TRPGの自由について物思う
引き続き、TRPGの「自由」について、である。
ここでは自由を以下の三つに分けて考えてみよう。
- 「権利」としての自由
- 「自由度」の総量
- 「意味のある手」の総量
たいていの場合、「自由=善」という前提で語られることが多い。逆に言うと、何かに対して「これは不自由だ」と言えば、たいていの場合、それだけで批判になる。
ただ、実際問題「自由=善」とは限らない。それについて、少し分析してみよう。
「権利」としての自由
よくある自由の使われ方は、「プレイヤーがやれること」の「権利」について、で、ある。
プレイヤーは、ゲーム中、やりたいことをする権利がある。では、どこまでその権利は認められるか?
もちろん、「他のプレイヤーの迷惑にならない範囲において」だ。
より積極的に言うなら、同じ卓についてゲームを遊ぶということを合意したところから始まるわけだから、自由というのは「皆で楽しむこと」について使うべきである、とも言えよう。
先ほど言った通り、「自由」という言葉には、良い印象がある。「権利」というのは、なるべく侵害すべきでない、という考えは、ある程度、共通のものだ。TRPGにおいて、明確に「君の主張する自由は公共の福祉を侵害している」と言い切れることは少ない。それには客観的な判断が必要だが、プレイスタイルの違い、巧拙の問題、人間関係etc、etcの中で、なかなかはっきり客観的な判断を下すことは難しいからだ。
逆に言うと、TRPGという遊びの中で、権利を主張する限りにおいては、我が儘なことでも通りやすいということだ。人間というのは自分に都合のいいように動きがちだから、このことに注意する必要がある。
TRPGにおける大きな自由は、同時に参加者に自分を律することを求めている、と、考えるべきだろう。
ま、要するに「これをするのは俺の自由だ!」と言うのは簡単だけど、それを言っちゃおしまいよ、ということ。
「自由度」の総量
こちらは、権利とか義務とかとは全然関係ない、どちらかというと数学的なお話である。
まず将棋で説明する。
「王」のコマは、8方向に1マスずつ動ける。この時、プレイヤーは最大8マスの中から1マス選んで動かせることができるわけだ。同様に「歩」なら前に1マス。こういう風に駒を動かせる場所の数を合計する。そうすると、ある局面で、打てる手の合計が単純計算で求められる。
こうやって打てる手の組み合わせの総数を「自由度」。それが多いものを指して、「自由度が高い」と言うことができる。
TRPGで言えば、ある状況でプレイヤーが選べる行動の範囲と、その総量、と、なるだろう。
さて、自由度の高いもの=善だろうか?
そうではない。
「やれること」と「やる意味のあること」は別だからだ。
将棋で言うなら、わざわざ自分から詰まれに行く手は打つ意味がないし、そもそも「理論上打つことのできる手」のほとんどは「わざわざ考えるまでもないダメな手」であろう。
TRPGでも、例えばシリアスなシーンの途中で、何の脈絡もなく「自分の鼻をつまんで息を止めて死ぬ」自由があって嬉しいだろうか?
それは「やれること」であっても「やる意味のあること」ではないのだ。
これは極端すぎる例だが、単純に「自由度の高さ=善」としていくと、確実に、破綻する。
「意味のある手」の総量
では「やる意味のあること」と「やる意味のないこと」の差は何だろうか?
様々な考えがあると思うが、ここでは一つの考えとして「全体の中での連続性」と定義してみる。
例えば麻雀というゲームがある。
他人の手があり、捨て牌の河があり、そして自分の打牌があるわけだ。河を見て、お互いの手を推測し、その上で自分の手を作りながら牌を打つところに面白さがある。
逆に、自分の手だけしか見てなかったり、そもそもルールがよくわからなくて、適当に牌を捨ててるだけの場合とかは、面白さが減るといえるだろう。
将棋で考えてほしい。例えば良い勝負では、一手ずつの積み重ねが常にあり、また、何気ない一手が、後で大きな意味をもって盤面に効いてくる。それぞれの手は、それまでに打たれた手、これから打つ手と、密接な関連を持っている、というわけだ。
TRPGでも、そういう面白さがある。プレイヤーの行動が、きちんと他のプレイヤーの行動と関連を持ち、また、セッション全体の流れに貢献するような場合だ。
逆に、それまでの流れを無視しまくりで、かといって新しい展開に貢献するわけでもない行動は……普通、あまり望ましくない*1。
まとめると、TRPGが面白くなるためには、「できることが多い」だけでは無意味で、「全体の流れに貢献する行動」の取れる範囲が大きい必要がある。
さて、では、そのためには、どういうルールやシステムが必要になるのだろう?
というところで次回へ
*1:TRPGの面白さというのは色々あるので、常にそうとは限らない。「鼻をつまんで窒息死」も、場合によってはウケが取れるかもしれないし、取れた場合を否定するものでもない