対談感想その1

ウォーハンマーRPGとは

AGSに、新しい対談記事が追加されました。
『ウォーハンマーRPG』リプレイ「魔力の風を追う者たち」ウェブ再掲記念;非公式対談――遊んでみて“改めて/新たに”わかった、会話型RPGの批評性: Analog Game Studies
今回は、『ウォーハンマーRPG』のリプレイに関する、GMとプレイヤーの対談記事ですね。


さて、『ウォーハンマーRPG』とは、どんなゲームでしょうか?*1


名は体を表すと言いますが、ソードワールドRPGやブレイド・オブ・アルカナが、剣(ソード)や刃(ブレード)のイメージ、即ちシャキーンとかズバッという感じなら、ウォーハンマーRPGは、戦鎚。ドコッとか、メキッグシャッといった感じのRPGと言えるでしょう。


……わけわかりませんね。真面目に説明。


ウォーハンマーRPGは、ファンタジー世界を舞台にしたTRPGです。
この世界は「混沌」と呼ばれる凶悪な存在や、それを奉じる手先が、邪悪な*2陰謀を繰り広げている世界です。
マンガの『ベルゼルク』をご存じなら、ちょうどあんなイメージです。
ベルセルク』は、主人公ガッツの妖魔との報われぬ戦いを描いたファンタジーであり、重厚かつ真っ黒なストーリーと描き込みが特徴です。
主人公ガッツの特徴的な武器は、時に「鉄板焼きの鉄板」と言われるくらいの、巨大な剣。

それは剣と言うにはあまりにも大きすぎた 大きくぶ厚く重くそして大雑把すぎた それはまさに鉄塊だった。

(ガッツの剣(竜殺し)が直接出てくるわけじゃありませんが)ウォーハンマーRPGも印象としてはこれです。ゴシャァッ、とか、メキッ、といった擬音が出そうな「痛そうな戦闘」ができるゲームです。


そうした『ベルゼルク』的なストーリーを遊べるTRPGとしては『ブレイド・オブ・アルカナ』もありますね。違いを比べると、まずブレカナのPCは殺戮者と戦う宿命と力を負った「聖痕者」という存在ですが、『ウォーハンマーRPG』の場合、ただの一般市民(から現れた野心ある冒険者)であるところが違います。


ウォーハンマーRPG』は一般市民としての生活も大切にしたゲームで、キャラクターの普段の生活が丁寧に描かれます。
クラスも「戦士」や「魔法使い」みたいな能力的な区分けではなく、「ネズミ捕り」とか「密輸商人」「墓荒らし」みたいな社会的な立場を兼ね備えたキャリア(経歴)で、それによって技能や所持品が変化します*3
冒険しながら、職を転々と渡り歩いてゆくという独特の体験ができるTRPGです。


「ちょっと待て」という声が聞こえます。「一般人の日常・生活描写って『ベルゼルク』とかだと死亡フラグじゃね? しかも混沌がうろついてるダークファンタジー世界で、PCも一般人って、それ詰んでねぇ?」


ま、まぁ割と?


いやそれは半分冗談で、一般人といってもPCは強いですし(ヒーローの強さを表す運命点というシステムがあります)成長もするので、頑張って強くなって英雄を目指すことができます。


ウォーハンマーRPG』は様々な遊び方ができるTRPGで、別に真正面から混沌と喧嘩しなくても全然構いません。
その上で、明らかに勝てそうにない混沌勢力と、のたうち回って戦ったり逃げたり逃げ切れなかったりといったダークな側面もゲームプレイの味の一つです。『クトゥルフ神話TRPG』みたいなノリでもプレイできるわけです。

魔力の風を追う者たち

解説が長くなりましたが、そのウォーハンマーRPGのオール魔術師リプレイ『魔力の風を追う者たち』の対談記事でした。

岡和田:経験点も2000と多めでスタートして、まま語られる「『ウォーハンマーRPG』=マゾプレイ」という偏見を消したかった。いや、たしかにマゾプレイでも面白いのですが(笑)、ゲームを見る角度を変えたかったんです。だから思い切って全員魔術師(笑)となった次第。そうすることで、「魔法を生きる糧」としている人たちの生活や人生そのものにまでスポットを当てて、そうした部分からストーリー的な面白さを提示してみたいと考えた次第です。

生活や人生を描く側面が大切にされているというのは、先の説明で書いたとおりです。
「『ウォーハンマーRPG』=マゾプレイ」というのは、先に述べた、強大な混沌勢力とひよわな人間の戦いといった印象から良く言われる話です。
岡和田氏のおっしゃる通り、別に無理してそういう遊び方しなくても良いのですが……『魔力の風を追う者たち』のセッションが、強大な混沌の力や強大な魔術師組織にPC達が追いまくられ、NPCがガンガン死ぬマゾプレイっぽい話になっていることはご愛敬でしょうか(笑)*4

