TRPGと多様性とリアルリアリティ

要約

TRPGの表現するリアリティには、現実的なものからご都合的なもの、幻想的なものまで様々なものが含まれる。
その中で、各プレイシステムや、各卓は、より面白い=遊ぶ価値があるリアリティを追求する。
その追求の中で、ある「リアリティ」を持って他の「リアリティ」を安易に否定する場合があるが、これは好ましくない。他者の楽しみには配慮すべきである。
同様に、TRPGが楽しみであるのなら、自分の好むリアリティを推薦する時は、その面白さ、素晴らしさを語るべきで、他のリアリティをけなすべきではない。
TRPGを、現実を深く知るための道具として捉えることは価値があるが、そこにおいて、「現実的でないTRPG」を安易に否定するのは問題がある。

Analog Game Studies開始おめでとうございます

さて、Analog Game Studiesという企画が始まった。
代表は、TRPG方面ではD&Dウォーハンマーの翻訳、リプレイでおなじみの岡和田晃氏( id:Thorn )。このblogでもおなじみの高橋志行氏( id:gginc )も参加しており、TRPGを含むアナログゲームに関する素晴らしい論考が待たれる。
今回は、最初の記事が掲載された。
傷だらけの偉大な負け組に捧ぐ:「役割演技式競技」における「ヒーロー」とは何者であろうか?: Analog Game Studies
である。

傷だらけの偉大な負け組と快刀乱麻で万能強力な勝ち組について

今回の蔵原氏の記事を要約すると以下のようなことになろう。

  • TRPGでは英雄、ヒーローがプレイされることが多い。
  • そうしたヒーローは、昨今のアニメや映画に登場するような、快刀乱麻に問題を解決する万能強力なヒーローであることが多い。
  • 一方で、現実の英雄は、限られた情報の中で、痛みに満ちた決断を強いられ、負けることも地を這うこともある泥臭い存在である。
  • 英雄をプレイしたいのなら、現実の英雄の内実を知るべきだ。

記念すべき初回記事ではあるが、敢えて苦言を呈させていただきたい。

  • 「快刀乱麻な勝ち組み」というステロタイプ
  • 痛みと視点
  • TRPGにおける単一の英雄像の押しつけ

以上の3点から語る。
その批判の後に、この記事が本来意図していたと思われる目的について考察する。

「快刀乱麻な勝ち組み」というステロタイプ

 そう考えるとまず頭に浮かぶのは、昨今の映画やアニメで綺麗どころの若い男女が快刀乱麻に混迷をさばき、万能強力に難敵を打ちたおし、恋愛沙汰でも大きな成果を収めるその雄姿である。彼らの華々しい活躍は多くの視聴者を惹きつけているようだ。彼らはいわば勝ち組である。

まずは、ここから。
このように言われるが、しかし、「綺麗どころの若い男女が〜」という映画やアニメは何だろう?
あるいはTRPGは何だろう?


昨今のアニメだと、「コードギアス 反逆のルルーシュ」においては、家庭的幸福と社会的正義の間で揺れ動き、時に理想のために手を汚し、時に敗北し泥にまみれ、幸福と正義の間で後者を選択するが故に苦悩する主人公ルルーシュランペルージの姿が活写されている


一般論になるが、そも「英雄が万能強力に難敵を打ち倒す」だけではドラマにならない。英雄とて、負けたり挫折したり悩んだりするからこそドラマになる*1
即ち、英雄を描く作品は、英雄と困難の物語である。


翻ってTRPGはどうかといえば、これも、「困難」が存在して、それをパーティで打ち破る物語であり、「万能強力」では話が進まない。つまらない。
単発シナリオの場合は、「強い敵を倒すこと」で終わることも多いが、キャンペーンとなると、それらを一貫するテーマとして「ただ勝つ以上の何か」が求められ、そこには様々なモラルジレンマが含まれることが多い。
市販のリプレイを見ればそれがわかるだろう。
昨今の個人的なお勧めは「ダブルクロス・リプレイ・デザイア」。
全ての願いを叶える「マテリアル」争奪戦の中で、赤裸々な欲望が、理想を望む少年達と、失われた過去の痛みを知る大人達の間で揺れてゆく。


