TRPGの面白さについて物思う

SAK(市民、あなたは幸福、ですか?)メソッド

卓上RPGにおける「管理」は、まずゲームプレイを「面白い」ものと「つまらない」ものとに分けるところから始まります。この両極端な評価は、実際に行ったゲームプレイへの事後評価というよりも、むしろゲームプレイ以前に目標として想定されます。そして、誰もが思い願うのです。「面白いゲームプレイ」が良い、ぜひやりたい、「つまらないゲームプレイ」は嫌だ、決してやりたくない、と。


次いで問います。「つまらないゲームプレイ」を避け、「面白いゲームプレイ」を得るために、「私はどうすれば良いのか?」と。その問いかけに、「君はこうしたいはずだ、こうしなくてはならない、こうしなさい」と答える者が、「管理する者」となります。従う者が「管理される者」です。前者に後者が従えば、そこに「面白いゲームプレイ」が成立するのです。

http://www.rpgjapan.com/kagami/2007/10/post_102.html
鏡さんからトラックバックをいただきました。


さて、正直、鏡さんが、ここでおっしゃってる状況というのがよくわかりません。
「実際に行ったゲームプレイへの事後評価というよりも、むしろゲームプレイ以前に目標として想定」と書かれていますが、事後評価は事後評価としてあるでしょう。
「前者に後者が従えば、そこに「面白いゲームプレイ」が成立するのです。」と書かれていますが、「言われた通りにやったけど、やっぱりつまらなかったよ」という意見は出てくるでしょう。


プレイヤーが、ゲームの面白さやプレイ結果を、まったく自分で評価することなく、GMやデザイナーサイドの意見をそのまま受け入れ、かつ、その結果が「常に面白いゲームプレイ」になるのなら、その通りだと思いますが、実際問題、そんなことはないです。


今のTRPGシーンで、自分でセッション結果の面白さを評価せず、デザイナーが面白いと推奨するなら、常にそれが面白い、とまで洗脳されたプレイヤーがいるとは思えないのですよ。
私が言ってるのは例えば(今の日本において、おおむね)「法律はまもるべきだ」「マナーは大切にしよう」くらいの話なのですが、それに対して、鏡さんは、PARANOIA世界レベルの管理をナチュラルに持ち出しているように思われます。
いかがでしょうか。

片や、卓上RPGを「自由」に遊ぶ場合には、「面白いゲームプレイ」なるものも「つまらないゲームプレイ」とされるものもありません。参加者各々が、自分で「面白い」と思うことを、「私はこうしたい、こうすべきだ、こうしよう」と自分で判断して、やる(キャラクターにやらせる)。その積み重ねが「ゲームプレイ」。ただの「ゲームプレイ」。


それは「面白い」の?…そんなことは自分で面倒を見なさい。あなたの行動は「何をやってもいい」のだから、あなたが「面白い」と思うようにやりなさい。結果が何であれ、その過程は「面白い」はずです。

自己責任として面白さを追求する自由をおっしゃっているのだと思います。自由に面白さを追求した結果、思い通りにならなくても、それはそれで一つの楽しみではないか、という。


ただ、それは、TRPGは共同作業である、という前提が無視されています。
「こうしたら面白いだろう」ということを試した結果、「つまらなかった」と思うことはたくさんあります。また、「やった本人」は面白くても、他のプレイヤーがつまらないということも数多いですね。


典型的なのが、例えば、ストーリーを押しつけるタイプのマスター(いわゆる吟遊詩人マスター)です。
PCの活躍する余地がなくて、NPCが大活躍しておしまい、というパターン。
GMでなくてもPLの一人が、そういう「ひとりよがりのストーリー」を押しつける場合もあります。
それも「面白い」と思うことを判断して、それをやった結果です。


普通に考えて、そうしたセッションは、あまり望ましくないと思うんですが、いかがでしょう?
「他人の自由と楽しみを必要以上に侵害しないという上で」という注釈さえつけば「自己責任で面白さを追求しよう」というのは、あるべき態度だと思います。

