一般に通じる批評という陥穽

プラグインとAPI

http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080820/1219209179

ここでgginc氏は、内輪に通じる「プラグイン的批評」と一般に通じる「API的批評」を対峙させ、批評としての責任を全うする道は後者である、と、述べている。
果たして、そうなのだろうか?

誰かに何かを伝えること

批評の目的は、誰かに何かを伝えることだ、と、しよう。
相手が誰かで、言葉は変わる。
相手がそれに詳しければ、より突っ込んだ話ができるし、詳しくない人なら、より基本的な、やさしい話をする必要がある。


書く人の技量で大きく変化する上で、詳しい人、前提を共有する人には、より深い話ができ、そうでない人には、より浅い話しかできない、ということだろう。


(書き手の技量)=(伝えたい内容の深さ)/(伝えたい集団の広さ)


感覚的な式で申し訳ないが、こんな風な関係にあると言えるのではないだろうか。
つまり、(伝えたい集団の広さ)だけで、批評の質を判断するのは、明らかにおかしい。

お節介十字軍

貴方のことばが〈批評〉としての資格を失うとは、どういうことか。「ああ、あなたの意見はわかりました。しかし、それはあなたと、あなたの愛を偶然理解する人以外の誰にも、届きませんね」。これを承認する、ということです。

これはつまり程度問題だ。
逆の話で考えればいい。「全く愛がない人」に、無理矢理何かを伝えようというのは、通常、お節介、という。


「TRPGを知らない人」にTRPGを伝えるのが真なる批評、というのは、角の八百屋のおっちゃんに、いきなりTRPGの面白さを語るのと同レベルの勘違いである。

様々な段階の様々な言葉

TRPGを知らない人に、TRPGを分かってもらう文章、行動は大切である。
ただ、それを重視しすぎた人は往々にして、それ以外を十把一絡げに「内輪向け」とか分類したがる。


「TRPGを聞いたことがある」くらいの人に、TRPGを分かってもらう文章、行動、「TRPGをちょっと好き」な人に、より好きになってもらう文章、行動だって、大きく意味がある。
当たり前の話ではある。

愛と信用とさしのべる手

東浩紀氏だってそうだろう。
ライトノベルへの愛を持つ人に、ライトノベルから現代批評へのステップを提供し。
現代批評への愛を持つ人に、現代批評から、ラノベへのステップを提供する。
それらを通じて、東浩紀氏への愛を持つ人に、現代社会の諸問題へのステップを提供する。


お互いが共有する愛を前提に、そこで信用を培って、新しい領域を紹介する、という志なわけだ*1


それは例えば、リプレイへの愛を持つ人にTRPGを紹介したり、ソードワールドへの愛を持つ人にD&Dを紹介する、というのと、根本的には変わらないはずだ。
大切なのは自分の持つ力で、枠を広げようとする行為だ。


「ああ、あなたの意見はわかりました。しかし、それはあなたと、あなたの愛を偶然理解する人以外の誰にも、届きませんね」
「私のこの意見は、この集団に向けて書いた言葉ですから、これでいいのです。いずれ、もっと大きい集団に向けた言葉を書くこともあれば、もっと小さい集団に向けた言葉を発することもあるでしょう」

*1:成功しているかどうかは無論、様々に議論の対象となるだろう。