ぐだぐだと口プロレス

高橋: フレーバーをGMだけが拾っていても、プレーヤーの側が意味付けて、確かな“状況打破の一歩ずつ”にしていかないと、という気持ちがあります。僕が会話型 RPGのプレイング中に、常に気をつけていることでもあります。素朴な設定を、ゲーム的な設定に貪欲に取り込んでいくのもプレーヤーの仕事といいますか。
岡和田: そこはGMとして客観的に見ていても、伝わってきましたよ。ただ最近では「ぐだぐだ」と呼ばれてしまうことも多いんですが、実はこの過程って大事なんじゃないかと自分としては思っています。だから「ぐだぐだ」は私の中では、NGワードにしているんです。
高橋: それは、「口プロレス」という言葉の弊害だと思いますね。たとえば、どれだけパーティの中で自分のキャラづけが巧く行っていても、それが「そういうキャラだから」というだけでは、本当の意味での説得力がない。「あの設定を活かせば、こんな風な解決策を編み出せて、その為にこんな判定を要求できるのではないか……」と、自ら継続判定を編み出すところまでいけばいいと思うわけです。

岡和田氏と高橋氏の考えでは、プレイヤーが状況や設定を解釈して、ストーリーに介入し、その過程で自分に都合の良い流れを作るのは「ぐだぐだ」、「口プロレス」と呼ばれて、嫌われている、ということになるでしょうか。


個人的には「ぐだぐだ」が嫌われているという感覚はありません。
まず高橋氏のおっしゃる通り、「ぐだぐだ」は、プレイヤーが自分や互いの設定をうまく利用してセッションの方向性、キャラクターの方向性を作り上げる過程で発生するもので、TRPGの楽しい点、必須の点であると言えます。


一方で、その「ぐだぐだ」をどう文章として読める内容にするか、というのはまた別の問題です。


「ぐだぐだ」をうまく扱ったリプレイとして、私が最初に思いつくのが菊池たけし氏の一連のセブン・フォートレス関連のリプレイです。
世界設定の根幹の一つである「闇の宗教」が、初代の『アルセイルの氷砦』におけるプレイヤーの設定を拾ったものだったり、『リーンの闇砦』においては、PCの1人であるファラウス*5がラスボスになってしまったりと、どえらいことに。


おっと、もちろん「ぐだぐだ」は、何もラスボスになるためのものばかりではありません(笑)。
最近だと『シノビガミ・リプレイ戦1 事無草、咲く』(文庫)が、このあたりのぐだぐだを大変細かく紙面に描写していて心の底から爆笑できる一方で、プレイヤーがキャラクターの立ち位置を互いにすり合わせゲーム進行につなげてゆく過程が丁寧に分かる作りになっていました*6


長くなりましたが、「口プロレス」や「グダグダ」が嫌われているということはないと思います。むしろ、その逆で、そうしたキャラクターの関係構築、シナリオの方向性構築が、「ぐだぐだの中で」形成されてゆく過程を、どう文面に落とし込むかの技術が磨かれ、競われていると個人的には思います。

気のせいです

岡和田: いや歴史と個人は繋がっているんです。大げさなんてことはありません。そこは自信をもってよいと思います。例えば、一例を出しましょうか。至高魔術の思考法って、私にには既視感がすごくあったのです。至高魔術の思考法は、18世紀ドイツの批評家、フリードリヒ・シュレーゲルの発想によく似ているところがあるように思えます。シュレーゲルは、近代批評の確立者の一人として、必ず言及される人物です。「アテネーウム」という先鋭的な雑誌を編集して、そこで未来のフィクションのあり方について語りました。彼にとってのフィクション=文学は、他のジャンルを巻き込みながら無限に生成・発展を遂げていくものであるとともに、それ自体「はりねずみのように」完成されたものでもあるんです。
 至高魔術は、つまり「魔法」という『ウォーハンマーRPG』の根底を形成する要因ですよね。しかし「魔法」は同時に、混沌の生(き)の力そのものでもある。「混沌」というのはある意味、無限に発展していく自生的な力です。反対に、至高魔術は、完成された揺るぎのないものです。それこそ、「はりねずみ」のように。だから「混沌」はぶっちゃけ、近代のメタファーではないかと私は思っています。

なんでもそうですが、特定の部門を深く究めると、他の部門に応用が利くようになります。


例えばTRPGに深く親しんだ人なら、小説を理解する場合でも、「シーン進行」「GM視点」「PCとNPC」といった視点で小説を解釈することができ、「良いセッションを行う方法論」を「良い小説を書く方法論」に応用することができるでしょう。