余談だが「万能強力に敵を打ち倒す英雄」の話を考えて見たが、一つ思いついたのは、水戸黄門である。また80年代に「泥臭くのたうち回るヒーロー」や「努力や友情で協力するヒーロー」へのアンチテーゼとして「過剰に強すぎる主人公」が登場したことがあった。
菊池秀行のDや秋せつら、バスタードのダーク・シュナイダーなどがあげられよう。
しかし、水戸黄門にしてもそうだが、これらの主人公達は、直接的な感情移入の対象というよりも、主に「狂言回し」や「物語の機能」として存在する場合が多い。
魔界都市ブルース」において、秋せつらは、魔界都市の闇を先導する案内人であり、また、場合によっては魔界都市の正義を体現する執行者でもあるが、本当の主人公たちは、そこで悩み傷つく市井の人々である、というわけだ。
TRPGにおいても、これらの「超絶主人公」を直接プレイするゲームは少ない。
近作の『天下繚乱』では、水戸黄門の面白さをゲームシステム的に落とし込んで、楽しくプレイできるようにするという快挙を成し遂げている。

「痛み」について

さて、上記にあげた作品群において、ジレンマや悩みがあるとはいえ、最後にはご都合で片が付くハッピーエンドじゃないか、という批判があるかもしれない。
程度問題だが、その通りではある。
今も昔もエンターテイメントとして成立する物語は、多かれ少なかれ、ご都合ハッピーエンドがつきものである。


しかし、程度問題ということは、程度問題として、真摯な悩みも痛みに満ちた決断も存在しているということだ。
それらを単に批判した場合、「より痛い作品だけが素晴らしい」ということになりかねない。
より悲惨で、より救いがなく、より苦い「現実」と直面する作品が、常に素晴らしいことになってしまう。


現実は、別に悲惨なこと、うまくいかないことばかりではないのだから、現実性の名の下に、悲惨フェチとなるのは、ありがちな間違いだ。


個人的に思い出すのは、昔見た、忍者ハットリ君のアニメだ(記憶が曖昧なので実際と違っていたらご寛恕願いたい)。


そのエピソードでは、カンゾウ 12/06 コメント欄でご指摘いただいて修正シンゾウ(ハットリ君の弟。子供)が、お釣りをごまかして、買い食いをする。後にそれが悪いことだと自覚して、自分からあやまるまでの話だった。
戦争で5万の将兵を犠牲にする将軍の苦悩に比べてたわいもないといえばその通りだが、当時、カンゾウに近い年だった私にとって、このお話は、見ていられないほど泣き出すほどの苦悩を感じたのを覚えている。
もちろんこれは、そのような身近な出来事を選び、子供にとって深く伝わるような作劇をしたスタッフの成果でもあるだろう。


ことほど左様に、あるお話において、そこに決断の重さ、痛みを感じるかどうかは、見る側の問題でもある。「主人公が悩んだりするけど、どうせご都合ハッピーエンドなんでしょ」と言った物言いは、受け手の多様性も、作り手の方針も無視した安易なものである。


私は、昨今のアニメにせよマンガにせよTRPGにせよ、そこには葛藤や決断を描いた良作が存在し、「綺麗どころの若い男女が快刀乱麻に混迷をさばき、万能強力に難敵を打ちたおし、恋愛沙汰でも大きな成果を収めるその雄姿」といったものばかりが受けているとは思わない。

TRPGにおける単一の英雄像の押しつけ

 世に言う「ヒーロー」「英雄」とは何者なんだろうか? この問題は「役割演技式競技」(別名ロールプレイングゲーム/RPG)にとって非常に重要だ。なぜならその種の競技の参加者(プレイヤー)は、大抵は悪人や卑劣漢よりも「ヒーロー」「英雄」を好んでいるようだし、そうした人々の事跡を追体験したいと望むみたいだからだ。しかし追体験する当の対象の内実を知らないなら、どうしてそれができるのだろうか。

このような議論から、蔵原氏は、TRPGにおける英雄をプレイするには、スローン提督のような地を這う「負け組」の英雄や、クラウゼビッツやチャーチルの内面を知るべきだ、とつなげてゆく。


