察する心

自分だけがつまらないか全員がつまらないか

http://www.rpgjapan.com/kagami/2008/09/post-160.html

xenothさんは、ゲームプレイ参加者が「面白い」と感じることには「自分だけが面白い」(他の人はつまらない)ことと「皆が面白い」こととがあり、両者を使い分けることができる、と考えておられるようです。
(中略)
対して私は、ゲームプレイ参加者に分かるのは「自分が面白い」か「自分がつまらない」かだけがあり、それが他の参加者にとって「面白い」か「つまらない」かは分からない、と考えています。

人間は、プレイ中に話し合うことができ、それによって、つまらないのが自分だけか、それとも皆なのかを判断することができます。
また直接話し合う前段階として、相手の顔色や動き方を見て楽しんでるかどうか推察することもできますし、状況から想像することもできます。


さっきから口数が減ってるのは、あんまり楽しく思ってないんだろう。
とか。
今の展開だと彼のキャラが能力的に活躍できる出番が回ってきてないけど、大丈夫かな?
とかですね。


誰がつまらないと感じているか。誰が面白いと感じているか。それを察するのは、TRPGにおける重要な能力です。
ですから普通、面白い・つまらないのが自分だけか、それとも全員か、というのは、プレイ中に使い分けることができます。

使い分けは可能

対して私は、ゲームプレイ参加者に分かるのは「自分が面白い」か「自分がつまらない」かだけがあり、それが他の参加者にとって「面白い」か「つまらない」かは分からない、と考えています。「自分だけが面白い」(他の人はつまらない)か「皆が面白い」かは、結果としてはどちらかになるとしても、実際にどちらなのかは誰にも認識できない、まして両者を使い分けることなどできない、と。

例えば俺がGMをしている時は、プレイヤーの誰が面白そうで誰が退屈そうな顔をしているか注意します。
動きが控えめなプレイヤーがいたら水を向けてもっと活躍したいか確認しますし、活発そうなプレイヤーがいたら本当に楽しんでるのか単にヤケになってるのではないかを聞きます。
それらの意見を汲んで、展開や対応を調整してゆきます。


もちろん人間は神様ではないので勘違いすることもありますが、そこがGMの腕であり、互いのコミュニケーションです。


人に確実にわかるのは自分の気持ちだけで、他人が楽しんでるかどうかを絶対確実に知ることはできません。


一方で、人間は、相手がどう考えているかを、話し合い、察し合うことができます。それによって完璧に相手のことがわからなくても、必要十分にわかり合うことができる場合がほとんどなのではないかと思います。

「自由に遊ぶゲームプレイ」と「管理して/されて遊ぶゲームプレイ」とは、このような、「自分が面白い」か「自分がつまらない」かしか認識できない、という考え方に基づいて整理されています。

それというのはつまり「どうせ相手が楽しいと思ってるかどうかなどわからないのだから、気にする必要がない」という前提ということで良いでしょうか?
違うとすると、どこが違うんでしょうか?

実プレイの際

鏡さんは、プレイヤー全員が、「心から面白くない」「ダンジョンに入りたくない」と思うような状況でも、GMの言うことを拒否しないのが、推奨する管理のプレイスタイルなんですか?


はい、私が言う「管理して/されて遊ぶゲームプレイ」とはそういうものです。

「心から面白くない」の程度問題なのですが。
例えば、そのGMのそのシナリオに沿ってプレイするのが心底つらい、気分が悪くなる、というような状況でも、そのままGMの面白さに合わせるべきなのですか?


GMが卓でグロ描写や性描写を延々初めて、それが自分は苦手な場合とかはどうでしょう。


GMが一方的にヒドイGMの場合もありますが、そうでないこともあります。
例えば恐怖RPGや戦争なんかを扱ったRPGは、人によって向き不向きがあります。セッションに必要な程度の常識的な描写であっても、つらいと感じる方が出ることがあります。そういう問題は卓に入るまでに解決しておくのが理想ですが、入ってから気づいちゃう場合もあります。
そういう不運な巡り合わせで、そのことをうまく言い出せず、泣き出すプレイヤー、吐くプレイヤーというのもいます。


そういう風な場合でも、なんら不快/苦痛であるという意志表示をするべきでないのですか?

変更の提案はしません。「ハンドアウト」や「今回予告」には、ゲームマスターの「自分が面白い」という想いが込められていますから、まず遠慮があります。プレイヤーの発想との摺り合わせは、下手をすればゲームプレイに支障を与えかねませんし、上手くいっても手間と時間の無駄のように思われますので。

一応書いておくと、私は全部のゲームの問題が、面白さをすり合わせることで解決できるとは全く考えていません。


卓の進行を止めて話し合う時は、ゲームを止めることも選択肢に含まれます。不快なことがわかりきっているゲームに4時間なり5時間なりつきあうよりは、ゲームやめて違うことするほうがマシということはあります。
手間も時間も省けます。