将棋の喩え。「ルールの通りに駒を動かす自由」がある、というより、「ルールが示す制限の中で自由に駒を動かせる」と言った方が私の考える「自由」に近いと思います。その場合でも、「勝つため」の定石通りに駒を動かせ、勝手なことはするな、と「管理」される場合もあるでしょう。

いやだから「ルールが示す制限の中で自由に駒を動かす」自由の中には、ゲーム中、いきなり王を丸裸にして、わざと負けるような「自由」も含まれるわけです。
そういう自由を鏡さんは認めるのですか? という話なわけですが。

「自由」も「管理」も、どちらも「善」でも「悪」でもありませんね。「自由」を「善」だと思う者は「自由」の本性を知らず、「悪」だと思う者は「管理」を正当化したいだけ。どちらも甘えの表れであることは同じですが。

自由が善、管理が悪、という話ではなくて、それぞれをどのように利用するか、というのが建設的な話でしょう。どういうシチュエーションで、どれくらいの自由とどれくらいの管理を使うべきか、という話です。
失礼ながら鏡さんの論考は、自由と管理が、常に切り離されて語られているので、実際の状況に即していないと考えます。


そもそも「自由」や「管理」という言葉は、「個別の対処方法」を意味する場面もあり、「思想」を意味する場面もあります。鏡さんの論考では、「TRPGシーンにおいて、どういう対処が望ましいか?」という話に、「自由」や「管理」という大きなラベルを持ち出してしまった結果、結果、印象操作になっていることも指摘させていただきます。

「つまらない」ということ

鏡さんへの反論は以上となったので、ちょっと論をまとめてみます。


例えば、将棋で遊ぶとして、負けて悔しい、という気持ちがあり、勝ちたいという気持ちがあります。負けて悔しいという気持ちの中には「つまらない」という気持ちも、少しは含まれるでしょう。
さて、では、負ける可能性を完全に排除し、自分より、ちょっと下手な人を相手にし続けることで「常に勝つ将棋」というのは面白いか?
ある意味、面白いでしょうが、それでは将棋の本当の面白さに至れない、という言い方はできるかもしれません。
「つまらなさ」を無差別に排除しすぎた場合、そういう弊害もある、と、思います。


TRPGにおいても、例えば、ある種の「つまらなさ」を排除するゲームデザインや、マスタリング手法が、場合によってはゲームの面白さの広がりを阻害する場合、というのは確かにあるかもしれません。


ただし、それには「受け入れるべきつまらなさ」と「受け入れるべきでないつまらなさ」を、きちんと定義することが必要です。
それをせずに「つまらないものを避けるのはダメ!」「自分の面白さを好きなだけ追求しろ」というのは、あまりにも暴論です。

「面白い」ということ

「面白さ」というのは人それぞれですし、開拓しがいのある領域です。自由な発想がなければ、新たな面白さを見いだすことはできません。TRPGでも、また同じ。


TRPGのシステムには、さまざまなデザイナーからのサジェスチョンが盛り込まれています。
それを無視するのは、普通に考えて賢いとは言えないでしょう。
一方で、それに縛られてしまうことはないだろうか?
多少は、あるかもしれません。


もしデザイナーの託宣通り遊んでいたら、一生ずっと満足できる、という、理想的な(あるいは麻薬的な)ゲームが完成したら別ですが、実際のところそうではない。デザイナーの言う通りにやってみたつもりで、つまらなかった場合、別にデザイナーが損害賠償してくれるわけではない。面白いセッションは自分(達)で作らないといけない。普通にTRPGをやっていれば、このことに気が付くでしょうし、そこにおいて皆、自己責任というのを理解していくわけです。


そうやって遊び続ける内に、さらなる高みを目指してプレイテクを研鑽したり、つまらなかったことを反省したり、飽きて別のシステムやったりするものですし、それでいいんだと思います。


「面白い」「つまらない」という素朴な気持ちを自由に発することができ、また、互いにフォローしあえる環境を作るのが良いな、と思います。
その中にはプレイヤーの声と同時に、デザイナーの主張やアドバイスも含まれることは言うまでもありません。