これは端的に間違いである。
私たちが、TRPGでヒーローをしたい時、そのヒーロー像には様々なものがある。


話を簡単にするためにスターウォーズのTRPGをやろうとしよう。
スターウォーズの中では、スローン提督もヒーローだが、ルーク・スカイウォーカーハン・ソロもヒーローである。
スローン提督みたいなヒーローをしたいのなら、スローン提督に学べばいい。
一方で、ルーク・スカイウォーカーハン・ソロみたいなヒーローをしたいのなら、ルークやハンに学べばいい。
そんなわけでルーク・スカイウォーカーをやろうとする時に、「おまえはもっとスローン提督の気持ちを知れ」と言われても困るし、逆も困る*2
スターウォーズという作品は、各種コミックや小説、TVシリーズなども加えて、膨大な設定、作品で出来ている。故に、スターウォーズ一つとっても、このように様々なドラマが存在する。


もちろん、スターウォーズに限らないTRPG一般においては、そのドラマはさらに広がる。
たとえば戦争だけに限っても、一騎当千の猛将が一騎打ちを繰り広げる世界もあれば、兵站と布陣の時点で勝負が99%決まる近代戦もあり、テロと低強度紛争を前提とした現代戦もありうる。
当然、それらの戦争ごとに、「英雄」の意味も価値も参考すべき作品も異なる。


蔵原氏は、スローン提督やセブン、ホームズを挙げ、そこからクラウゼビッツやチャーチルにつなげてゆく。つまり、現実に近い方向性のリアリティを持った英雄を参照すべきだ、という意図であろう。
これはTRPGにおいて、過去から現在まで様々な形で問題になった「リアリティの押しつけ」である。


TRPGにおける「リアリティ」問題は、様々な議論に発展した。その結果、最低限、以下のようなことは共有されたと思う。

  • TRPGが再現する「現実」は、各システムおよび各卓において様々である。
  • 「現実」の違いをわきまえずに、一方的に押しつけるのはよくない。
  • システムにせよGMにせよ、「卓の中の現実」を完全に管理することは難しい。

第三点については、説明がいるかもしれない。
普通のTRPGにおいて、GMは、ゲーム世界をプレイヤーに説明する役割を負う。
一方で、GMとて、ゲーム世界を完全完璧に把握しているわけではない。
たとえば、現代物のTRPGで「じゃぁ俺はこれから富良野に飛びます」とプレイヤーが唐突に言ったとしよう。
この時、何の準備もなしで「君たちは富良野についた。富良野では〜」という風にプレイを続けられるかといえば、難しい。富良野の知識が必要とされるからだ。富良野は知ってても、じゃぁ外国はどうか。韓国は、アメリカは、フランスは、ハンガリーは、と言っていけば、GMが万能な人間でない以上、確実に限界はあるだろう。
もちろん、これはGMだけの問題ではなく、ゲームシステムのほうでもそうだ。プレイヤーが行動しうる、ありとあらゆる状況に完全・完璧に対応するシステムやサプリメントは、これまでもこれからも存在しえない。


「卓の中の現実」を完全に管理することが難しいから、そこを理解した上で楽しく遊べるように努力する、というのが現代のTRPGの根底にある概念と言ってよいだろう。


蔵原氏のしていることは、結局、「現実に近い英雄」のリアリティを、「物語的、神話的な英雄」より優れたものとして、それを押しつけていることに過ぎない。あるいは、もしそのような意図がないのだとしても、そう読めてしまう文章を書いている。


それらは、上記のTRPGの共通理念に照らしても間違いであり、よく「リアルリアリティ」と揶揄されるタイプの行為である。

蔵原氏の問題意識〜現実をよく知るためのゲーム〜

以上、三つの観点から批判させてもらったが、どうにも揚げ足取りのようになったことを申し訳なく謝罪する。以下より、蔵原氏が、同時記事において、どのような問題意識で何を目指しているのかを考察する。


蔵原氏の観点を知るために私が参考としたのは、以下の戦略研究学会における講演をまとめた記事である。
http://fsmism.exblog.jp/13697558/
ここにおける蔵原氏の問題意識は、以下の通りである。

