TRPGについてもの思う

http://www.rpgjapan.com/kagami/2007/10/post_99.html


TRPG日本の、鏡さんの一連のエントリを見て、物思うことを幾つか。

シナリオクラフトのコンセプトについて

まず、単純な誤解から。
http://www.rpgjapan.com/kagami/2007/10/post_100.html

さて、井上純弌氏は「自由なTRPG」を「何をやってもいい。やらなくてもいい。シナリオはおろか、ゲームマスターの準備もなにもなく、ただそこに街や平原があり、なにもないところにキャラクターが居るだけでいい」ものと説きました。

だが、シナリオクラフトでは、そうなっていないから自由ではない、というわけだが、これは引用が間違っている。井上氏は続けて次のように書いている。

昔々、「TRPGは自由な遊びである」と、言われた時代があった。
何をやってもいい。やらなくてもいい。シナリオはおろか、ゲームマスターの準備もなにもなく、ただそこに街や平原があり、なにもないところにキャラクターが居るだけでいい。
それが自由。それこそがTRPGである。
──残念ながら、現在そのようにTRPGを遊ぶ人間は、いないわけではないが、ごく少数。超マイナーな遊び方になってしまった。

つまり、「なにをやってもいい、やらなくてもいい」というプレイスタイルは、過去のものであり廃れた。

なにより、この遊び方が廃れてしまったところを見ると、皆が求めるTRPGは、そこになかったのだろう。

単に廃れたのではなくて、それが皆が求めるTRPGでないから廃れたというわけだ。
よって、井上氏のシナリオクラフトも、それをそのまま復活させたわけではない。

先の見えない黎明期、あこがれと共に夢想された“自由な”TRPG
それは、自由という気軽さ。何もないところに人だけが集い、何の準備もなしに始められる気軽さである。


この本はそういった、古き良きTRPGの理想を最新のTRPG技術で復活させたサプリメントである。

つまり、井上氏の言う自由は「すぐ集まってお手軽にできる」という部分なのであって、「何をやってもいい。やらなくてもいい」という自由は、シナリオクラフトでは保証していない。


鏡氏の指摘は正しいが、井上氏はそれを最初から理解しているというわけだ。


さてさてシナリオクラフトはともかく、TRPGにおける自由と、それがどうあるべきか、というのは、かなり面倒な問題だ。TRPGという遊びは自由の範囲が広く取れるからだ。


なので、ちょっと話をずらして「将棋」について考えてみよう。

将棋の自由

「将棋」における自由は、ルールの通りに駒を動かす自由である。飛車を斜めに動かすのは、基本、将棋の自由には含まれない。


あとまぁ厳密にルールに書いてあるかどうか知らないが(知っている人はご教授願いたい)「勝つために戦う」というのは大前提だろう。わかっていて、わざと負けるような手を打つことは推奨されていない。


まとめれば、将棋は「それぞれが勝とうとする前提で、かつ、将棋のルールに従った駒運び」という制限の中で、その制限の中で本当に様々に工夫する余地があるから面白い、と、言えるだろう。


重要なのは、「自由度が高い」のと面白いのとは必ずしも一致しない、ということだ。
将棋と囲碁でどちらが面白いかは人それぞれだろうが、「囲碁のほうが打てる手筋が多いから面白い」というものではないだろう。

再び、TRPGの自由

TRPGにおける自由も、将棋の自由と、ある意味では同じである。
つまり、「ゲームを面白くするために自由がある」ということだ。つまらないゲームをする自由があってもしょうがない。


将棋では「勝つ」という目的を、対戦者が持つところから全てが始まる。「勝つ」という前提がない限り、全部のルールは意味を持たない。つまり「目的の共有」だ。


さて、TRPGと将棋で違うのは、TRPGの目的は多岐に渡ることがあるということだ。
将棋では片方が露骨に勝負を放棄した遊び方をしたら、ほぼ確実に、つまらないゲームになる。
だが、TRPGでは、例えば、ダンジョンに潜る予定の話が、いつのまにか依頼主の娘とデートする話になって、それで面白くて満足、ということもあるし、それはそれでTRPGの醍醐味の一つと言えなくもない。


ただ、「目的が共有」されていなければ、つまらなくなるのは、TRPGでも同じだ。


例えば、プレイヤーの一人が自分だけ楽しい行動をして、他のプレイヤーやGMを無視した場合は、つまらないセッションになるだろう。GMが自分だけ面白い行動(ひとりよがりなセッション)をしても同じだ。
プレイヤーの一人が他を無視して「俺ダンジョン潜るのや。女でも口説くよ」と言い出したら、それは自由でもナンでもない我が儘だ。


「皆でダンジョンに潜る」という目的が、GM、PLで一致した時、面白いセッションになる。
シナリオの展開で「依頼主の娘とデートする」となった場合でも、面白いセッションの時は、GMとプレイヤー全員が、そこに至る展開を「良し」と思っている。