そのようにして三島由紀夫でも川端康成でも、TRPG視点で分析することはできます。
一方で、だからといって川端康成が小説書く時にTRPGを意識していたか、というとこれは別問題です*7
あるジャンルの知識が別ジャンルに応用が利く、ということと、両方のジャンルが共通の根を持つ、というのは別問題なのです。


岡和田氏は、確かドイツ思想で卒論を書かれたと記憶しております。
その知識から、様々な設定をドイツ思想的な観点で分析できることは素晴らしいと思いますが、一方で、ある設定をドイツ思想で語れることと、ある設定がドイツ思想を意識していることは全く別問題です。


また混沌が近代のメタファーとありますが「近代」というのは幅が広い概念なので、「近代・前近代の対立」のモチーフだけで文脈を特定するのは難しいと思います。


なぜかというと、この世にあるほとんど全ての作品は中に対立構造を持っており、そうした対立構造について、やろうと思えば「近代vs前近代」あるいは「モダンvsポストモダン」の構図を見いだすのは大変に簡単だからです。


たとえば、『キン肉マン』で、「正義超人vs残虐超人」「正義超人vs悪魔超人」といった善悪の構図が「善悪を超越した完璧超人対他の超人」という構図で上書きされるのは、まさしくプレモダンからモダンへの変遷であり、それを経て、キン肉マンの「キン肉マン性」が無数のシミュラークルとの対比の中で問われ、神の死に至るという構造をポストモダン的と評することもできます。
そうしたシミュラークルの提示が王位継承戦という極めてプレモダンな設定の中で行われることは、ポストモダンがプレモダンに回帰するというテーゼに忠実であることを意味し、それは近代技術の申し子である次鋒レオパルドンが原始の魂を持つマンモスマンノーズフェンシングで秒殺されるところまでの一貫したテーマとなっています。


……断るまでもないと思いますが、適当書いていますよ?
キン肉マンほどの作品なら、その中に無数の解釈の余地があり、好きな描写を拾うことで好きな解釈を成立させられるというだけのことです。
特に「近代」などの、解釈幅が大きい言葉は、何にでもこじつけられる分、濫用すると、ぶっちゃけバカっぽく見えるので要注意です。


長くなりましたが、ウォーハンマーRPGの混沌が近代だというのは、キン肉マンポストモダンだ、というのとだいたい同じだと思います。

高橋: なるほど。ということは『ウォーハンマーRPG』の背景設定は、ゼロから突然生まれてきたわけではなくて……。
岡和田: もちろん理論的なバックボーンがあり、しかもデザイナーはおそらく半分くらい自覚的でしょう。で、私の目には、そうした『ウォーハンマーRPG』の設定の構造と、今回高橋さんがリプレイへの注釈を通して理論を生み出した過程が、パラレルに見えたわけです。

とはいえ、もちろん中世的ファンタジーを描く作家が、近代と前近代の対立テーマを全く意識しないということも有り得ないので、多少の根はあるでしょう。また、作者の意図とは別に混沌を近代と解釈する視点自体には意味がありうる。


ただし、それは混沌を近代であると喝破することに意味があるのではなく(近代という用語を知ってる人なら誰でもできることです)、その解釈から具体的に何を作り出すかに意味があります。
この場合は、岡和田氏が、混沌を近代のメタファーとし、至高魔術にフリードリヒ・シュレーゲルの批評を重ねた結果、何を作り出したか、という点ですね。


至高魔術と混沌については、リプレイを参照すると、こんな感じです。

GM:「可能なのだよ、混沌の力を利用すれば。君たちは誤解しているようだが、混沌の力は技術として活用すべきもの。我々は、混沌のさらに高みを目指している。その先に待つのは、究極の秩序だ」
エックハルト:「それは、遥か古のハイ・エルフにしかできない業ではないか!」
GM:「その通り。我々ではハイ・エルフの至高魔術には手が届かない。しかし、至高魔術と同じように、8種の魔力の風を同時に用いる方法は存在する。そう、真のダハールだ。我らは暗黒大陸ナーガロスのダーク・エルフの協力を得て、真のダハールを制御する術を身に着けた!」
エックハルト:「ダハールとは黒い『魔風』! 暗黒の魔術を操るつもりなのか? 何たる傲慢だ!」

このあと、(案の定)混沌は制御されずに暴走し、全てを呑み込んでゆきます。
個人的にはフリードリヒ・シュレーゲルを持ち出す必然性は、あまり感じませんでしたが、皆様はいかがでしょうか。


