批評と愛/一般に通じる批評その2

責任と愛

http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080826/1219706917

 私が〈感想文〉と〈批評〉を分けているのは、〈責任〉です。最終的な「面白さ」あるいは「説得力」に関する責任を、自分以外の外部に渡せる余地があるか(作品、他人、社会、世間、etc...とにかく自分じゃない、と考える)、それとも責任が他でもない自分にあると引き受けられるよう書いているか、という違いです。事実に関する判断であれ、価値に関する判断であれ*2、その判断が著者の責任において下されていることを引き受けられるようなロジックや文責が示されているかどうかが、〈批評〉を〈批評〉たらしめる最低条件になります。

内容に責任を持つ立場を批評と定義するのであれば、「愛」や「作品語り」をもってくるのはまずかった。
批評を志し、外部を意識し、自分の責任を意識して書こうとしている文章が、主観的な愛に閉じている場合などはたくさんある。逆に、当人は内輪に向けて愛だけを語ったつもりが一般的な価値を持つ場合もある。
自然体で責任を意識する人であれば、すべての文章が批評と見なせることもある。


ロジックの妥当性、文責の取り方の、どれ以下を感想、どれ以上を批評と定義したところで、実は「愛」や「作品語り」は、感想文/批評文の区別とはなりえない。
なるとしたら、「愛」であることを言い訳に、文責を回避する態度が見え隠れする場合だ。また、「愛ゆえの共感not理解」を軸に据えることで、論理的展開がおざなりになる場合も意識しているだろう。
でもまぁ、単純に考えて、責任のある無しと、愛のある無しは関係ない。


「批評というものは、愛を言い訳に無責任な態度を取ってはいけない」というのを言いたいなら、そのように書くべきであっただろう。

 貴方のことばが〈批評〉としての資格を失うとは、どういうことか。「ああ、あなたの意見はわかりました。しかし、それはあなたと、あなたの愛を偶然理解する人以外の誰にも、届きませんね」。これを承認する、ということです。

「わかるけど、届かない」は、一般性の有無についての言及である。であるなら、これは、批評の資格にはなりえない。
例えば、ある人が、ウォーハンマーのリプレイを読み、その内容について言及したとする。
その人が、事実に関して間違いが無く誠実に書き、なぜ面白かったかを論理立てて書き、ウォーハンマーを知らない人が読んでも意味はわかる程度にまとめたとする。
上記の理論からすれば、これは「批評」の資格を持つことになる。
一方で、その文章が、それなりに、よく書けていても、TRPGを知らない人からすると、どうでもいい場合がありうる。「ああ、あなたの意見はわかりました。しかし、それはあなたと、あなたの愛を偶然理解する人以外の誰にも、届きませんね」と言われてしまう場合だ。
このウォーハンマー批評は、API批評ではないかもしれないが、それでも批評ではあるはずなのだ。


以上のような混乱と、「愛」という単語へのバイアスのかかった言及が、誤読も含めて様々な批判を呼んでいる部分があるだろう。

一般性と普遍性

 まず一番大事なこと。私は、「一般」(general)を「普遍」(universal)とは取り違えたりはしていません。

さて。
一般と普遍は、どう違うか?
あらゆる状況であらゆる場合において、完璧に成り立つから場合分けをする必要がないのが普遍(ユニバーサル)である。
そうでない場合の一般(general)とは何か?


論理学的に言うなら、一般化とは、複数の特殊を、一律に記述できるようにしたものである。


おっと、言葉が複雑になってきた。
簡単に言おう。ダブルクロスというTRPGがあって。
「昨日、はじめて、ダブクロやったら面白かった」という感想があったとする。
これを「特殊」と呼ぶ。この特殊というのは「変」とか「奇妙」とか言うのではなくて、「特定の場合について」というくらいの意味である。


次に、何度もダブルクロスを遊んだとする。セッションの面白さの中には、GMや他のプレイヤーが面白かった部分、個々のシナリオの面白さ、様々な偶然等、色々な要因があるだろう。
何度も体験している内に、「ダブルクロスというシステムの面白さ」がわかってくる。
「ダブクロをやると、たいてい、いつも、こんな風になって、こう面白くなるよ」と言えるようになる。
これが「一般」である。
「昨日やったダブクロのセッションは面白かった」という特殊を複数集めて、「ダブクロはここが面白い」と言えるように一般化したわけだ。


