本当につまらない時はそう言おう。

http://www.rpgjapan.com/kagami/2008/09/post-162.html

「管理して遊ぶゲームプレイ」のシナリオでは、ゲームマスターが定めた「最も面白い展開」に合わせて、ハンドアウトや今回予告、各シーンの内容や描写などが設定されます。

鏡さんが、どういうセッションを想定されているのかわかりませんが、私がハンドアウトや今回予告のあるシステムを使ってプレイする場合であっても「最も面白い展開」を想定などしません。


大ざっぱな外枠を作り、「最も面白い展開」の部分はプレイヤーが埋めてゆくものです。
「今回予告」のルールや使われ方をお読みになったことがありますか?
「今回予告は、絶対に、ゲームの内容がこの通りになる、という決めつけ、押しつけではない」というのが明記されていますよ。
今回予告だと、多分一番有名な菊地たけしさんのリプレイからして、毎回、今回予告と違うことが起きて、また、プレイヤーの行動で、想定外の結末になったりしていますね。


逆に言うと、プレイヤーの行動がGMの思惑を越えるのは日常茶飯事であり、GMだって、それを楽しみにして心待ちにしながら、プレイしています。


プレイヤーはGMにボールを投げます。GMは、そのボールを受け止めて投げ返します。
プレイヤーがGMの受けきれないボールを投げた時は、GMは断ります。
それは「俺の考えた最も面白い展開に外れることは許さない!」という意志表示ではありません。
「すまん。俺の腕だと、そっちに投げられると打ち返せないんだ。ごめんね」という意味であり、そういう意志表示と共に行います。


そういう要素を完全に排除しようとするセッションを「管理」と呼びたいのでしたら、それは単に「下手なプレイ」あるいは「TRPGとは違う遊び」です。

ゲームマスターが「最も面白い」という想いを込め、他のプレイヤーもそれを受け入れて楽しんでいる、そのようなゲームプレイに対して「私は不快/苦痛である」つまり「私はつまらないと思う」という意見を突き付けるのです。ゲームマスターはアドリブで修正しようと試みるかもしれませんが、自分が「最も面白い」と思うことを否定された不満は残るでしょうし、再開後もそのプレイヤーが気になって他のプレイヤー共々心から楽しむことなどできますまい。

「吐く」とか「泣く」まで来てから、修正しようとしたら、そりゃ、不満が残るでしょう。
ですから、そこまでひどくなる前に、意見を表明すればいいわけです。
いきなり泣き出すのではなくて、「俺的にはここはこうしたいな」とかですね。


鏡さんは、管理型セッションにおいて、GMのシナリオからの、いかなる些細な変更も嫌がると考えておられるようですが、先にも書いたとおり、それは単なる勘違いです。


逆に些細な変更ではなくて、GM的に譲れない部分が、全否定されそうな状況に、もしなったとしたら、その時は、はっきり「つまらないと思う」と言ってもらって、そこでゲームを一旦切るべきです。

そもそも件のプレイヤーも、そうと「察する」からこそ「うまく言い出せない」のではないか、と「察する」ことができます。

いや、鏡さんルールでは「管理するゲームではつまらないと言ってはいけない」ということになってるので、それが強制された場合の話です。
普通は、そこまでいくまえに、お互いで察し合い話し合います。

...私の正直な意見としては、本当に嫌なら「私はつまらない」とはっきり言えば良い、と思います。

ええ、その通りです。
管理するプレイでは、絶対につまらないと言ってはいけない、というのは、どこのルールブックにも書いていない、鏡さんが言い出した俺ルールですから。

「セッション成功」なんてものは、場をうまく治めるための共同幻想に過ぎません。「皆が楽しいと思う」というのは誰にも認識できませんから、「つまらないと誰も言わない」ことでそれと見なしているのが現実。それ故「ネガティブな意見」が忌避され、「反省会」が「セッション失敗」の温床と嫌われるわけですが、平然と「セッション失敗」できる方が余計なプレッシャーに苦しまなくて済みます。

ですから、完全失敗になる前に、ゲーム中から気軽に思ったことを思ったように言って、お互いに軌道修正し合えばいいんですよ。そうすることで、プレッシャーもなく面白いプレイができます。


ゲーム中に、ネガティブな意見を、そのまま叩きつけるのが、基本、よろしくないのは当然です。ただ、それを、GMのゲーム進行に全く異議を差し挟んではならない、と、するのは、鏡さんの誤読か勘違いです。
「この展開はちょっとな」という話は幾らでもするでしょうし、していいんですよ。もちろん「ここは面白い!」という話は、もっともっとすべきですが。

さて、「察する心」の件。「相手の心を察しよう、と心掛ける」のは善良な行為で、xenothさんは善人なのだろうなぁ、と思いました。しかしながら、「相手の心を察することが、私にはできる」とまで言ってしまうと、「私の心をあなたは察して当然だ」という傲慢にも繋がります。注意が必要です。


私は「察する心」をこのように考えますので、それはそれで大切とは思いますが、当てにしてはならない代物でもある、と判断します。むしろ、言語によるコミュニケーションを頼りとすべきでしょう。そこには「嘘」もありえますが、言われたことだけで考えた方が、間違いは少なくて済みますから。

実は、これには同意です。顔と雰囲気だけで察しようとするとうまくいかない場合がある。ですから、ゲーム中、本当につまらないと思った時は、正直にそう言うべきだし、GMも進行を切って対応すべきです。FEAR社の本やプレイガイド、リプレイにはそう書かれていますね。


結局、「管理されたゲームプレイでは、どんなにつまらなくても、つまらないと言ってはいけない」というのは間違いである、ということで良いでしょうか?

追記

俺、単に「顔色で察しろ」とかは書いてませんよね。

人間は、プレイ中に話し合うことができ、それによって、つまらないのが自分だけか、それとも皆なのかを判断することができます。

また直接話し合う前段階として、相手の顔色や動き方を見て楽しんでるかどうか推察することもできますし、状況から想像することもできます。

「プレイ中に話し合うことができる」って書いてますよね。「直接話し合う前段階として〜」とも書いてますよね。

例えば俺がGMをしている時は、プレイヤーの誰が面白そうで誰が退屈そうな顔をしているか注意します。


動きが控えめなプレイヤーがいたら水を向けてもっと活躍したいか確認しますし、活発そうなプレイヤーがいたら本当に楽しんでるのか単にヤケになってるのではないかを聞きます。


それらの意見を汲んで、展開や対応を調整してゆきます。

ここでは、察して気づくことがあったら、直接、口頭で確認するようにしている、と、書いてますよね。


なのに、なぜ、「察する心はあてにならない」という結論になるのでしょうか?