TRPGと物語性

TRPGで求められる良い物語とは、第一に、その場の全員が楽しめる物語である。
故に、一般的な小説や漫画とは、「良い」の基準が異なる。
通常の物語の面白いという基準もあてはまるが、同時に、各自の参加の意味がある物語が「良い」と言えるだろう。


「ゲームと非ゲーム」
http://d.hatena.ne.jp/xenoth/20080307/p1
「競争原理と協調行動」
http://d.hatena.ne.jp/xenoth/20080323/p2
↑この二つの記事の続き、というか、まとめです。

良い物語ってなんだろう?

id:ggincさんの昔の記事を引きます。

確かに、物語ることは素晴らしい。第一クリエイティブだし、何しろ想像力は無限だ。かのサブカルチャー評論家・大塚英志氏も「小説を書くにあたっては、TRPGでストーリーテリングの訓練をし給え」なんてことをご丁寧に宣伝してくれている。私も物語は大好きだ。やった、クリエイティブ万歳!


 ……しかし、そこまで物語に入れ込みながら、彼らがなぜ小説を書いてプロ作家を目指したり、演劇に転向したりしないのかだけが、私には疑問でならないのだ。想像力を徹底的に満たすなら、RPGなんて単なる「ごっこ遊び」に興じるより、もっと素敵で文化的で、社会的に認められた立派な趣味があるだろうに。なんてったって、「オタクの気持ち悪い遊び」だという偏見と戦わなくて済むのだから、気も楽になるというものだ。 ……え? それでもRPGがいいって? それはまたどうして? 「演技」や「物語」にはない要素が、RPGにはあるから? だとしたら、それは一体何なんだろう? もしかして、RPGは「遊戯」だけじゃない、他の何かがあるってことではないか? それってもしかして、もしかすると、やっぱり「ゲーム」ってやつなんじゃないの?


『まず馬場理論に背を向けるところから始めよう』白河堂

http://www.scoopsrpg.com/contents/hakkadoh/hakkadoh_20040905.html


TRPGにおいてゲーム性*1が重要なことは確かで、「物語重視」の名の下に、システムコンセプトを無視した我が儘を押しつけるのが望ましくないことは言うまでもありません。


でも、前半は考えるに値します。
なぜTRPGが好きな人は、「小説を書いてプロ作家を目指し」たり「演劇に転向」したりしないのか?
思うに、小説を書くこと、演劇の脚本を書くこと演じることとは違う面白さがTRPGにはあるからでしょう。
では、それは何なのか?
完成したTRPGの物語は小説に近づくのか? そうだとしたら、TRPGの物語は「二流の小説」なのか?
主観的には違う、と、思います。そこのところを考えてゆきましょう。

小説との比較

演劇のほうは不案内なので、小説に絞ります。
小説とTRPGセッションを比べてみましょう。
・小説

  1. 書き手は通常一人で時間をかける
  2. 受け手(読者)は多数
  3. 製作過程は結果の作品と関係ない

・TRPGセッション

  1. 作り手はGMとPLで短時間で完成する
  2. 受け手はGMとPL
  3. 製作過程が即ち結果(面白いセッション)である

こんな感じで比較ができます。以下、それぞれに違いを見てゆきましょう。

少数に向けられているということ

小説は、たいていの場合、不特定多数に向けられて書かれます。
一方、TRPGのセッションは、特定少数……具体的にはセッションに参加したGMとPLが楽しむためにあります。TRPGの物語は、GMとPLの数名を楽しませることに特化するわけです。


学生の頃TRPGやってた頃に、担任の先生とかをNPCで出してウケを取ったりしたことがあります。一般小説なら×ですが、TRPG的にはアリというわけです。これは極端な例ですが、小説の物語とTRPGの物語は、そのような点で違ってきます。


もちろん、小説であっても、読者層は想定し、その読者層の共通認識を前提に物語を作ります。小説によって、その読者層の大きさは様々です。つまり内輪ネタがOKかどうかというのは、程度と規模の問題です。
逆に言えば、最初から対象を数名に限った小説を書いたとすれば、それはTRPGの物語に近づくといえるでしょう。


