについては、岡和田氏のこちらのサイトで見ることができます。興味深い内容です。
"ドラゴン・ウォーリアーズ シナリオ『Their Last Ship』(2000年11月4日)"
"no title"
シーン制は、基本的にマスタリング、プレイングのノウハウをまとめたところから生まれたものですので、シーンを意識したプレイングが過去に行われていたこと自体はわりと普通のことではあります。
セッションが行われたのは2000年のようですから、ちょうど『N◎VAR』発売後、『ブレイド・オブ・アルカナ』や『天羅・零』でシーン制のプレイングが広まりつつあった頃ですね。『深淵』のほうも第一版のメインのサプリメントが出そろい、ノウハウが充実してきた頃です。


シーン制を導入することで、省略や時間的、場所的な飛躍をセッションに組み込むことができ、表現力が増します。一方で、ノウハウが未熟な時期は様々な問題が起こりました。


たとえばプレイヤーがシーン制を理解していない場合、プレイヤーの側からシーンを提案することは当然できないので、シーンを作ってゆくのはGMの役割になります。
プレイヤーの意図を広いながらGMがうまくシーンを作って、そのつながりを説明していければ問題ないのですが、そうでなかった場合、レイヤーからすると「単につながりが悪いゲーム」になります。
最悪の場合「GMがやりたいシーンだけをPLの行動や意図を無視して、ムリヤリつなげたセッション」になってしまう。俗に言う吟遊詩人型セッション*2)です。
これは冗談ではなく、実際に、そういう問題が、よく起こりました。省略や飛躍が入るということは、その分、話のつながりがわかりにくくなるということでもあるのです。


今ではルールブックに、PLの意見を取り入れながら、どんなシーンをやるか決め、またGMはシーンの最初に、その目的を明確に告げて共有すること、等が書いてあります。それらの実例としてのリプレイ本も数多く出ています。
システムで公式にサポートされることにも大切な意味があるということですね。


ちなみにシーン制が、システムで公式にサポートされたゲームとしては、TORG(1990年)があります。


TORGは活劇を意識したゲームで、映画的なシーン、場面を意識したシーン作りを明確に意図し、システムに組み込んだ(私の知る限り)最初のゲームです。
たとえば、ドラマチックシーン、スタンダードシーンという分け方は、シミュレーション的な視点からはなかなか出てこない観点であり、ドラマ、ストーリーテリングな視点からのゲームの組み立てを意識したシステムと言えましょう。FEARのTRPGにおけるフェイズ処理にも通じるものがあります。


TORGが日本のゲームデザイナーに与えた影響は大きく、日本の現在のシーン制に大きく寄与する天羅および天羅・零他をデザインした遠藤卓司、井上純弌TORGの大ファンであり影響を受けていることを公言しています。
海外TRPGにもTORGの影響や、その源流は当然あると思うのですが、xenothはあまりよく知りません。どなたか詳しい方にお伺いしたいところです。AGS様、いかがでしょうか?

岡和田: おっしゃるとおりです。だから至高魔術はゲーム・メカニズムでは表現できません。それは、ゲーム・スケールの「外部」にあるんです。しかし、世界設定での批評性と、プレイングにおける批評性はイコールではありません。プレイングの批評性は、世界設定そのものにも向けられることがあります。リプレイでも実際、私が強く誘導することなくても、自然にマスター・プレイヤー間で「共同ゲームデザイン」されていきました。
 個々のメカニズム、たとえばシーン制についても同様です。『ウォーハンマーRPG』のゲーム・メカニズムは、シーン制を許容はするのですが、システム・レベルでシーン制を強制はしていないんです。使うかどうかは、ユーザーが各々のスタイル、あるいはその時のシナリオ・コンセプトに応じて判断することになります。
高橋: そうですね。シーン制は、シナリオの狙いに合わせて使えばとても便利ですが、それはプレイングあるいはマスタリングの領分であって、システムデザインの領分とはまたちょっと違う。
岡和田: 誤解されやすいので補足しておくと、シーン制を否定するつもりはまったくないんですよ。私は『深淵』の渦型プレイも大好きですので。
高橋: もちろんそうですね(笑)。僕も色んなゲームで活用してますし、シーン制をルール・メカニズムの大前提に置いたものも非常に面白い。システムを選択する段階で「遊びたいゲーム」のイメージが掴めていれば、後は使い手次第です。

