イマジナリーボードの外

id:gginc氏のイマジナリーボードによるTRPGの分類は、基本的に、TRPGを(コスティキャンの定義するところの)「ゲーム」として捉え、そのプレイングをゲームとしての観点から分類していくところが基礎となっている。

ゲームは面白いか?

ところで、ある遊びがゲームであることは、それが面白いことを保障するものではない。ある遊びがゲームでないからといって、それが面白くないわけではない。
ゲームであるかどうかというのは、単なる「分類」である。


選択肢と葛藤とアカウンタビリティがあって、意志決定が存在すれば絶対に面白いかというと、そういうものでもない。
それらが欠けていても面白いことはありうる。
TRPGの面白さを構成する要素の全てがゲームに還元できるわけではない。
実例を見ていこう。

カオスフレアの面白さ

少々長くなるが、引用。
http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080304/1204624813#20080304fn12

ところでまた、この〈キャラクタープレイ〉の巧拙を〈意志決定〉の中心に置いた優秀なTRPGシステムも多数存在する。たとえば私は、『異界戦記カオスフレア』や『天羅万象』シリーズ(特に『天羅WAR』)が、〈キャラクターのロールプレイ〉およびその発話表現としての〈キャラクタープレイ〉の技量が試される、優れたコンセプトのゲームシステムだと常々感じている。あれほど複雑な対立構図が錯綜した〈背景世界〉で、物語的な整合性を維持しつつ〈キャラクター〉を相互に活躍させられた時の達成感は、格別である。相互評価をしっかり定めた上でプレイすれば、それはおそらく「難しい」部類に属するゲーム的挑戦になるだろう。それらのシステムは、〈意志決定〉のうち、特に〈アカウンタビリティ〉の重要性に着目することで、ゲームの楽しみを強力なものにしている。しかしそのためには、「一座建立」とでもよぶべき、厳密な相互評価の態度を参加者全員が習得し、互いにその評価基準を高めあう必要もあるだろう(その基準の緩急が、そのセッションにおける「ゲームバランス」そのものになる)。天羅の合気チットやカオスフレアのフレアカードは、その「一座建立」の感覚を定量的に測るために導入されたものであるとみることができる。

カオスフレアでは、誰かの演技が面白かった時に、フレア(手持ちのカード。判定時に使うことでボーナスとなる他、特定能力を使用するのに必要)を投げる(渡す)ことができる。


さて、私はカオスフレアを遊んで楽しかったことがあるが、「厳密な相互評価の態度」を修得した覚えはない。「今回のAさんの演技は、前回に比べて劣っているのでフレアを渡すには値しない」とか、そういう風にプレイ中考えたことはない。


あれは、その場のノリで投げるものである*1


カオスフレアにおけるフレアの授受を、厳密にゲームとして考えるとしよう。
フレアを渡して損はなく、フレアを渡していいかどうかは主観によるので、あらゆる行動に対してフレアを渡すのが、プレイヤーとして最適な行動となる。そうなれば、意志決定の必要が無く、ゲームとしては破綻していることになる。
id:gginc氏は、そうならないために〈アカウンタビリティ〉、すなわち、フレアを渡した根拠を立証しうる、「厳密な相互評価の態度」を全員が持つことを期待している。つまり、今回の彼の演技は80点であり、基準の75点をクリアしてるから、フレアを渡すに足る、という風に全員が心の中できちんと採点し、その結果に、紳士的に従うようなセッションだ。


フレア受け渡しの面白さがゲームなら、それは確かに、そのようにプレイされなければいけない。そうでなくては破綻する。


しかし、カオスフレアは、そんな風にはプレイされない。みんなノリでほいほい投げるし、厳密なアカウンタビリティにこだわろうとする姿勢は、むしろ邪魔になる。


では、なぜ、カオスフレアは破綻しないのか? 面白いのか?
単純に言うなら、その部分の面白さが「意志決定的の面白さ」ではないからだ。


身も蓋もない分析をすると、あれは相互承認、互いに認め合うことの面白さだ。誉められて嬉しい、という楽しさであって、意志決定的な判断とは関係ない。


緩急なく誉め続けても、誉められた気がしない。だから、うまく誉めるためには「演技の巧拙」も一つの要素となる。ただ、断じて「演技の巧拙」が全てではない。「演技の巧拙」が唯一の基準なら、カオスフレアは演技のうまい人ばかりがカードをもらって、下手な人は全然もらえない、というゲームになるだろう。だが、それでは、つまらないし、盛り上がらない*2


うまいとかヘタとかあんまり気にしすぎないで、要所要所でフレアを投げるのが、カオスフレアを楽しむコツだ、というのは、遊んだ人は納得してもらえるのではなかろうか*3

私が日頃より論じているTRPGの一般モデルは、このような「一座建立」を含みこんだモデルを想定している。その場合、〈キャラクタープレイ〉は、〈アカウンタビリティ〉を損なわないようなシステム・運用を行う限り、非常に面白いものとなるだろう。

というわけで、カオスフレアの面白さの話をするなら、「〈キャラクタープレイ〉の巧拙を〈意志決定〉の中心に」置いたゲームではない。その反対だ。
「〈意志決定〉と関係ない〈キャラクタープレイ〉が、TRPGの〈ゲーム〉として成立するための条件」を「阻害」するかはともかく、干渉し、曖昧な部分を作るシステムではある*4


それでもカオスフレアは面白い。


カオスフレアは端的な例だが、イマジナリーボードで説明しうるTRPGの面白さが全てではないことの傍証になるだろう*5
逆に、こうした面白さを、無理矢理イマジナリーボードに押し込めようとすることは、様々な破綻を生むだろう。

*1:個人的な経験では、演技どころか、関係ないギャグにさえ飛ぶ時がある。

*2:うまくいった人には、うまくやったね!と投げる。噛んじゃったり失敗したりした人にもドンマイ!と投げる。私がプレイして楽しかった時は、そんな感じだった

*3:ルールやリプレイにもそういう記述はある

*4:その上で、カオスフレアは、心地よいノリを与えるパートと、ゲームとしての戦術戦略思考、キャラクターや世界観への気配りが両立するよう、様々な配慮をしているが

*5:意志決定や、文芸設定に基づいたロールプレイがつまらん、という話ではない。念のため。