  • 世界史離れに代表される、今の人々の、「世界」「現実」の把握の薄さ
  • それを補うためのウォーゲーム、ボードゲームの運用

これらは2点とも、深く共感することである。


昨今、日本周辺も含め、世界情勢に緊張が見られるようになってくる。そこにおいて日本がどうすべきか、というのは、民主主義国家における日本では一人一人が考えなければならないことである。
で、闇雲に悩んでもしょうがなく、そも世界情勢というのがどういう理屈や構造で動いていて、どういう選択肢がありうるのか、それぞれの選択肢の結果がどうなると予想できるのか、と言った基盤となる知識が必要である。


本来は、それこそが世界史という学問の重要な目的の一つだ。
過去において、様々な国がどのような状況で、どういう決断をして、どういう結果になったかを知ることで、その知識を現在に生かすことができる。
一方で、学校で習う世界史というのは、「なんかよくわからん地名と人名と年号を語呂合わせで覚え続けること」で終わってしまいやすい。
それは世界史という学問の楽しみを理解できないという点でも、日本という国の行く末を良い方に変えるのに必要という点でも、残念であり、危険なことですらある。


蔵原氏は、そこで、「シミュレーション教育」すなわち、ウォーゲーム、ボードゲームを使った教育の価値を提唱する。


良くできたシミュレーションゲームにおいては、実際に歴史上の将軍や政治家が直面した現実を、ゲームとして味わうことができる。
なぜ、チャーチルは、ここでこういう決断をしたのか。別の決断をしたら何が起きていたのか、というのを、より深く、体験することができる。
歴史背景と合わせて、それらをプレイすることで、世界史を、単なる無味乾燥な一本道の事実の集まりではなくて、有機的な流れとして理解することができる。そのような理解は、面白いし、また、世の中を良くするためにも意味があるのではないか。


このこと自体は、私も大賛成である。


さて、ここにおいて、蔵原氏は、ゲームを「現実をよりよく知るための手段」としている。
だから、チャーチルやクラウゼビッツというった現実の英雄が、スローン提督のような現実に近い英雄が、ルーク・スカイウォーカーのような神話的英雄よりも、重視されているわけだ。
TRPGの英雄の話をしていたはずが、チャーチルのジレンマになるのも、そのような道筋であると了解されよう。

押しつけ

今回の蔵原氏の記事をそのような意図に沿って書き直すとするなら、以下のようなものになるだろう。

  • 現実を知ることの重要性
  • 現実を学ぶ道具としてのTRPG
  • 現実の英雄と、その内実

実際には「現実を知ることの重要性」および「現実を学ぶ道具としてのTRPG」の両方が抜けているため、どうにも押しつけがましい印象を与える記事となってしまった。


「TRPGは現実を学ぶためにも有用である」と「TRPGは現実を学ぶためのものである」は、全く別物なのだ。


さて、蔵原氏が「TRPGやシミュレーションを通じて、現実の複雑さを理解してほしい」と思っているとするなら、悲しいことだが、今回の記事は逆効果である。
今回の記事を読むのなら、「おまえらの遊んでる英雄像は薄っぺら」「最近のアニメや映画もクズ」「英雄というのはもっと泥臭いもの」という押しつけとしか取れないからだ。


「現実を学ぶ道具としてのTRPG」について語りたいのなら、その素晴らしさ、重要さについて語ることで共感を得るべきだ。
「現実的でないアニメや映画」「現実的でないTRPG」「現実的でない英雄」の批判批評から入るべきではない。
もしかしたら、蔵原氏にとっては、それらは軽い前座のつもりなのかもしれないが、人間、自分の好きなものを軽い気持ちでけなす人の意見を聞く気にはなれないからだ。


TRPGというのは、まず遊びであり、楽しく遊ぶことが目的だ。
楽しく遊ぶついでに現実について学ぶことができたら素晴らしいと思うが、「現実を学ばないTRPG」を批判、否定する必要はない。

押しつけと相対性

さて、「TRPGは遊びで楽しく遊ぶことが目的」と書いた。
言ってみれば、TRPGの「リアリティ」というのは、その楽しさを保障する構造である。
その意味では、「泥沼を這いずるTRPG」も「悲劇に翻弄されるTRPG」も「悪の黒幕を友情パワーでブッ倒すTRPG」も、差があるわけではない。


