自由と管理とプレイスタイル

久々の記事は、鏡さんの「自由」と「管理」について。

ひとつは、この特性を受け入れ、推理小説とは異なるものとして「ミステリーシナリオ」を遊ぶことです。ゲームマスターが「推理小説のような状況」を示したなら、プレイヤーはその状況について自分なりに考え、「自分が面白いと思う」ように行動します。何を「謎」と見なすか、それをどうやって解こうとするか、あるいは解かないで他の手を選ぶか、などはプレイヤーに任せるのです。これが、ゲームでしか成立し得ない「自由なミステリー」です。

実際問題、頑張って、推理小説のような状況と凝ったトリックを用意して、プレイヤーが「解かないで他の手を選」んだら、俺だったら泣いちゃうと思う。これは、頑張ってダンジョンを用意したり、シティシナリオで凝ったイベントを用意して、別のところへ行かれた場合も同じ。

自由とプレイスタイル

ダンジョンやら推理小説状況やら……つまり細かいシナリオを用意してスルーされるとGMはダメージを受ける。GMが用意した状況をプレイヤーが選ぶように確実を期するのが「管理」なら、管理のないセッションは現実的ではない。


では鏡さんの言う「自由な」プレイスタイルで遊ぶのは、基本的にGMにとってつらいものなのか?
必ずしもそうではない。実はそれはプレイスタイルの問題である。


自由である=プレイヤーの思いつきを主体としてゲームを進行するにはどうすればいいか?
答えは、事前にシナリオを作らないことである。


推理小説的ゲームの場合、一案として、シチュエーションだけ作って、トリックやら動機やらは全く決めない。プレイヤーと一緒に、見つけてゆく(後からこじつけてゆく)方針にすることで、最小限のシナリオで運用できる。これなら、プレイヤーの出方(密室トリックを暴くのか、人間関係を解明するのか、でっちあげでもいいからとにかく冤罪を晴らすのか、あるいは単に無視するか)に合わせて対応できる、というわけだ。


サプリメントが沢山出ているゲーム、D&Dルーンクエストとかなら、サプリメントのデータを利用することで、最小限のシナリオで運用できる。プレイヤーに好きに旅行させて、ダンジョンなりシティなりに入ったら、サプリメントの内容を読みながら対応すればいい。


シナリオなしの即興プレイがGMの手抜き、と、見られることが多いが、これは、必ずしも正しくない。
面白い即興プレイは、テクニックとして存在する。もちろん、テクニックも目算もなしで、手抜きの言い訳にするGMもいるんで、安易な即興プレイを慎むべきなのは言うまでもない。

プレイスタイルとコスト

結局のところ、「自由」か「管理」か、というのは、二元論ではなく、システム、プレイスタイル、シナリオの問題に帰着する。


GMが細かいシナリオを構築するためにコストを支払った場合、そのコストを生かして遊ぶのが、基本的にはプレイヤー、GMが幸せになる道だろう。逆に、プレイヤーの行動の自由を前提にセッションを行いたいなら、シナリオ構築のコストを下げるべきだろう。


これらは程度問題であり、即興プレイといっても全くシナリオを作らないわけではないからプレイヤーもGMの提示する設定を何から何までガン無視をすべきではないし、細かいシナリオを作り込む場合でも、できる範囲でプレイヤーの行動選択を保障するのは当然である。


「自由」ないし「管理」というのは、どっちかを選ばなければならない、というものではなくて。
面白いセッションを行うために、システム、プレイスタイル、シナリオと合わせて勘案すべき要素の一個にすぎず、必要十分の「自由」と「管理」を、うまくブレンドさせるものなのだ。