こちらの岡和田氏と高橋氏の会話や、先ほどの会話を見る限り、お二人はどうも、個々のマスター、プレイヤー間で「共同ゲームデザイン」に重きを置くために、そのような共同デザインの結果としてのシーン制を受け入れつつも、公式にサポートされた場合には、そうした共同デザインが無くなることを心配されているようです。


その心配は無用です。


シーン制をシステムデザイン領分で取り込むことは、別に「共同ゲームデザイン」の終わりを意味するわけではありません。むしろ、シーン制という材料を共通ルールと全員が意識することで、よりそれを使いこなしたり発展させたりする余地がうまれるわけです。


個人的には、日本におけるシーン制を語るのであれば、トーキョーN◎VAシリーズや、そこから発展させて多くのFEAR社のTRPG(またFEAR社の協力・監修を得たTRPGや、SRSなど)に共通して装備されるルールギミック、すなわち、登場判定、シーンプレイヤー、およびシーン制を前提とする各種ルール記述等について触れないことはできないと思っております。


たとえば「登場」「退場」「シーンプレイヤー」「舞台裏」といった概念は、PLの行動を限定するためにあるのではなく、それぞれが自分や他のプレイヤーをリソースとして把握することで、プレイヤーとして協力して互いに楽しませる視点と、セッションに積極的に絡む視点の両方を、より戦略的に組み立てられるという効用があります。


もちろん、様々なシーン制に合うタイプのシナリオ、スタイルがあり、合わないタイプのスタイル、シナリオがあるのは言うまでもありません。

理論と実証

岡和田:知的な謙虚さを保って頂いたというわけですね。ありがとうございます。ただ、自分的にはものすごく助かっている面がありまして、近代批評というのは、現場的な発想から生まれてくるものだと思うんですよ。小林秀雄もそうだった。西洋における美学思想の原点のひとつに『ギリシア芸術模倣論』という作品を著したヴィンケルマンという美術史家がいますが、彼の発想も現場的なところから出てきたもののように思っています。体系的な知ではなく、現場で芸術に触れて、そこから素直な感想が立ち上がってくる、その感動こそを大事にしている評論と言うか。だから私はあえて言いたい。「理論が実プレイを阻害する」というのは誤解です。なぜならば、どんな理論でも、必ず個人から出発しているから。

「現場的な発想から生まれた」から「どんな理論でも、必ず個人から出発しているから」「理論が実プレイを阻害することはない」というのは、私には論理のつながりが見えませんでした。
現場から生まれた理論は、その現場の諸事情を肯定するかもしれませんが、それが違う現場を否定する可能性は常にあります。


岡和田氏に私が言うのも僭越な話ですが、ヴィンケルマンの思想から、レッシングとの「ラオコーン論争」が生じるわけでしょう。
その過程において、古代ギリシャ・ローマ的な(とされていた)人間の理性や思想を基本的な美としていた思想が見直されるわけです。
建設的な論争は重要ですが、そうした論争が起こる前に、あるいは起きている最中に、理論によって評価や製作が阻害された作品などなかった、とは言えますまい?
また例えば日本における西洋絵画を志した人々に、そうした美学の理論が与えた影響の中に抑圧的なものが全く無かったとは言えますまい?