無論、それについて「面白ければなんでもいいのか」という批判はあるだろう。
もちろん、そうではない。


TRPGに限らず、あらゆる物語に共通することだが、「快楽をもたらす構造」は、様々な形の差別や偏見と結びついていることは多い。
それを前提とするのであれば、「現実を見るためのゲーム」は、「現実を見ない快楽優先のゲーム」よりも意味があるとは言える。


たとえば、ガンマン達(や、それを支えるメカニックやサポーター)が銃を撃ちまくって悪を倒してすっきり、というプレイスタイルを是とするガンアクションTRPGで、紛争地域の民族問題に安易に踏み越えば、それは「面白いからいい」では済まないだろう。
ファンタジーTRPGで、前座の雑魚としてゴブリンを出すように、ゲリラの人間爆弾を出してプレイヤーに蹴散らさせることは許されない。
キャラクターの生い立ちやモラルに深みを出すためのネタとして、現実に苦しんでいる人々の問題を扱いながら、それらを「『ゴルゴ13』やジェームズ・ボンドの映画で悪役にされたからって、誰も真面目に怒らないだろう?」と済ますのは、最悪のタイプの「面白さの相対化」である。


もちろん、じゃぁ、ファンタジーTRPGで、「善のパーティ」が「悪のゴブリン」を殺して経験値にするのは、それで良いのかという問題は常に存在する。それはそれで心に留めておくべきだ*3

視点のバランス

重要なのは、双方にバランスを持った視点を持つことである。
TRPGを楽しく遊んでいる人に「おまえら現実から目を逸らすな! 本当の現実はこうだ!」と押しつけることで、建設的な議論が生まれるはずもない。
一方で、「面白ければ何をやってもいい。現実の民族紛争とかを何の配慮もなく娯楽にしていい」というのも許されない。
双方に必要なのは、「相手」への視点だ。
楽しくTRPGを遊んでいる人の気持ちを尊重すること。
自国の問題をゲームにされた人がどう思うかを想像すること。
重要なのはそこだ。


さてさて本記事においては、一方的な批判や苦言が多く、あまりバランスが取れていないと言われてもしかたがないかもしれない。そのことについては筆者の文章力の限界である。
もう一度書いておくが、xenothは「ゲームを通じて現実を理解すること」には大賛成である。
「ゲームは所詮ゲーム。面白ければいい。現実とか学習とかどうでもいい」という意見には反対である。
私は蔵原氏を応援したい。
だからこそ、今回の記事のように、本論と関係ないところで、おおざっぱに色々なものを貶すのはやめたほうがいい、と主張したいのだ*4

追記

「「役割演技式競技」における「ヒーロー」とは何者であろうか?」という問いに答えるのであるなら、私の話は、「様々。人の思いの数だけ」ということになる。
無数のヒーロー像が存在し、それらをゲームの中で扱えるように無数の努力がシステム的、マスタリング的、プレイヤー的、その他に行われ、それこそがTRPGの可能性であるというものだ。


一方で、文中から読み取れる蔵原氏の答えは「正しいからかっこよく勝つ」のがヒーローではない。たとえ傷つこうとも汚名を着ようとも、自らの正しさに殉じる人間こそが本当のヒーローなのではないか、ということだろう。


それは大変に共感できるヒーロー像の一つだ。
ただ、それを褒め称えるために、他のヒーロー像を、おおざっぱかつ無意味に批判するのはいただけない。
何より、そのような論調は、蔵原さんの望むヒーロー像の素晴らしさを伝えるのではなく、むしろ、人を遠ざけてしまう。


何かを批判すること自体が目的、あるいは、論旨において批判が必要であればそれもいいだろうが、私から見る限り、そういう論旨には見えないのだ。

*1:そうでないドラマが不可能とは言わないが、難しい。また、一般の好みとずれた前衛的なものになりやすい

*2:もちろんルークのプレイヤーが、スローン提督の気持ちに思いを馳せること自体は意味があるし役に立つこともあるだろう。

*3:念のために書いておくが、善とか悪とかを信じないニヒルなパーティが金のためにゴブリンを殺す、というなら、より高等という話ではない

*4:貶すなと言ってるのではなくて、具体的に作品名を挙げて、このように批判されるというのならわかるが、「昨今のアニメや映画〜」的な、広範囲の批判は何も生まないという話だ