不特定多数に読まれることを前提にした小説の場合、同じだけの感動を与えるのなら対象がより広いほうが望ましい、という前提があります。対象が広ければ広いほど書くのが難しいという一般論もあり、内輪ネタに走らず広い対象を持つことが優れた小説の価値基準の一つとなっています。
これに照らした場合、少数集団に特化したTRPG的物語は劣っていることになる。


ただし、小説とTRPGは、そもそも目的が違うのですから、単純に比較することはできません。


TRPGの価値基準で言うなら、いかに一般読者の多くが面白いと認める物語であっても、その卓のGMとPLが、つまらなければ価値がない、とも言えるのですから*2

複数で作るということ

小説の作者はたいてい一人です。
TRPGのセッションは、小説とは違い、複数で共同製作します。
少人数で計画的に時間をかけて作ったほうが、完成度の高い……この場合は、構成がしっかりして矛盾がない物語が作りやすい。
多人数で即興で作る場合、複数の人間のアイディアが相乗して、新しい発想がでやすくなります。その一方で構成などに矛盾が出やすい傾向があります。


作品としての物語の価値だけを目指すのであれば、これは両方採用すればいい。つまり、多人数でTRPG的なブレストをして出たアイディアを採用する一方、少人数で計画的に作って完成させれば、両方の利点が得られます。実際に、そういう創作現場もあるでしょう。


その意味、TRPGのセッションを、「作品としての物語」という基準のみで考えると負ける点はありますね。もっともTRPGの目的は、小説を作ることではないので、これも当たり前です。


小説家の場合、知らない不特定多数の読者に向けて物を作りますが、TRPGの場合、読者と作り手の距離が近い(というかゼロ)という利点があります。上と合わせる限り、TRPGの作成法にはTRPGなりの利点があるわけです。

製作過程が公開されてるということ

これが一番重要ですね。


小説の場合、作者が書いてる途中で悩んだり楽しんだりすることは、基本的には作品の内容とは区別されます。どう書こうが関係ないというわけですね*3


小説の場合「小説家が書く過程が面白い」ことは、作品の価値ではありません。
一方、TRPGの場合、製作過程、すなわち、セッションが面白いことが重視されます。逆に言うと、TRPGの物語は「作る過程が面白い」ことに特化された物語なわけです。


またTRPGの場合、セッションを行うこと=PC、NPCとして参加すること、ですから。「作る過程=体験する過程」でもあります*4


「書かれた結果が面白い」物語と、「一緒に作る/体験する過程が面白い」物語は、方向性が違って当然です。

結論

「TRPGとして面白い物語」は「小説として面白い物語」とは基準が違います。
言ってみるとまぁ当たり前の話ですが、「物語を求めるならなぜ小説家にならないのか?」という疑問については答えられたかと思います*5
次は「一緒に作る/体験する過程が面白い」とはどういうことかを分析したいと思います。

*1:ここで言うゲームは、コスティキャン的な意味での競技=ゲームではなくて、遊戯=トイ的な楽しさを含む広い意味でのゲームです。

*2:もちろん、卓の全員が楽しめて、なおかつ、一般的にも面白いような物語を追求することは可能です。

*3:細かいことをいうと、作者のパフォーマンスも含めて作品受容がされる例もあります。作品の根幹にそれが強く組み込まれてる場合、それらはTRPG的な物語に近づくという分析もできるでしょう。

*4:小説を書く時も、それぞれの登場人物に感情移入するでしょうが、同時に作者視点を保持します。TRPGの時にプレイヤーが、1PCに感情移入するのとはまた違うでしょう。

*5:白河堂さんの答え、「もしかするとそれってやっぱりゲームじゃないの?」は、TRPGのシステム全体をゲームと捉えるならば賛成です。ただし、この文脈では、遊戯とゲームを対比させているようです。コスティキャン的な意味での「ゲーム=競争」は、TRPGにおいて重要なツールではありますが、TRPGの物語が小説と異なることの回答には必要ありません。TRPGの物語が小説の物語と異なることは、コンセプトレベルで成立するので、技術の実装に言及する必要はないわけです。この記事で述べたことは、全て、競争を排除しても成立します。