外へも向かう言葉

通じない言葉

趣味というのは極まってゆくと、何を話してるのかさっぱりわからなくなるので、閉じがちである。
TRPGも、もちろん、そうだ。


実のところ、これはTRPGに限った話じゃない。相撲ファン、野球ファン、サッカーファンとかの会話だって、すごい量のジャーゴンが流れていて、外部の人に全然通じないのは同じである。


閉じてしまった趣味は衰退するので、外へ向かう言葉は大変に重要だ。
では、どういう言葉が有効だろうか?

外へ向かわない言葉

http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20000201.html
http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20000417.html


馬場氏が書いた「外へ向かう言葉」。
ここでは馬場氏は、TRPGの価値のうち「ストーリーの創成、キャラクターの演技、感情移入、背景世界への参加感覚、他の参加者との協力や役割分担、そして困難を乗り越えたときの達成感」などは、コンピュータRPGや、ネットワークRPGに代替されうるので、それを説いても意味がない。TRPGを知らない人には説得力がない。
TRPGを知らない人に紹介できるTRPG独自の価値は「意志決定」ではないか、と、考察している。


思い切り戯画化するが「TRPGってどんなの? 何が面白いの?」「それは意志決定なんだよ! 意志決定というのはね(以下略)」という会話をしたら、ほんとにその人はTRPGに興味を持ってくれるんだろうか。俺は違う気がする。


そしてまた、「コンピュータRPGで代替されうる」からセールスポイントにならない、というのは、本当にそうなんだろうか?


例えばサッカーとバスケは、チームで連携し、ドリブルとパスでボールをゴールに運ぶという点では似たスポーツだ*1
サッカーの面白さとして、ドリブルの個人技、パスまわし連携の戦術性とかが語れるだろう。一方、「ドリブルやパスはバスケにもあって代替されうるから、サッカーの面白さを語る場合は、それ以外にすべき」とか比較する必要はあるだろうか。なんか違う気がするのだ。


コンピュータRPGが、TRPGの面白さと重なる部分は、もちろん、大きいと思う。
ただし、コンピュータRPGにおける「ストーリー創成の面白さ」は、TRPGにおける「ストーリー創成の面白さ」とは違うだろう。バスケとサッカーが違う以上に*2

外へ向かう言葉

自分が何かの趣味にはまった時のことを思い出してみよう。TRPGで無くてもなんでもいい。
その趣味の優越性に関する批評を読んで趣味を始めた、という人は少ないんじゃないかと思う。
「楽しそうな紹介を読んだから」そして「誰かがそれをやっていて、楽しそうだったから」というのが一番よくある理由ではなかろうか。


野茂選手がかっこよくて野球が好きになった人がいる。
よくあるTRPG論でTRPGを語るように野球を語った場合「野茂カッコイイ」は、滅多に理由としてでてこないだろう。
にも関わらず、野茂選手の活躍と生き様こそが、これ以上ないくらい雄弁な「外へ向かう言葉」じゃないだろうか。


私が思う「外へ向かう言葉」は、「TRPGが楽しそう」な姿を見せることだ。
コックが喜ぶのは、料理をおいしそうに食べることで、料理蘊蓄を語ることではない。
楽しそうな姿を見せるだけで全部が解決するわけじゃないが、少なくとも楽しそうな顔が見えないところに人は集まって来ない。
あなたは難しい顔で蘊蓄ばっかり語ってないだろうか?(いやおまえがそれを言うか、というのはさておき)

迫害について

例えば、「なに、お前、黒ミサみたいに、エルフとかドワーフとか、そんなくだらねぇごっこ遊びやってるの?」って心ない人に言われた時に、それに対して否定できないTRPGユーザーって、せっかくその人が好きだったTRPGってものが矮小なものに終わってしまう。果たしてこれはいいのか。

http://d.hatena.ne.jp/otaku_interview/20070305


例えばまぁ「サッカーなんてくだらねぇ。バスケのほうが絶対面白いじゃん」とかそんな風に絡んでくる人がいたとして、そこで「サッカーとバスケの類似点および独自性」について議論すべきか、というと、違うんじゃないかと思う。


それと同じように、「くだらねぇごっこ遊び〜」と言われて「ごっこ遊びではない! そもそもTRPGはルールがあって意志決定があって〜」とムキになって反論する姿を見ると、周りの人は「あぁ、痛いところを突かれたんだな」と思うだろう。そしてそれは正しい。


そういう時は「うん。TRPGやってるよ。面白いんだ」と、屈託無く素直に言えればいいな、と、思う。「そういえば前のセッションでは、こんなことがあってね」というのでもいい。
それこそが一番雄弁な否定だ。


心ない人、悪意のある人とかじゃなくて、単に「TRPGって何? 面白いの?」と聞いてくる人には、きちんと答えられる言葉を持っていたほうがいいだろう。
ただ、そういう人は、普通、総論としての「TRPGとは何か?」を聞いてるわけではないことに、注意。
「このリプレイ読むと面白いよ。だいたいこんな感じ」とかが相手の求めてる答えの場合が多い。

「外」という人はいない

相手の求めてる答えといえば、誰かに何かを伝えたい時、大切なのは、相手の立場になって考えることである。この人に伝えるには、どうしたらいいか、と、考えることだ。


「外へ向けた言葉」に類する論法で、俺が一番危険と思うのは、その「外」って誰? ということだ。それは例えば家族なのか、学校の先生なのか、公民館を借りる時の受付の人なのか、同級生なのか。
知らない人にTRPGを紹介しようと思ったら、相手のことを考えるのが普通だろう。
マーケティング的にTRPG層を広げたいなら、どの層を狙うかの検討から入るだろう。


でも、なぜか、「外へ向けた言葉」であるはずなのに、相手を無視して、高尚なTRPG論、闇雲な理論武装が始まる場合がある。
結局、それは自分を納得させるための言葉であって、それ以外ではない。
「外」じゃなくて「内」へ向かう言葉だ。


一応書いておくと、吟味し、練り上げられた批評を外へ届かせることもできると思う。
ただ、最初から具体的な相手を想定せずに、単なる使命感で、外へつなげようとする場合は、要注意だ。

*1:xenothはサッカーにもバスケにもそんなに詳しくないんで、トンチンカンなことを言っていたらご寛恕願いたい

*2:ゲームデザイナーは、TRPGを作る時に、コンピュータRPGに限らず既存の娯楽と競合してもいいように、TRPGの有利な点を考えてデザインするだろう。そういう風にTRPGの有利な点を考察するのは重要だ。ただ、それは「外へ向かう言葉」なのか、という話である