自由な発想は枠から生まれる

芸人殺し

さてさて。
何の準備もなく、下地もなく、相手の好みも分からず。
「さぁ今から面白い話をやれ、すぐやれ、ここでやれ」
と言われて、きっちりウケを取るのは、その道一筋のプロでも難しい。芸人殺しというやつだ。
事前の告知がありそれに対する期待があり雰囲気があり盛り上がりがあって、はじめて、芸は芸となる。


TRPGも、それに似ている。まったく何の制限もないところから、面白いセッションを作り上げるのは至難の業だ。
逆に言うと、良いTRPGシステムというのは、面白いセッションを作り上げるための下準備、制限が含まれている、と、言ってもいい。


TRPGシステムを、皆で、楽しい物語を共有するゲームと定義しよう。TRPGのシステムとは、そうしたストーリーを作り上げるための「枠」の集合と言い替えることができる。
自由な発想というのは、枠がないところから生まれるのではない。適切な枠があって、はじめて、生まれるのだ。

枠と自由度

枠と自由度はどういう関係にあるか?
最初に考えるのが、枠が多いほど自由度は狭い、枠が少ないほど自由度は多い、というものだろう。


では枠は減らせばいいのか。実際問題、枠を全部無くせば、TRPGのルールは消滅する。白紙のルールブックを元にしてプレイするのが、やりやすいか、というと、そういうことはない。芸人殺しと同じである。


次にありそうなのが、枠は必要最低限だけあれば十分で、それ以上は邪魔だ、という考えだ。
さて、本当にそうだろうか。


これは例えば音楽で考えるなら、フリースタイルのジャズと、クラシック演奏の、どっちが正しいかという話だ。ジャズセッションのアドリブだって、無茶苦茶に音をつなげば無茶苦茶な演奏になるわけで、アドリブ進行には、基本的なルールがある。一方、(ある意味)「譜面をそのまま演奏する」だけのクラシックであっても、そこには無数の解釈、表現があり、音楽家はその表現のために一生を賭ける価値を見いだしている。


私は、TRPGもそれと同じだと考える。
GMとPLがシナリオ、システムの特性を理解した上で行うならば、プレロールドキャラクターの一本道シナリオであっても、それぞれの個性を出し切って、本当に広い幅を持って面白くプレイすることができる。

プレイスタイル

自由というのは、結局、各プレイヤーおよびそれをサポートするシステムの引き出しの問題だ。
与えられた枠の種類に応じた、表現の幅を持っているかどうかが問題なのだ。
アドリブシナリオにはアドリブシナリオに応じた枠があり、一本道シナリオには一本道シナリオの枠がある。
特定の枠組が「不自由」と思えるとしたら、極論、その枠での自己表現が苦手、あるいは理解が足りないということだ、とも言える。


例を挙げよう。
シーン制+ハンドアウトのFEAR型シナリオだ。
ハンドアウトを、よく、「制限」と捉える人がいる。
だが慣れたプレイヤーなら、これを「枠」と捉える。「枠」というのは、中に何を入れてもいい。つまり「ハンドアウトに書かれている点さえ押さえれば、どんなキャラクターを作っても良い」というわけだ。
ハンドアウトの利点としてシナリオに関わる動機やポイントを押さえてあれば、あとはピーキーでマニアックなキャラクターを作り放題ということだ。
おっとピーキーでマニアックというのは単なる筆者の趣味だが、ともかく掘り下げた個性的なキャラクターを作りやすい、作ってもプレイに支障を来さない、ということだ。


実のところ、普通にパーティプレイをするゲームだと、なかなかそういうピーキーなキャラは作りづらく、無難なキャラに流れやすい。その差が、ハンドアウトという「枠」を用意することで得られた表現の幅だ*1


ここで言いたいのは、FEAR型シナリオのほうが自由だ、というわけではない。様々な形のシステム、シナリオに、それぞれ特有の表現の幅があるので、単純な優劣を比較するのは意味がないということだ。

好みと腕

枠が少ないゲームを使いこなすには腕が必要だ。そのため、往々にして「最近のゲームは制限が多くて、あんなんじゃプレイングの腕が向上しないよ」という人がいる。
そうした人が忘れているのは、枠が細かいゲームを使いこなすにも腕が必要であり、上達の余地がある、ということだ。


枠の大小で自由が決まるわけではない。枠を使いこなす技術によって、自由、即ち表現の幅が決まるのだ。
その中で好みはあるだろうが、筆者の希望としては食わず嫌いを避けて、色々なタイプのTRPGを遊んで欲しいと思う。

*1:ここまで書いたのは、初歩的な話であり、ハンドアウトを前提とするテクニックや、その表現の幅は、もっともと広く、今、この瞬間にも、様々なプレイヤー、デザイナーによって広がり続けている。