続・理論の恐ろしさ、あるいは、全ての楽しさの肯定

理論とは何だろう?

さてさてTRPGというのは、大きくてぼんやりした集合である。何がTRPGで何がTRPGでないか、という簡単な問題も、人によって「これはTRPG」「これは違う」とか意見が分かれる部分もある。
逆に言うと、TRPGにおいてどんな理論を立てても、切り捨てられる部分が存在する。
TRPGに関する理論というのは、「TRPGの一断面を切り取った理論」に他ならない。


理論を書いている人が、そこに自覚的でないと、様々な問題が起きうる。

理論の目的

さっき言った通り、TRPGの理論というのは、「TRPGの一断面」に関する理論である。
「それはどんな断面か?」
「なぜ、その一断面なのか?」
「その一断面を切り取った結果、どうしたいのか?」


こうした考察が欠けた理論は、著しく問題がある理論である。
逆に言うと、これは簡単なチェックに使える。
上記3点が、文章から読みとれないような論考は、ひとりよがりのものであったり、あるいは、わざと断面を見せないことで、特定の方向に誘導するものである可能性が高い。

理論の危険性

TRPGの理論とは、特定の断面を切り取って述べることだと書いた。
さて、論考者にとって、自分の理論が重要だと思うのは人情だ。
というわけで、多くの理論は、「自分が切り取った断面」こそが「TRPGの本質」であり、他の部分は、どうでもいい、という理論展開になりやすい。


そうした理論は、たいてい、TRPGの特定の性質を是とした結果、残りの性質を、相対的に劣るとしたり、あるいは批判の対象にしたりする。


何度も書いているが、その点で、まずかったのが馬場氏の数々の論考だ。
TRPGの本質をリソース管理に置く理論が存在するのは良いのだが、それと同時にリソース管理以外の側面を、本質でない、と、論じてしまった。
結果、それらの論考を読んだ人の間で、他者のプレイスタイルへの批判や否定が起きることとなった。
もちろん、これらは、馬場氏の論考だけで起こる話ではない。
例えば、FEARのハンドアウトにTRPGの進化を見る理論が、ハンドアウトのないゲームを劣ったものとみなしてしまうような場合があるだろう*1


理論というのは、書いている内に暴走するものだ。論者の無意識の欲望もあるだろうし、また理論として首尾一貫させようとさせた結果、極端な結論が出ることもある。
であるから理論を語る時は、大きな注意と謙虚さが必要だ。


言い替えるなら、理論とは、論理とは剣である。下手に振り回せば、誰かが傷つくのだ。

何が面白いかを語ろう

TRPGの理論を作るのは、何のためだろうか?
多くの人が、「より良いTRPGを作るため」「より良いプレイを作るため」と答えるだろう。
そのためには、「TRPGの良さ」「面白さ」を発見し、系統づけることが必要だ。
さて、本来、ある面白さを発見することは、別の面白さを貶めることにはつながらないはずだ。
TRPGのある面での面白さを追求する論考が、別の面白さを安易に否定している場合、その論考は、さっき言った「断面であることの自覚性」に欠けている場合が多い。

たとえばキャラシーの絵

抽象的になったので例を挙げよう。


TRPGの楽しみの一つに、「キャラクターシートに絵を描くこと」をあげる人がいるだろう。
これなんかは、「理論」に繰り込みにくい楽しさだが、だが、楽しさとして存在していることは確かだ。
「キャラシーのイラスト」を否定するように読める論考があったら、注意して読み直してみよう。


同様に、書く側も、これらを考察する必要があるだろう。
私もよく理論を考えていて「TRPGの全体像」がマッピングできたつもりになる時があるが、そういう時、考えてみると、そこには「キャラシーのイラスト」の面白さが抜けていたりするのである。
結局、そういう論は、断面であること、断面に過ぎないことの自覚性が欠けて、むやみに風呂敷を広げた論になっているのだ。


単に大風呂敷なら、まだいいが、その結果、「誰かの楽しさ」に唾を吐いてしまってはいないかどうか。
そこだけは気を付けるべきだろう。

*1:もちろん、ここでのハンドアウトは、各種システムに置き換えて構わない。