TRPGが皆で遊ぶゲームである以上、「目的の共有」を前提としない行動は、我が儘であって、そうした自由を認める必要はない。

卓をひっくり返す自由

私の考える「自由」は、「何をやってもよい」とほぼ同義です。おそらく私の説明が不足しているのは、「何」の部分に入るものは「行動」であって、「結果」ではない、ということでしょう。つまりは「どのような行動をやってもよい」ということであって、「結果」は誰の「自由」にもなりません。

鏡氏が、ここであげている自由は、将棋で「王を丸裸にする手を打つ自由」を含んでしまう。
ルールに従う限り「何をやってもよい」というのは、「相手のことを考えずに興ざめな行動をする」自由を保障してしまうからだ。


もちろん「前提」として、将棋は、ルールに従う限り、どんな手を打っても良い。ダメそうな手を否定していたら新たな発見は生まれないし、極限の勝負をしているプレイヤーが、頓死してしまうこともあるから面白い。「ダメな手を打つな」というのは、マナーであっても直接のルールではない。


鏡氏の言ってるのは、そういうレベルの話で、単に周りのプレイヤーを不快にする行動の自由を推奨しようというわけではないと思う。


では、なぜ、その自由が必要なのだろうか?
TRPGにおいては、人間が行動し、人間がルールを処理するので、定型処理におさまらない柔軟な対応ができる。ここが、普通のボードゲームと良くも悪くも違うところである。
TRPGの利点を生かすなら、人間ならではの、ルールを越えた発想や展開を生かすことこそがTRPGの面白さではないか。


鏡氏が、「管理」と「自由」を対比させるのは、おそらくは、そういう意図だろう。
TRPGの潜在力を最大限に出すためには、卓を破壊しかねない行動も含め、最大限の自由を可能性として認める必要がある。


……果たして本当にそうだろうか?

自由を裏打ちするもの

将棋というゲームがある。
これは駒の動かし方が一つずつ細かく決まっている。動かせる範囲も厳密に9×9の中だ。
「100×100にしたほうがあちこち動かせて面白いじゃん」
「金とか銀とか1マスしか動けないのタルいから、1〜5マスずつ動けるようにしたらよくね?」
実験してみるまでもなく、こういう風にルールを改変した場合、「駒を動かせる範囲」は広がるだろうが、大変に大味なゲームになって、「面白い棋譜」の範囲は少なくなり、頭を使う必要も減るだろう。


将棋の面白さ、奥深さ、展開の広さは、細かな制限の微妙なバランスによって成り立っているというわけだ。


これはTRPGでも同じことがいえる。
「なんでもやってよい」「なにしてもいい」というのは、「100×100の将棋盤」みたいなものだ。それだけでは何も面白くならない。


セッションを規定するルール……例えばPC1やらハンドアウトやらについて、鏡氏のように「行動を束縛する面」だけに注目する人がいるが、これは正しくない。適度な制限は、考える材料となり、豊富な展開を生み出す素となるのだ。

昔のゲーム

余談になるが、井上氏が言っていた昔のゲームスタイル、「何をやってもいい、やらなくてもいい」というスタイルだが、うまくいってる卓では、同じように、「適度な制限」が多数存在していた。


いわゆる生活感のあるTRPGというやつだ。


現実世界で、「普通に生きよう」とするだけで、様々な問題に取り組まなければいけないのと同じように、背景世界が充実したゲームでは、普通に暮らそうとすることに、様々な障害やモチベーションや思考材料が与えられている。そうした材料をうまく利用することで、面白いセッションができたというわけだ。


セッションを成立させるためには、方向性に関する適度な束縛と示唆が必要だ。
それを世界観と基本システムで行う場合もあれば、セッション運営に特化したルールを作ることもある、というわけだ。

管理と自由?

さて、まとめてみよう。


まず、TRPGにおいては、GM、PL共に「楽しいセッションを共有する」という前提があってはじめて、自由が成り立つ。
次に、セッションの方向性について、GM、デザイナー、システムからのサジェスチョンは、必ずしも多様性を損なう方向には働かない。多様性を産むには、適度な束縛が欠かせないからである。


ここにおいて、鏡氏の言う「管理」と「自由」は地続きである。


あるTRPGシステムがあって、そのTRPGシステムは、特定の方向に特化している。ひらたくいうと、「こういう遊びかたをすると面白いよ」という風に作られている。
あるTRPGシナリオがあって、そのTRPGシナリオは、特定の方向に特化している。ひらたくいうと、「こういう風に遊ぶと面白いよ」という風に作られている。


逆に言えば、そのシステムに向いてない遊び方をした場合、つまらなくなる可能性が高い。
そのシナリオで考慮してない行動をした場合、つまらなくなる可能性が高い。


であるなら、その制限を受け入れた上で、その中で、どういう展開が面白くなるかの「自由」を追求するのが、普通に面白く遊ぶ道だろう。
これらを利用することを「管理」と呼ぶなら、TRPGを遊ぶことは常に管理である。
これらを無視することを「自由」と呼ぶなら、それは「ゲームをつまらなく遊ぶ」方法である。


もちろん、システムやGMの縛りがガチガチすぎたり押しつけが強すぎたりして、つまらないゲームもあるだろう。ただし、逆に縛りがなさすぎれば、それはそれでつまらなくなる、ということを忘れてはいけない。