我々は思ったより大人ではない

要約

TRPGを含む創作上において表現されるキャラクターの思考力は、通常、本人よりも低くなる。
故に、「大人なら出来て当然のこと」が「TRPGの中では出来ない」ということがありうる。
これは別に恥ずかしいことではなく、そここそが出発点である、と認識すべきことだろう。

現実と創作

当たり前の話だが、創作は、現実に比べて単純である。
創作をどれほど複雑にしても、「現実そのもの」ほど複雑にはできない。
創作の中に登場するキャラクターは、作者の知識と経験の、ごく一部を反映したものに過ぎない。
小説のキャラクターに、自分の人生経験全てをこめられる人間はいない以上、小説のキャラは、どうしたって、現実の作者より単純にならざるをえない。*1
TRPGのキャラも同様である。

キャラクターは子供である

作ったばかりのTRPGのキャラは、そういう意味で、プレイヤーに比べて、人生経験や知識が少ない。*2
言い方を変えれば、子供っぽく、幼く、一面的である。*3
プレイヤーが、気遣い、心遣いができる立派な大人であっても、キャラクターが(キャラクターのロールが)、子供っぽくなることは、珍しくない。その時、キャラクターに釣られたまま、プレイヤーも熱くなってしまうことがある。


TRPGの時、架空世界の架空キャラの架空の葛藤や問題の話をしているにもかかわらず、ついつい大人げない喧嘩を始めてしまうことはないだろうか?


そうならないように注意すべきだが、大切なのは、そうなる理由だ。
自分が気配りができる大人だからといって、自分のキャラがそうであるとは限らない。というより、そうでない可能性が非常に高い。
その結果、その幼いキャラクターに引きずられて感情的になってしまう危険は誰にでも存在するのだ。

システムという誘導

またTRPGの場合、キャラクターの行動、発想は、システムによっても規定される。


端的に言うなら、戦闘ルールがメインのTRPGであれば、キャラクターの行動、発想も「どう戦闘するか」に偏るだろうし、その結果「喧嘩っぱやい」キャラになりやすいだろう。


今は昔、ソードワールドD&Dで「ゴブリンの人権」が取りざたされたことがあり、各地の卓でそれを巡って様々な議論なり喧嘩なりが起きたことがある。


この問題がソードワールドで極めて解決が難しいのは、何も、プレイヤーやキャラクターに知性や寛容の心が足りないから、だけではない。
ソードワールドというTRPGのシステムが戦闘メインで組まれている以上、キャラクターの思考は戦闘をする方向に大きく誘導されるし、戦闘しないソードワールドは、基本的に面白くないからなのだ。
言い方を変えるなら、ソードワールドソードワールドである限り、「戦闘で倒されて爽快感を演出する雑魚敵」は必要なのだ。*4


逆の話、ゴブリンを助けたいなら、そういうシステムのゲームを選べばいい。たとえば、お伽噺的なプレイを想定したシステムの、ウィッチクエストでやるなら、「誤解されてるゴブリンを助けて村人と和解しよう」といいったシナリオもやりやすいわけだ。

マナーに関するルール

システムによる制限、創作キャラということによる制限の両面から、TRPGのキャラクターは幼くなりがちで、また、それをプレイするプレイヤーも、それに引きずられやすい。
そのことは強く意識すべきだ。


TRPGのルールで、大人なら当然のマナーを明文化したりルールに組み込んだりしているように見える場合がある。それらが馬鹿馬鹿しく思えることもあるだろう。
もちろん、言われなくても分かるというならそれに越したことはないのだが。
実のところ、我々はTRPGをプレイしてる時、そこまで大人ではないのだ。そのことを忘れないようにしたい。

*1:その上で、小説作者は、自分より年配のキャラを作るし、天才キャラや名探偵キャラを出したりもする。そのように見せかける様々なギミック、技術があるが、逆に言うと、そうしたギミックや技術なしで「自分より頭がいい、経験が深い」キャラクターを完全再現するのは、大変に難しい。

*2:小説作者の場合、プロットやイベントを自分で計画するから、それに沿って「賢い」キャラクターを作れるが、典型的なTRPGの場合、プレイヤーは先の展開なぞ知らないわけで、小説にも増して、賢いキャラはやりにくい。逆に、それを補うために、シナリオの展開を興を殺がない程度に予告する、というマスタリングテクニックやシステムが存在する。

*3:もちろん中学生が、渋い親父のキャラをロールプレイしたりもするだろうが、その時であっても、ある意味の「子供っぽさ」があることが多い、という話。

*4:システムによって思考が誘導されることを、社会構造と個人の関係になぞらえた議論もできるだろう。ゴブリンが殺される社会を本当に変えたいのなら、個人の倫理観や行動に頼るだけでなく、その裏にあるシステム=社会構造から来る必然性も理解して、それを変える必要がある、と言い替えることもできる。