シミュレーション駆動とストーリー駆動

TRPGというのは、仮想世界を遊ぶゲームであると同時に、そこから生まれるストーリーを遊ぶゲームでもある。


よって、TRPGのルールには、世界の動きを記述するルールと、ストーリーを記述するルールがある。


世界の動きを記述する、シミュレーションの理論からゆくと、少ないルールで広い範囲を描写できるのが望ましい。「世界」が重要であるので、PC/NPCの区別はなく、PCが死ぬこともNPCが死ぬことも同じルールで記述されることが美しい。シミュレーションの「結果」としてストーリーが現れるのであって、ストーリーのために世界があるのではない。


一方、ストーリーを記述するルールの視点においては、世界はストーリーのために存在する。
ここにおいては、登場するオブジェクトは、ストーリーの関わりにおいて分類され、主役/脇役/モブといった分類も正当化される。


特定のストーリーを記述することが明確に意識され、ルール化されてきたのは、いわゆる第三世代のTRPGである。
とはいえじゃぁD&Dで、PCとNPCが完全に平等か、というと、必ずしもそうではない。
D&Dの根底に「指輪やコナンみたいなストーリーの活躍してー」という欲求がある以上、ストーリーを記述・支援するルールやギミック、マスタリングテクニックは様々な形で存在していた。
それらが洗練された結果が第三世代TRPGであると言うこともできる。


「最近のTRPGは〜」で始まるパターンの愚痴は、シミュレーションの視点から一方的に批判しているものが多い。
例えばFEARのゲームは、ストーリーを押しつけるシステムがあって玄人向きではないとか、リプレイの過剰なストーリー性でTRPGを誤解されるとか、そういったやつだ。ちなみにリプレイの〜というのは、かつてはSNEが言われていた。海外RPGが和訳されるたびに「和訳から入ったやつらはリプレイに毒されてわかってない」式の批判も多い。


趣味志向の違いは当然あるが、これらは、趣味志向というよりは、ある種の潔癖症に思える。シミュレーション志向が優れている、ストーリー志向が低級である、という思い込みだ。
面白いことに、こういう思い込みは、古いTRPGをやった層だけに限らず、時代を超えて再生産され続けている。


思うに、TRPGの良さを、主体的にストーリーを作ることと理解した結果、「ストーリーを自力で作れることがエラい」「ストーリー作りをプレイヤー以外に補助されるのはへたっぴぃ」という誤った認識に至っているのだろう。


これは単に勘違いで、まず第一に、ストーリーを作る時に補助となる道具があったからといって、何かの価値が下がるわけではない。ボクシングのほうが剣道より道具使わない分エラい、なんてことはない。
第二には、過去未来日本海外を問わず、ストーリーを記述援助するルールは存在しているわけで、ストーリーを駆動するルールはTRPGには必要なものである。


それらを意識して、自分がやっているTRPGの内、シミュレーション駆動の部分とストーリー駆動の部分がどうなってるかを考えてプレイすると、より面白くなるのではないだろうか。