自由だけど困るゲームプレイ

さて、対策は、常に問題が発生した後で作られます。「ダンジョンをスルーされても困らなくなった」(対策)から「ダンジョンがスルーされるようになった」(問題)というのは考え難いことで、その逆と考えるのが妥当です。そしてまた、他の参加者に配慮しない者がいると容易に崩壊する「自由に遊ぶゲームプレイ」よりも、そうであっても上手く成立させられる「管理して遊ぶゲームプレイ」の方が後に確立した、と考えられるのです。

ええっと。
D&Dをプレイしました。
ある日、プレイヤーのAさんが、ダンジョンをスルーして、困りました。
この時点では、皆「管理」という発想はないんで、「自由に遊ぶゲームプレイ」でした。
で、スルーされて困ったんで、みんな管理するようになりました。「管理して遊ぶゲームプレイ」の誕生です。
順番的には、「自由に遊ぶゲームプレイ」→「管理して遊ぶゲームプレイ」です。


鏡さんのおっしゃりたいのは、こういうことですね。それはそうだと思います。
続けるとすると、この後に「自由に遊んでも困らないようなやり方」が対策されました。


1.自由に遊ぶが困るゲームプレイ
2.管理するので困らないゲームプレイ
3.自由に遊んでも困らないゲームプレイ


こういう順番でよろしいでしょうか?
私としては「1」は単に失敗してるプレイなんで、プレイスタイルというよりは、「2」か「3」のプレイスタイルが確立されるまでの過渡期、と、考えますが、そのへんは定義の問題です。

全員がボイコットするようなダンジョン

ただ、「自由に遊ぶゲームプレイ」の方が互いへの配慮が強く求められる、とは言えるでしょう。ダンジョンに入らないのも自由、謎を解かないのも自由、だからこそ、その行動によってゲームプレイを「面白い」ものにできるか否かは、プレイヤーに大きな責任が課されます。それを覚悟の上で、ダンジョンに入らない、などとプレイヤー全員が言ったなら、それはそのシナリオを心から「つまらない」と判断したのです。

うーん、鏡さんの考える「ダンジョンをスルーする」のが、そういう状況なら、それは、かなりの特例なんで、自由なプレイの例としては、出さないほうがいいと思います。


プレイヤー全員が、なるべくお互いにとって楽しくなるようにしよう、と、配慮した上で、全員でダンジョンを拒否し、シナリオが「心からつまらない」と判断したとします。もし、そういう状況で、プレイヤーがダンジョンに入るのを強制するなら、それは「管理」としても間違いです。GMだってプレイヤーが心からやりたくないシナリオを押しつける権利はないわけですから。


管理型のセッションをしてると思うGMであっても、「そういう状況でプレイヤーにシナリオを押しつけるのは良くない」というのは同意してくれると思います。
GMがプレイヤーに対して権限を持つのは「皆で楽しいゲームをする」という同意の下に成り立つわけで、プレイヤー全員がやりたくないようなことは、ハンドアウトだろうが何だろうが、押しつけることはできません。
ちなみに、そういう状況になったら、「ダンジョンに入る/他へゆく」の問題ではなくて、「一旦、ゲームを止めて相談する」が、適切だと思います。

対して「管理して遊ぶゲームプレイ」では、ゲームマスター以外の参加者、つまり他のプレイヤーへの配慮が無くとも、ゲームプレイを成立させることが可能です。もちろん、配慮し合い協力し合った方がより楽しくプレイできますが、無ければゲームにならないという程に必須ではありません。不可欠なのは、ゲームマスターの指示や判断に従い、その「管理」下から逸脱しないことです。プレイヤーからの提案や議論も、ゲームマスターが許せばできますが、結論はゲームマスターに委ねられます。ダンジョンに入らなくても良いか否か、謎を解かなくても良いか否か、はゲームマスターだけが正解を知っています。むしろ他のプレイヤーへの配慮を、ゲームマスターより優先させてはいけません。

書いたとおり、「全員が入りたくないようなダンジョン」をGMが出した場合、ゲームプレイは成立しません。GMの管理から逸脱することは場合によっては必要です。他のプレイヤーへの配慮が、GMへの配慮より優先される状況は幾らでもあります。


鏡さんの考える「管理」されるプレイは、GMの結論にはプレイヤーが常に従うことを前提とされてるように思われますが、そんなバカな話はありません。
「基本的に尊重する」「困る場合は困る理由を挙げて相談する」「本気で困る場合は拒否もする」等々、段階を踏んで、話し合います。当たり前の話ですが。

...余談ながら、ダンジョンモジュールB3「アリクの瞳」(Palace of the Silver Princess)よりも、同B2「国境の城塞」()The Keep on the Borderland)の方が、「自由に遊ぶゲームプレイ」を考えるには向いています。「アリクの瞳」には「誘導」のための記述が多く見られますが、「管理」にまでは至っていません。

すいません。「誘導」と「管理」が違うというのは初耳です。
ゲームマスターがその状況を用いてプレイヤーの選択を「誘導」しようとしてするなら「管理」」ということで、誘導する=管理かと考えておりましたが?
誘導があるけど自由、というのがあるなら、私が言ってる通り、自由も管理も匙加減の問題って話になるかと。

プレイヤーがシナリオ内状況で不利になる行動に出た場合、ゲームマスターは「自由」では粛々とルール通りに対応するのみですが、「管理」では泣くか怒るでしょう。

あと、前の記事になりますが、この箇所。


これは逆かと思います。


自由なゲームプレイで、プレイヤーがGMの予想を無視して、GMが準備したものが使えなくなった時に「泣く」わけです。念のため言うと、本当に泣くわけではなくて、準備した努力がもったいなくて悲しくなったり、想定外の事態にうまく対応できなくて、困ったりするわけです。「1.自由に遊ぶが困るゲームプレイ」ですね。


ただ、だからといって、ゲーム中に泣いたり怒ったりして、プレイヤーに迷惑かけてはいけない、というのは、当然の話です。
なおGMが慣れていて、困らずに対応できるのは「3.自由に遊んでも困らないゲームプレイ」です。


管理するゲームプレイでは、基本的にプレイヤーが想定外の行動にでないように管理するので、泣く必要も怒る必要もありません。
なお管理するといっても、別にガチガチに縛ったり、管理下から外れることを戒めたりするわけではありません。
まずプレイヤーが自分の判断で動けるように、プレイの指針を告げます。
その上で、想定の範囲を超えた場合、いきなりダメ出しするのではなく、相談して、「なるべくお互い納得のゆく形で」軌道修正を試みます。
なので、プレイヤーは、基本的に、自分の判断で行動しつつ、GMが意見を出した場合は、きちんと話し合う、という手順で管理が達成されるわけです。