馬場論とポストモダン?

id:acceleratorさんからトラバいただく。
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20081231/p1
その記事で、馬場論と、馬場論への反論がまとめられていた。


・馬場論
1. 上達を目指している
2.プレイングスタイルの良し悪しが分かる
3.いろんなシステムを経験していて評価眼がある


・反馬場論
1. 楽しさに一番の評価基準を置く
2.プレイングスタイルに良し悪しをつけない
3.一つのシステムで満足し、他のシステムに目を向けない


xenothは、一応、反馬場論に分類されるだろうが、このまとめには異論がある。

向上心vs楽しさ

まず、「上達を目指す」「向上心」と「楽しさ」が対立項になっているが、これはヘンだろう。


私は、TRPGを楽しく遊ぶ、遊び続けるために、上達が実感できれば素晴らしいと思うし、そこに向上心は大切だと思う。


「TRPGに上達とか向上心とかいらない」と主張する人も見たことはない。


逆に言うと、これらは、馬場論が、作り出した仮想敵であって、「馬場論を信じない人は、向上心のない連中である」というプロパガンダであることに注意しよう。


わかりやすくFEARゲーを題材にするが、ゲーマーズフィールドには毎号、より良いプレイ、より良いマスタリングをするには、どういう点に気を付ければいいかという記事が、詳細に連載されている。
作っている側も、それを読む読者も、上達に価値を認めているということだ。


一方、馬場論で書かれた「上達」および「向上心」については、批判のポイントが幾つもある。


馬場氏は、役割分担という概念を前提に(なお役割分担はロールプレイの訳語ではない)、あるプレイスタイルにおける上達の方向性を示した。


それはいいんだが、それが含まれるとされる以外のシステムや、そうしたシステムのプレイヤーを、向上心のない、TRPG界にとって有害なものと切って捨てた。


それが問題なのは言うまでもない。


私は、TRPGの上達は大切だと思うし、上達するための努力も否定しない。


だがTRPGというのは趣味、遊びであって、誰かに強制されてやるものではない。であるなら、「上達への努力」というのも、上達したい動機があるから自発的に努力する、というものであって、努力自体を求めるのは間違い、というか、そんなことしたら、誰も寄って来ないだろう。


必要なのは上達すると面白くなるというビジョンであり、そこへいたるルートだ。


巷間出版されているリプレイは、熟達したプレイヤーが遊ぶと面白い、ということの明確なビジョンとして存在している。
リプレイをそのまま真似ることの弊害はもちろんありうるが、「上達する動機」を与えることは大変に重要だ。
上達する動機を与えずに、上達を強制するなら、それは苦行の押しつけとなる。

プレイスタイルの善し悪し

私は、反馬場論の立場だが、プレイスタイルの善し悪しは明確に存在していると主張する。


良いプレイスタイルは、まず第一に、その卓の人間が楽しめる/楽しんだプレイスタイルである。
これは大前提。


第二には、システムとプレイヤーのポテンシャルを生かしたプレイスタイルである。どのTRPGも同じようにしか遊ばないというのは、大変にもったいない。


プレイスタイルに善し悪しが全く無い、というのは有り得ないし、それも「馬場論を信じない人は向上心がない」というのと同様のプロパガンダだ。

色々なシステムvs単一システム

一つのシステムだけで満足して他のシステムは、どうでもいい、と言ってる人もいない。これも以下略、プロパガンダ以下略である。


そもそも、馬場論の議論の部分の理屈だけを善意に捉えれば、色々なシステムを遊ぶことを奨励しているが、実際問題はそうではない。


馬場論は、90年代の日本TRPGを「GもPもない、ただのR」と批判しており、それらをどう遊んだか、どう遊ぶべきか、という議論は、全くしていない。


つまり馬場論で言う「色々なシステム」は「但し役割分担とリソース管理があるゲームに限る」という注釈がついている。さらに言うなら「洋ゲー最高!和ゲーダメダメ!」という意識が見え透いている。

原理主義の問題

馬場氏の元々の動機は、日本のTRPG業界が単一になりすぎることへの警戒。自分の知っている洋ゲーの面白さを紹介しようということであり、TRPGにおける上達の概念を啓蒙しようということだったお思う。


「最近の日本のTRPGって似たようなの多くない? これじゃみんな飽きちゃったらTRPG業界がなくなっちゃうよ」
「俺の遊んだ洋ゲーは同じTRPGだけど、全然違った、奥が深い楽しさがあるよ」


こういう話なら、筆者をはじめとする、現・反馬場論者の人も全く異論はなかっただろう。


けれど、馬場氏は、問題を打開する方法論として、プロパガンダや煽りを大いに使い、「上達原理主義」を作ってしまった。


歴史を見ればわかるが、原理主義による誘導は有効だが、必ず暴走する。そして、馬場論も暴走した。
これについて、馬場氏の議論を善意に解釈するなら、「馬場信者」の言うようなことは書かれていない、という反論がよくなされる。
それはそうかもしれないが、馬場氏の書いているものが、明らかに馬場信者を量産することを目的としている以上、その責任は相応に存在するだろう。

楽しむために努力はしたい

id:acceleratorさんのまとめを見る限り、反馬場論の人は、楽しさを至上とする、刹那的快楽主義者ということになる。


だが、それは、馬場論の印象操作の結果である。


私は、楽しむために努力はしたいし、その努力は歓迎する。


楽しさを優先するのはその通り。プレイスタイルの基準として、卓の皆が楽しむことを上げるのもその通り。


ただそれは、例えば、小学一年生と一緒にTRPGする時には、システムが複雑で面白いゲームよりも、ダイスが振れて、その結果がわかりやすいゲームを選ぶっていうことだ。
磨き抜かれた伏線によって、二転、三転する推理シナリオよりは、ダンジョンハックとかを選ぶだろうということだ*1


その上で、卓で問題がないなら、新しいシステムは遊びたいし、そのシステムにあったプレイスタイルを模索し、上達してゆきたいと考えている。


みんなそうだと思う。向上心は、馬場論の特許でもなんでもないのだ。

追記:モダンとポストモダン

モダン:一つの正しさを追求する立場。だけど、自分の正しさを疑うのを忘れると、押しつけになる。
ポストモダン:色々な正しさを考えるのを大切とする立場。だけど、「正しいことなんて何もない。どれも一緒」とか言い出すと、無責任になっちゃう。


id:acceleratorさんの言ってるモダン、ポストモダンは、こんな感じの概念と思いますが、本当にそうなら、これらは別に対立する概念ではないでしょう。
・人の正しさを尊重することも大切。譲れない正しさを持つことも大切。その上で、何が正しくて何が譲れて何が譲れないかを、ずっと考え続けて、真摯に話し合うことが大切。
という結論になるだけです。


xenothは、ある部分では「様々な正しさ」を強調しますし、別の部分では「譲れない正しさ」を強調します。xenothが批判する人もそうでしょう。
モダンとかポストモダンとかに分類するのは、ちょっと乱暴な気がします。

*1:小学一年生に一番向いているシステム、シナリオが何かというのは面白い問題で、ダンジョンハックが最適とは思わない。『ピーカブー』も出たしね。というか、小学一年生といったって人それぞれ興味も様々だよね。