本来、現場的な発想から生まれた理論であるなら、極端に言えば、その現場以外のことを語ってはいけないことになります。でも実際はそれでは理論にならないので、一般化する。
ある特定の現場の話が一般化される時、別のプレイングが阻害されうるのです。


もちろん他者を全く阻害しない言論などあるわけないので、あんまりそこにこだわってもしょうがないですが、一方で阻害する可能性を無視するのも、うかつすぎるというものです。


ですから理論を作る時は、「1.その理論の基盤となった実体験の範囲(例:ウォーハンマーのキャンペーンやった時、こんなことがあった)」「2.その理論が及ぶ範囲、及ばない範囲(例:ウォーハンマーのこういうセッションの分析に有効。その他はまだ知らない)」「3.その理論で取りこぼしている可能性があるもの(例:ウォーハンマーの背景世界設定とキャラクター設定の利用についての理論なので、背景世界が薄いゲームにはあてはまらないかもしれない)」の3つを意識し、書くことが望ましいわけです。
そのあたりは、前に、以下でも書いたとおりです。
会話型RPGの面白さを理論的に分析する時に文句を言われないようにする方法 - xenothの日記

高橋: もちろん一方では社会学徒なので、将来的に実証を捨てちゃいけないですが……ゲーム研究の、特に人文知が関わるところは、みんなが思ってる以上にまだまだ人文知が足りてない。「実証でまず成果出せ」という以前の状況です。なにせ、それじゃ魅力的な仮説すら立てられないですから。そうなると、人文知に限定しないまでも、エッセー的な立ち上がりをまず各人で鍛えていかないと、面白い話、さらには面白い実証も、やりようがないですね。
岡和田: 人文知的な蓄積は、着眼点、アプローチの独創性に出ると思います。まずは独創性を担保する。それは大前提。そのうえで、実証は逆に、きちんとしなければならない。
高橋: そうですね。本当にそう思います。

実証を前提としない人文知的な蓄積が難しいのは、それが知らず知らずの内に、単なる自己満足になりかねない点です。
私は、実証とまでは言わないまでも、できるだけ明確な目的意識を設定する努力はすべきだと思います。
「魅力的な仮説」とありますが、仮説を考えるということは「どうしたらそれが証明できるか」を考えることと不可分です。
すぐに実証はできないにせよ、「こういう線で実証ができる」という視点、アイディアさえ無い仮説は、思いつきであって仮説と呼べる段階ではないと思います*3
このあたりも、こちらで書いております。
会話型RPGの面白さを理論的に分析する時に文句を言われないようにする方法 - xenothの日記

より楽しむための教養

岡和田: おっしゃりたいことはよくわかります。私自身にもそういった部分があります。文芸の世界とゲームの世界、両方への興味関心を持続していくことが、ゲームを長く楽しんでいくキーだったんです。ドイツ哲学とオールドワールドの設定を同時に読む、と。誰から強要されたわけでもないんですが、むしろ私にとってはそれが自然でした。
高橋: そしてそれについて語るということは、何か一つの狭い分野での教養を誇ったり、無意味な上下関係を生み出してしまうようなこととは全然別で、むしろ色んな分野に開かれたゲームの面白さを育てることに繋がると思うんですよね。Googleで誰もが知識やコンテンツにあっけなくアクセスできてしまう時代に「ゲームデザインにしかできない楽しさ」を考えて行くためには、僕たちを含めたゲーマーの知らない世界を出来るだけ一箇所に集めてみた方が、面白いことがあるんじゃないかと。僕はAGSの展望をそういう所に見ています。
岡和田:まさにそのとおりだと思います。加えて、私は昔からどちらかと言えば独学者気質が強いので、何かを楽しむためには、深く潜っていけばいくほどいつかは鉱脈に辿りつけるんじゃないかという思いがあります。楽しむための勉強をし、楽しむために探究する。そうした探究のツールとして会話型RPGを、ひいてはアナログゲームを捉えています。ヒエラルキーの形成とは別にある、「楽しむ」ための教養。それこそが真の教養であると思うのですが、広く出版やネットの現在を見るに、そうした場はどんどん狭まってきているという感触があります。危機感を抱いていると言ってもかまいません。だからこそ、Analog Game Studiesのコンセプトを広く知っていただきたい。私はそう考えています。

