コスティキャン再訪

しかし、その読み方をする前に、そのコスティキャンが記している「ロールプレイング」の段落が、コスティキャンが「ゲームにとって本質的」と定めた項目の外にあることを、読み返して確かめるべきだろう

http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080303/1204513902
というわけで、読み返して確かめてみましたよ。
結論。「ゲームにとって本質的」でないからといって、TRPGにとって本質的でないとは限らない。

コスティキャンは本当は何と言ったのか?

コスティキャンの「I have no words & I must design」において、コスティキャンは、ゲームを成立させる要素を「意志決定」「目的」「敵」「リソース管理」「ゲームトークン」「情報」に分けている。
「ロールプレイング」は、ゲームの必須要素ではないが、ゲームを強化するもの、と、定義されている。


さてお立ち会い。
コスティキャンの前記の論文は、読めば分かるが、「ゲーム全般」について書かれたものである。もちろんTRPGは強く意識しているが、TRPG単体について書かれたものでは、ない。
コスティキャンは、「TRPGの中で、ロールプレイングが必須要素ではない」という話はしていない。「ゲームにおいて、ロールプレイは必須要素ではない」という話をしているのだ。
そりゃまったくその通りで、納得できる。オセロはゲームだけど、ロールプレイとかしないもんね。


逆を見てみよう。コスティキャンが必須でないとした要素には、「カラー」と「シミュレーション」が含まれている。ウォーゲームは戦争をシミュレートしている。モノポリーは、不動産業を、直接シミュレートしてるわけではないが、その雰囲気、カラーをゲームの前提にしている。


これらは、コスティキャンはゲームにとって必須要素ではない、としている。それはそうだ。麻雀は確かにゲームだが、カラーもシミュレーションも(普通に遊ぶ分には)ない。


さてTRPGにとっては、どうか?
世界観を共有し、その中で生きるキャラクターの行動をシミュレートするTRPGにとって、「シミュレーション」と「カラー」は、ほぼ必須であり根幹だろう。
というわけで、コスティキャンは、「TRPGにおいてロールプレイが本質でない」などというトンチンカンなことは言っていない。「ゲーム」において「ロールプレイ」は必須ではない、と、言ってるだけだ。
ちなみにこの理論だと、id:gginc氏が、TRPGにおける意志決定の二大目標としてあげ、「情報」に分類している「文芸的解釈」も、前提として「カラー」を必要としていることに注意。
「演技」が本質じゃないのと同じ程度には、「文芸的解釈」も本質ではない。

コスティキャンが死ねって言ったら死ぬのか

だから「コスティキャンがゲームの外に置いてるから、ロールプレイはTRPGにおいて本質ではない」というのは、まず、読解が間違っている*1


次に、仮にコスティキャンがそう書いてたとして、それをそのまま受け売りしてるのは、かなりの思考停止だ。
ロールプレイングゲームにおいてロールプレイは本質ではない」と言われたら変だと思おうよ。
馬場氏は、そこで、「英語のロールプレイは役割分担であって、日本人が考える演技とは違うよ」という議論で、他人を煙に巻いたわけだ。
今、id:gginc氏は、その間違いを認めながらも、「ロールプレイはロールプレイングゲームの本質ではない。だってコスティキャンがそう言ってるから」という文章を書く。
謎である。

*1:もっとわかりやすくすれば、この論法を使えば「シミュレーション」もコスティキャンは本質に分類してないので、「シミュレーションゲームにおいてシミュレーションは二の次である」というトンデモ議論だってできる。