同様に、「ダブクロが面白い」「D&Dが面白い」「ウォーハンマーが面白い」というのを集めてゆけば、「TRPGが面白い」という一般化もできるだろう。さらに、様々な一般化ができるだろう。


この場合、特殊であるか一般であるかというのは相対的である。つまり、どこから見るかで変化する。
例えば「TRPGが面白い」からすれば、「ダブクロが面白い」は特殊である。
一方、「昨日のセッションは面白かった」からすれば、「ダブクロが面白い」は一般である、というわけだ。


何を特殊として、どんな一般を意識するかは、どういう目的で何についての知見を得たいかによる。

一般という名の偏見

ではgginc氏の考える「一般」とは何か?

 そうではなく、批評の本領が発揮されるのは、もっと別のところにあると私は考えています。私たちが、論理的明晰さだけでは捉えきれない、倫理や美的判断といった「価値」に関わる問題をどう解決すればいいのか、という問題を考える上で、批評は単なる「プラグイン批評」とはまた別の役割を担います。9.11事件を解釈するのと『崖の上のポニョ』を解釈するのは、ベタに観れば確かに全然違うことです。しかし、「提示 (present)され表象(represent) されているそれをどう受容するか」という次元で観れば、実は「体験を解釈する」という、まったく同じことをやっていることになります。(とはいっても、文芸で安易な社会批評をやることは正しい、ということを言っているわけではありません。むしろそういうやり方にこだわっている批評にはお粗末なものが多いです。ここではあくまで、「解釈するための枠組みを探るというのは、どんな種類の体験についても難しい問題である」ということを言っています)。

gginc氏の考える一般は、「倫理、美的判断といった価値を含み、社会全体に影響するもの」という定義であるようだ。


1.映画Aについて語っている
2.それを一般化して、映画全体について語っている。
3.それを一般化して、映画・アニメ・漫画の美的価値および一般社会との相関について語っている。


こんな風に一般化してゆけば、「価値に関する批評」>>「作品に関する批評」という一般化レベルとなる。
とはいえ、これは絶対ではない。一般化の道筋はたくさんある。


例えば、天羅万象というゲームがあったとする。これを「TRPG作品としての天羅万象」→「TRPGについて」→「エンターテイメントの中のTRPGについて」という風に一般化することもできる。
一方で、「井上純弌作品としての天羅万象」→「井上純一というアーティスト」→「アーティスト一般」という風に一般化することもできる。「90年代作品としての天羅万象」→「90年代の作品群」→「年代による作品テーマの移り変わり」という風にも一般化できるだろう。
先に書いたとおり、「何を特殊として、どんな一般を意識するかは、どういう目的で何についての知見を得たいかによる」のだ。
一般と普遍を区別したいのであれば、「どんな目的のために、何をどう一般化するか」を、きちんと提示しなければいけない。


追記:要するに「一般人」という一般人はいない、ということだ。
「一般の人すべてにとって批評が必要である」と、言わないのなら、その「一般性」が何かを明確にしなければならない。
それを曖昧にしたまま、「一般的な価値を目指すAPI批評」とかいうのは、どう考えても無意味だろう。

一般化=抽象化

さて、gginc氏も書かれているが、安易な社会批評ほどつまらないものはない。


普通、議論で何かを一般する場合は、ディティールが殺がれる。
ダブルクロスのシステムの面白さ」を語る時は、個々のセッションの面白さを語る時に比べて、表現が抽象的になる。「TRPGの面白さ」を語る時は、なおさらだ。


抽象的になる=ディティール、情報量が減る、ということだから、漫然と一般化すると、読むに耐えない議論ができる。
これを悪用したのが、「安易な社会批評」である。
作品の内容を一般化=抽象化して、テーマ一個に凝縮する(例:夏目漱石の「ぼっちゃん」から、権威になびかない主人公、という側面だけ抽出する)
社会問題を一般化=抽象化して、テーマ一個に凝縮する(例:食品偽装問題から、上の指示に逆らえない従業員、という側面だけ抽出する)
テーマに関連があることを示して、結論とする(例:上から言われたことをそのままやる人間ばかりだから食品偽装がまかり通る。現代には、もっと、ぼっちゃんのような権威になびかない人間が必要だ)


