鏡さんへの返答
http://www.rpgjapan.com/kagami/2010/08/post-221.html
例えば「量的情報」について。高橋さんは、能力値を「量的情報」、街の人口を「質的情報」として分類しています。xenothさんは、「量」と「質」とに分けるのであれば、能力値も人口も「量的情報」に入りそうだ、だからその用語は不適当だ、と述べています。明確に定義されている内容を、自分の語感と合っていないからと言って問題視するのは、そうする方が不適切である、と私は判断します。
なぜ不適切かというと、高橋さんの論考がその定義に基づいている以上、その定義をそのまま用いなければ、その論旨を理解できないからです。理解する努力を怠っては、その批判もすべきではありません。どうしてもその定義を用いたくないなら、自分の定義で自分の論考を書けばよいでしょう。それは、高橋さんの論旨とは完全に独立した、xenothさん独自の理論となりますが。
私がここで批判しているのは、高橋さんの話の論旨や定義についてではありません。高橋さんの述べている「質的情報」「量的情報」という独自用語の、「ネーミングがわかりにくい」という話をしているのです。
たとえば、「この論考の中では、ヒットポイントをアッチョンブリケと呼ぶ」と定義して、アッチョンブリケを使ったことで、文章の論理的内容自体は変化ありません。
ただその上で、「ヒットポイントと同じなら、わざわざアッチョンブリケとか呼ぶな」とか「アッチョンブリケという言葉からは、ヒットポイントを連想できないので、そういうネーミングはわかりにくい」という批判が成立するでしょう。
もし、鏡さんが、「独自の理論の中で、著者がヒットポイントをアッチョンブリケと呼ぼうが、一般行為判定を、ジュゲムジュゲムゴコウノスリキレと呼ぼうが、キャラクターをプレイヤーと呼んで、プレイヤーをキャラクターと呼ぼうが、きちんと定義さえしていれば全て自由。問題なし」と思うのなら、それは鏡さんの勝手です。
私はそうは思わないということです。
なお学術的なルールでも、まぎらわしかったり意味がなかったりする独自用語は、通常、批判されます。