TRPG内の知識に閉じるのではなく、様々な方面の知識をTRPGに生かし、あるいはその逆で楽しむことは素晴らしいことです。
「楽しむ」ための教養、大賛成です。


一方で、「そしてそれについて語るということは、何か一つの狭い分野での教養を誇ったり、無意味な上下関係を生み出してしまうようなこととは全然別」とは思いません。


たとえば、岡和田氏が、ドイツ哲学の知識とウォーハンマーの設定に共通点を感じ、そこに興味を持つこと自体は、素晴らしいと思います。
一方で、岡和田氏の意図、意志とは全く別に、書き方、語り方によっては、それが「狭い分野での教養を誇っている」ように受け取られ、それによって「無意味な上下関係を生み出」してしまう場合があるのです。


ある人が純粋に、ある物の素晴らしさについて語っているつもりで、聞く側からするとそれが愚にも付かない自慢話としか思えない、というのはよくある話です。
同時に、自分では「楽しむための教養」のつもりが、「お山の大将を気取るためだけの知識自慢」に堕してしまっている可能性も常にあります。


人間は基本的に自慢話をしたい生き物です。そこを自己正当化したい生き物です。
故に、意識的にそうならないように点検しなければいけないわけです。


そのためには、まず伝える相手を意識し、その人に具体的な楽しさが伝わるように心がけることです。


極端な書き方になりますが「ドイツ哲学を知ってる俺は、その分だけウォーハンマーが面白い」と言ってしまった場合、それは単なる知識自慢に聞こえてしまいます。
そうではなく「ドイツ哲学を知ったことで、ウォーハンマーにこのような解釈ができ、このような面白さを見つけたんだよ」という具体的な話をして、聞く側が「へー。ドイツ哲学って面白いんだな」と思うようにしなければいけない。


今回、岡和田氏が想定した読者がどのようなものであるかはわかりません。
xenoth個人の感想としては、キーワードが多い文章だなという印象を受けました。
「ドイツ哲学」『ギリシア芸術模倣論』『ヴィンケルマン』「「近代」の成立に対する、原理的な批判」「心理学的な「シャドウ」」『ゲド戦記』『夜の果てへの旅』「フリードリヒ・シュレーゲル
こうした未知のキーワードが文中にあり、かといって興味を持って調べたくなるほどの情報もなく、また調べる必要があるほどの深い関連性があるかという点も疑問で(もっと平易な言葉で言い替えられそうです)、単に、「難しい言葉が羅列」されたという印象を受けています。


もちろん、どこまで詳しい説明を入れるか、どこまでを前提知識とするか、というのは人それぞれ、読者それぞれで、岡和田氏の想定読者からxenothは外れているだけのことかもしれません。
しかしそれならそれで、想定読者以外にとっては、「何か一つの狭い分野での教養を誇ったり、無意味な上下関係を生み出してしまう」危険性があることは意識すべきでしょう。


次のヘイトスピーチにも関連しますが、言葉は常に凶器となりうるのです。

ヘイトスピーチとゲーム

ちょっと面倒な話になるので、最後に持ってきました。

高橋: そうですね。先日、人文研究者の方と「ゲーム書籍におけるヘイトスピーチ」の話になったんですが、「少しでもユーザが不愉快になり得る発言はベンダの側で自重すべき」という態度は、ひとまず娯楽商品の担い手として、正しいとは思うんですよね。 ただ、その場でひたすら「自重しろ」と制するだけでは、何か大事な論点を取りこぼしつづけるんじゃないか、という気分になるのも事実です。商品である以前に、「ゲームデザインという表現」を、もっとフラットに語ることはできないのか、とは常々思っていました。

さて「娯楽商品」は、娯楽であるためにユーザーを不愉快にさせないように工夫しますが、ヘイトスピーチの問題点は「少しでもユーザーが不愉快になる」かどうかといった次元の話ではありません。それでは「娯楽作品」でなければ、ヘイトスピーチが許されるかのようです。