これは、かなり、ひどい例だが、一足飛びに一般化しようとすればするほど、この問題は起きやすくなる。


一般化するたびに、情報量が1/10になるとしよう。
ダブクロについて、10の知見を持つ記事があったとする。
これをTRPG全体に一般化した場合、情報量は1になる。
エンターテイメントの中におけるTRPGという風に一般化すれば、0.1。
エンターテイメントとポストモダン世界、という風に一般化すれば、0.01だ。
こうなるともう読むに耐えない。


逆に言えば、「エンターテイメントとポストモダン世界」で面白い記事(情報10)を書くなら、個々の作品に対する情報を1000集めてきて、それを凝縮する必要がある、というわけだ。
それをしないで、内容が薄くなったり、いいかげんな補完をしたりしている批評こそが、誠実さのない批評と言えるだろう。
「批評理論は、しばしば体験主義的な受容の前に不要とされることが多い」のは、実は、こうした状況を指している。
いい加減に理論化、一般化して薄まりまくった知見は、素直な感想文にも劣る、というわけだ。
体験が絶対なわけではないが、まともな批評を書きたいのなら、今の百倍の作品を体験してからにしろ、という話にもなる。

それさえも特殊に過ぎない

 今回のゼロアカ道場に引き寄せて言えば、主催者である東浩紀北田暁大の批評は、その一般化のところまでもって行った批評(さっき私が言った「ミドルウェア批評」)だからこそ、一定の市場価値を持ったと私は考えています。それが、単にそのジャンルへの愛着・崇敬の念――信仰告白といってもいいでしょう――で終わっているような「プラグイン批評」を1万部刷ったところで、その信仰を共有している人でもない限り、別に読みたいとも思わないし、売れ残っておしまいでしょう。

http://shop.kodansha.jp/bc/kodansha-box/zeroaka/kanmon_03.html
さてさて、ゼロアカ道場の第三関門の企画書を読んできた。


これはxenothの「感想」だが、これらの企画書のほとんどは、「批評というジャンルへの愛着・崇敬の念──信仰告白」であり、一般性が欠けているものとしか読めなかった。
ま、これは、我ながら悪意と偏見が混じっているとは思うが、ただし、「一般性」や「一般的な価値」あるいは「社会性」を志向した批評が、ジャンル批評を安易に見下す時、そこに「批評というタコツボ」にはまっている危険が大きい、というのは、どれだけ言っても言い足りないだろう。


私は思うんだが、本当の「信仰告白」は、「共有してる人でもない限り、別に読みたいとも思わない」ものではないと思う。
知り合いにミュージシャンがいて、ジャズとかをやってる。xenothは、わかりやすいオタクで、音楽というとアニソンの人なんで、ジャンルとしては全くわからないが、でも、その人の話は、すごく面白い。
何か一途に趣味に打ち込んでいる人の話、というのは、常に面白い。


ゼロアカ道場の話に戻るが、俺からみると、あれは「批評というジャンルへの信仰告白」である。
ただ、その信仰が深いが故に、こうした批評が嫌いな俺も、「お、これは読んでみたいかも?」と思うのが、幾つかあった。
それでいいと思う。

彼らのいいところはなにより、「文芸批評とは本来こんなに楽しいものなんだよ」ということを全身で体現してくれることです。

全くもってそのとおりで、そういう楽しさが見えなければ、誰もそんなものを読みたいとは思わないだろう「注:0830」*1
gginc氏においては、批評への愛や楽しさが大切と思うのであれば、それ以外のジャンルの人の愛や信仰告白を閉じたタコツボとして切り捨てないでもらえれば、と、思う。

*1:こちらの点に関して、引用部分は、批評社に対するものであり、ゼロアカ道場に対する物ではない、という指摘をggincさんからいただいた。確かに前後無視した引用で、そのように読めるので、注釈を追加した。gginc氏、ゼロアカ道場批評社の参加者の皆様においてはご迷惑をおかけしました。