ゲームは批評ではない

お断り

本記事では、Aマホ・ガンパレに関係ない、微妙な批評論が続きます。その前に。
Aマホガンパレは、マジ面白そうです。


基本イメージは、「プライベート・ライアン」。
機関銃座にしがみついて、「アバーム、弾もってこい!」とか「さっさと支援砲撃を寄こせ! 俺の頭の上だ! いいから早く!」とか、そういうWW2系の戦闘がTRPGでやれます。


ゲーム版ガンパレ、「高機動幻想ガンパレード・マーチ」の設定は「現代地球に、幻獣と呼ばれる化け物が降臨。負け続けた人類は、ついに学生まで徴兵するようになった」という設定の元で、学生の兵士、学兵として、いきなり銃を持たされて戦場を右往左往しながら青春もする、というゲームです。


上記の「プライベートライアン」で「オマハ・ビーチ」な戦闘の他にも、「戦闘の合間のデート」とか「人型戦車にのって大活躍」とか「神々の力を託されて覚醒!」みたいな部分も、ちゃんとTRPG版でもできるようになっており(おまけルールというわけではなく、お弁当作ってデートとか、みんなでカラオケとかの、日常生活のゲーム化はAの魔法陣の得意分野なのです)、遊びがいがありそうです。


原作つきゲーム、ミリタリーということで、「でかい顔する古参」が気になりそうな題材ではありますが、そのへんへの配慮も、ルールシステム、アドバイスの二面から、丁寧にされていて好感が持てます。

「私たちTRPGユーザー」

http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080830/1220051377
A−DICガンパレードに、〈ゴールデンルール〉や〈ハンドアウト〉や〈シーン制〉が(おそらくは、三輪氏、小太刀氏が、ライターとして参加することで)搭載されている件について。

 そして、私たちTRPGユーザーは、肯定的であれ否定的であれ「F.E.A.R.だから○○だ」という言いぐさで逃げてきた〈ゴールデンルール〉や〈ハンドアウト〉や〈シーン制〉や……、その他もろもろの問題のうち、かなり重要な部分が、企業ブランドに回収されるようなものとしてではなく、国産の若手TRPGデザイナーが個人の文責のもと胸を張って主張する「TRPGの基礎的な考え方」として提示していることを、もっと真剣に考え直した方がいいように思われます。

「私たちTRPGユーザー」というのは、どこにいるんだろう。


俺の知ってるTRPGメンツは、「このゲーム、ハンドアウトのっけたほうが回らない?」みたいなのは、気軽に言うし、実践してる。
「シーンを切る」みたいな感覚は、シーン制が明記されてないTRPGでもよくやるし、「ゴールデンルール」に関しても、しかり。


それは別に、FEAR最高、全てのゲームはFEAR化すべしという話ではなくて、例えば、フィギュアやマップを持っていたら、色々なTRPGで使ってみたくなる、みたいに、汎用性のあるゲームツールとして有効だと思うから、というだけのこと。


というわけで、「企業ブランドに回収されるようなもの」として、と決めつけているのを「私たちTRPGユーザー」とされると心外だ。


次に、それらが「TRPGの基礎的な考え方」か、どうかは、微妙。


「ゴールデンルール」は、「ゴールデンルール」の内容次第でともかく、「シーン制」や「ハンドアウト」は合うゲームもあれば、合わないゲームもある。あるいは載せることのメリット、デメリットがある、と、言い替えてもいい*1


小太刀氏、三輪氏がそれらをAマホに搭載したとすれば、それによってAマホを面白く、遊びやすくする目算があってのことであって、「基礎的な考え」として、全てのTRPGはハンドアウト化すべきだから載せた、というわけではないだろう。

TRPGの価値基準を論じる場がユーザー間ではほとんど為されない(拒否すらされている)にもかかわらず、若手のプロデザイナーが提供するルールブックの記述の一部で「ルールブックの名を借りたゲーム批評」が、真剣に、切々と書かれている。

デザイナーが、「自分が最も面白いと思うルール」を書く時に、結果的に、それが他のシステムの批評となるのは当然のこと。全てのルールは、そのデザイナーがそれまで遊んだゲームへのオマージュであり、アンチテーゼだ。
「俺はD&Dのここが面白かった。こうすればもっと面白くなる」というわけだ。


逆に言うと、それはどんなゲームでも当たり前のことのわけで、そこでデザイナーが最初から「ルールブックの名を借りたゲーム批評」を書いている、というのは、ひどい言いがかりではなかろうか。


TRPGの価値基準を論じる場が無い、というのは、上と同根の錯覚だろう。
「価値基準を論じる」と言っている人の議論が、安易な一般化で読むに耐えないから、「おまえは、えらそうなことを言う前に黙って買って黙って遊べ」と言われているだけではないかと。


だって、「黙って遊べ」なんて言われてないもの。
「ルールブック買ったよ!面白そう/つまらなそう」「今日のセッションは面白かった/地雷踏んだ」「マスターやってみたよ! こういう風にやるとうまくゆきそう」「○○と××は、両方とも、△△ジャンルのシステムだけど、こういう風に使い分けたらいいかも」なんて意見は、全て歓迎されている。
それより上……すなわち「現在のTRPGとは!」みたいな大上段の話は、内容が薄く教条化しやすいんで叩かれる、というだけでしょ。


例えば、今回の記事。
新発売のゲームを「ルールブックの名を借りたゲーム批評」と評したら、普通の人は引くんじゃなかろうか。ぶっちゃけ面白くなさそうだもん、それ。


つまり。
批評的な価値>>>ゲームの面白さ
という意識が、あまりに見え隠れしている*2
「前衛的」が誉め言葉になるのは、批評マニアだけだ。
そういうところに「価値基準を論じる土壌」は育たないだろう。

「言ってることはすごそうなんだが、ついてくのに一苦労する芝村ゲーに、小太刀三輪がFEARと培ったユーザーフレンドリーなフォローが加わった! こいつはいけるぜ!」
で、いんじゃないかなー、と、俺なんかは思うのだ。

*1:わかりやすくシステム名で言ってるが、その他、細かい運用教則についても同様である。

*2:そういうつもりはない、と、言いたいのだろうが、そりゃ自覚してないだけだ。