ローズ論再訪
門倉ファンタジーと忘却
門倉直人『ローズ・トゥ・ロード』: 21世紀、SF評論
前回は、WローズおよびTRPGの批評について書いたので、残りの部分に関する感想になります。
言葉と忘却
ファンタジーの幻想的な部分を言葉で直接語ろうとすると、幻想らしさが失われるという幻想文学のジレンマがあります。言葉だけではたどり着けないところに、どうやって言葉でたどり着くか?
これに対する回答の一つとして「忘却」や「空白」のモチーフを門倉氏がユルセルームにおいて使っているというのが本論の主旨と思います。
さてファンタジー作品において「忘却」や「空白」のモチーフは、わりと普遍的です。
個人的に「忘却」や「空白」のモチーフとして思い出深いのは、エンデの『はてしない物語』や、P・S・ビーグルの『最後のユニコーン』であり、効果的に使用されていました。
シュメンドリックの放つ、自ら制御できず覚えていることもできない「魔法」や、「はてしない物語」において、記憶を代価に創造することは、共に近代的自我との相克として捉えられると思います。
その中で、門倉氏独特の取り組みが、どのようなところにあるかですが、岡和田氏の論考では「他者としての自我と邂逅することで、透明に近づき世界と合一する」とありますが、他者としての自我との邂逅は、『ゲド戦記』の影との戦いを想起します。
それまで、強い魔術を振るっていたゲドが、「名もない影」すなわち忘却の中にある自我と邂逅することで、それ以降は、表だって魔法を使わず、世界の調和を重んじる、「忘却された」魔術師となってゆくわけです。
『妖女サイベルの呼び声』における、サイベルが捜し求める謎の答えも、また、(近代的自我の方法論である)万巻の書ではなく、心の闇の中に忘却と共にありました。
このようにファンタジーのモチーフとして、世界の姿に触れるために、一旦、近代的な自我(確固とした自分があってそれが重要とする立場)を捨てる必要があり、そのために「忘却を通じて得るもの」があり「他者としての自我との邂逅」があり、世界と合一化した本人が「透明な存在となってゆく」ことは、わりと一般的なモチーフなのではないかと思いました。
夜の言葉
ファンタジーや昔話を分類、理解する方法の一つとして、ユング心理学がよく引き合いに出されます*1。それらはル・グィンが『夜の言葉』で語っている通りです。
近代的自我が、影(シャドウ)との対決を通じ、また各種のアーキタイプとの遭遇を経て世界と合一し、その過程で、象徴的に死亡する=忘却された存在、空白となるのは、ユング心理学の基本的な話であったと理解しています。
「忘却」「空白」は、ユング心理学の文脈では、世界との合一に至る重要な要素であると同時に、恐ろしい危険でもあります。
『影との戦い』で、「影」がどれほどにゲドを蝕むか。
ユルセルームにおいても、たとえば「忘却」をもたらす「ハヴァエルの帳」は、触れるものを恐ろしく変容させる、人の手にあまる原初の力としての側面もあります。
ユングも、もちろん単独でユング心理学を作ったわけではなく、参考にしたと思われるものの中に、老荘思想なんかがあります。
俗化された話として、仙人になろうとするとか悟りを得ようとする時とかは、近代的自我が邪魔になるみたいなのはよくある話です。
このあたりの仙人と、その弟子のイメージは、無論、ゲドとハイタカ、そして後のゲドにも受け継がれてると言っていいでしょう。