さて最初に、TRPGを知ってる人はTRPG的な観点で物事を見ることができる、と書きました。これは、ともすると「発想がTRPGに制限される」ということでもあります。
TRPG的な分析自体は強みですが、何を見てもTRPGに見えるようになったら、これは注意しなければいけません。
物事を深く知り、他に応用を利かせることが、一方で、思考の幅を狭めることにもなります。
そうならないように気を付けたいものです。

トリビア

高橋: もう脱線しすぎでしょ、岡和田さん!(笑)
岡和田: 逸脱はRPGの本質だと論じている人がここにいるんですが(笑)
高橋: 脱線する前に言えばかっこいいんだけど……(笑)

てなわけで、ちょっと脱線。トリビア話です。

高橋: (笑)僕はまだ岡和田さんに推薦されて、辛うじて中古本を手に入れただけです。アレクサンダー・スコットがデザイン。1988年に佐藤洋平清松みゆきが翻訳、ですね。

佐藤洋平佐脇洋平
ですね。

岡和田: 『混沌の渦』が英語圏的にすごかったのが、16世紀をすっごく真面目に表現しようとしているところ。ネイティブじゃないとなかなか調べがつかないような設定がてんこ盛り。もう少し産業論的なパースペクティヴも入れると、発売元がPenguin Booksなのも画期的でした。日本で言うと岩波書店が会話型RPGを出している、みたいな(笑)
高橋: オリジナルはPenguinだったんですね。それは凄い。Penguinから出たのは1984年。

Penguin Booksは、お二人が述べている通り有名なレーベルで、シェークスピアをはじめ、数々の名作文学を出版している、ちょっとお堅い感じの文庫です。


ただし『混沌の渦(Maelstrom)』が発売されたのは、Penguin Books出版ではありますが、その中の子供向けレーベルであるPuffin Booksです。


Puffin Booksは特に80年代から、ポピュラーカルチャー路線を導入しており、ディズニー映画とのタイアップなどを進めています*8。この頃のタイトルに「君にも解けるルービック・キューブ(You can do the cube)」*9等があります。ヤングアダルト作品(ラノベですな)を始めたのもこの頃です。


80年代Puffin Booksの重要な作品としては、1982年に発売されたゲームブックの古典的名作『火吹き山の魔法使い』があります。これが大人気で、ファイティング・ファンタジーシリーズとして長く刊行されることになります。


TRPGシステムということでは、1984年にゲームブックの同シリーズをTRPG化した『ファイティング・ファンタジー』が発売されています。『混沌の渦』が同年11月に発売されたのも、その流れです。
http://www.amazon.co.uk/Maelstrom-Puffin-Adventure-Gamebooks-Alexander/dp/0140318119/
こちらを見るとわかりますが、『混沌の渦』も「Puffin Adventure Gamebooks」というレーベルになっていますね。ファイティング・ファンタジーシリーズを翻訳している社会思想社から翻訳版が出たのも、その流れでしょう。


つまり「混沌の渦」が発売されたのは、イギリスの岩波書店ではあっても岩波文庫ではなくて、岩波少年文庫、もっというなら角川スニーカー文庫的なところであったということですね。そしてそれは、ゲームブックの流れにあるのです。


長くなりましたので、一旦、ここまで。

*1:個人的にはゲームの紹介記事には、必ず自分で簡単な説明をつけるように心がけています。詳しいリンクに頼るという方法もあるのですが、自分の記事でこちらが伝えたい情報が整理した形であるとは限りませんし、またリンクを参照してもらうにせよ、簡単な概要が頭にあったほうがわかりやすいからです。いずれにせよ読まなければいけない前提条件として外部リンクを出すたびに、半分は読者が消えると考えたほうがいいでしょう。

*2:意識的に悪かどうかはともかく、少なくとも一般人の生活には果てしなく迷惑な

*3:ご存じの方は『ソーサリアン』の職業システムを……ってそっちのほうがわかりにくいですね。

*4:エンディングフェイズで、何のフォローもなくおかみさんが殺されて死ぬオチは大変に衝撃的でした。

*5:そのプレイヤーがFEAR社社長の鈴吹太郎であるというのがまた。

*6:シノビガミはプレイヤー間の競争要素もあるため、立ち位置の構築=有利な位置の取り合いであり、まさしく口プロレス勝負になってるあたりがまた面白い。

*7:もちろん例えば『不思議の国のアリス』的な、TRPG的な語りについて意識していた可能性はあります。ご存じの方がおりましたら、示唆いただけると嬉しいです。

*8:http://www.puffin.co.uk/static/aboutpuffin/historyofpuffin/ より。

*9:http://www.amazon.com/You-Can-Cube-Puffin-Books/dp/0140314830