ヘイトスピーチの問題点は、それが明確に人を傷つける可能性があることです。
フィクションの場合、人を傷つけるのは読んだ人間であり責任も読者にあるとはいえ、作者として、その可能性を全く考慮しないのは、うかつすぎるでしょう。
TRPGの場合、特に、ルールやシナリオ、リプレイは「お手本」であり、模倣を招くので、安易な記述は、本当に人を傷つけます。


例えば、公式シナリオやリプレイでセクハラな展開がある時、一般のGMやPLが真似して卓上でセクハラを行った場合、一人の人間を深刻に傷つけます。
この時、プロのライターが遊ぶプレイ卓では問題がなかった行為でも、それを読んだ一般プレイヤーが真似した場合に、被害が出ることがあるのはわかるでしょう。


特に「この世界観ではこれが普通」「異世界を理解することがTRPGの醍醐味」といった大義名分は、卓での強い圧力となります。それを断りきれずに被害が拡大するということが実際に起きます。
TRPGは、現実の人間関係と架空の人間関係の両方を背負って遊ぶわけで、最悪の場合、そうしたハラスメントや、いじめを正当化してしまう場合があるのです。
宗教や民族問題も同様です。


だからこそ、多くのTRPGのルールブックには、「ゲーム内の理屈で、実際のPLを不愉快にさせてはならない」と、くどいほどに書いてあるのです。
世界設定的にも、PCのキャラクター設定的にも、シナリオの目標達成にも貢献する上で、プレイヤーを傷つけるロールプレイはあるのです。


もちろん一方で、たとえば差別的な記述を恐れるあまりに差別用語を全て禁止した結果、差別の存在自体が黙殺され、それこそが一番深刻な差別になるといった問題もあります。
単に言わなければいい、ということでないことは確かです。


最終的な境界線は、各々が自分の良心に拠って引くしかありませんが、少なくともここに関して「フラットな」立場は存在しえないことは強くいっておこうと思います。
自分が加害者である可能性を理解したら、「フラットに語る」ことができないのは当たり前のことです。

岡和田: ヘイトスピーチが蔓延する現代に生きると、重みがよくわかりますね。翻訳にあたっても、気を使います。その意味では、このリプレイは最初からきわどいネタを扱ったけど、無意味に弄んでいるわけではありません。きちんと理由はあるし、セッション時には参加者に共有されていたように思います。レジーナとドロテーアの霊が対峙するシーンも、その裏があったから重みがありました。あれは戦慄しましたよ、同じ卓にいて。あとはガンツ三兄弟を手駒っぽく使ってきたシルダが、徐々に兄弟に転移していくのも面白かったなあ。エックハルトはそこのところ、クールでしたね。チェーザレ・ボルジア的というか、なんというか。

先にも書きましたが、TRPGリプレイの場合、理由があることと、セッション参加者に共有されることに加え、その理由が先に書いたように大義名分の押しつけになってないか(どれだけ美学的な理由と必然性があっても、イヤなものはイヤなわけですが、ちゃんとイヤと言える雰囲気か、そういうのが本当に好きな人を集めているか、という点が重要です)、また、それが読者にまでしっかり共有されているか、ということが重要になります。


「魔力の風を追う者たち」のリプレイにおいて、「きわどいネタ」を扱っているという自覚があるのであれば、そうした読者向けのフォローもあったほうが良いかと思いました。

*1:なお、ここで言う過渡期云々は、そういう流れの中に位置づけられるということであって、完成度の話ではありません。『箱庭型』の中から『シナリオ型』が生まれ、変化していったからといって『シナリオ型』がエラいわけではなく、過渡期作品が中途半端なわけでもありません。念の為。

*2:GMとPLが協同で話を作るのではなく、PLを無視してGMが一人で勝手に「物語を語る」だけのセッションを吟遊詩人になぞらえて、吟遊型と言ったりします。ジャイアンリサイタルみたいな感じですね。

*3:もちろん、単なる思いつきであることを自覚して「なんかこういうの思いついたんだけど」というのはいいことです。まずいのは、単なる思いつきを何かすごい仮説であると勘違いしてる場合です