仮象論のパラドックスを読んで

http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080915/1221483369
正直、わかりにくい。
何かを理解するには自分で説明するのが一番なので、xenothが理解できた範囲で書き直してみる。
意見歓迎。

システムと実在

TRPGというゲームは、皆で、仮想の世界を作り出す遊びです。


この時、誤解されることがありますが、ゲームシステムやデータというのは、実は、直接、仮想世界の実在を決めているものではありません。
例えば「ヒットポイント」というのはシステムであって、実際に仮想世界の中にヒットポイントというものが実在しているわけではない、というのは、おわかりでしょう。


「ヒットポイント」というルール、システムは、例えば「戦闘で、互いの活力を奪い合う」というシチュエーションを作り出すためにあります。
具体的に、そのシチュエーションが、どのような仮想世界の現実となるかは、GMとプレイヤーが卓を囲んでプレイした時に決まっていきます。
「Aのヒットポイントが減った」「増えた」というルールシステム上の動きは、「Aはゴブリンの一撃を食らって肩から血を流したがまだ元気だ」「Bが癒しの呪文をかけるとAの傷がみるみるふさがった」というように描写、解釈されていくわけです。


「ヒットポイント」が実在しないというのはわかりやすい例ですが、「ロングソード」だって、NPCだって、ある意味では実在しません。データに書かれたNPCは、やはりデータでしかないのです。
それを卓上に登場させる時、ゲームマスターが解釈して登場させ、プレイヤーとのやりとりの中で、個性が生まれます。
仮に、「ルールブックに書かれたNPC」が仮想世界の実在物だとするなら、誰のどの卓にいっても、そのNPCは同じ反応、同じ行動をすることになりますが、そうじゃないのは当たり前ですよね。


このようにTRPGというのはシステムデザイナーがいて、GMがいて、プレイヤーがいて、それぞれのやりとりの中で「意味」が生まれてくる、「意味」を作り出す遊びです。


そりゃそうだろ、と、言われそうですが、これは、「遊び」や「架空世界」全体を考える上で、大きな意味を示唆します。

遊びと現実

さて「遊び」という言葉は、「本物ではない」「偽物」的なニュアンスがあります。
TRPGがよく言われる「ごっこ遊び」というのは、その最たるものですね。「本物」があって、その「ごっこ」に過ぎない、というわけです。


実際、過去の遊びを研究した人の中でも、「遊びは、現実の仕事の真似や準備」である、という人がいます。おままごとを通じて、女の子は主婦になる準備をしている、というわけです。他にも「聖なる儀式の堕落」「現実からの逃避」等々、「本物」があって、それと「劣った形で対応する虚構」が「遊び」である、と言う学説があります。


それは違うんじゃないか?
と言っているのが、西村清和氏です。


遊びは、もちろん、現実から離れて存在はしないけど、でも、現実の一方的な劣化コピーではないはずだ。
遊びは(この世のあらゆることと同じく)現実の影響を受けつつも、それ自体が独立した存在ではないだろうか。


長い論を2行でまとめてるので正確かどうかは保証しませんが、これなんかは、TRPGで遊んでいる我々にとってはピンと来る意見ではないでしょうか。

再びTRPG

さっきの「システムと実在」を見直してみましょう。


TRPGは仮想の世界の中で遊ぶゲームです。
この時、最初に「一個の仮想世界」があって、それをシステムデザイナーがルールで表現した、と考える見方があります。
また、システムデザイナーが神として「仮想世界」を作り上げ、GMやPLがその中で遊ぶ、と、いう見方もあります。
どちらも、一個の理想の仮想世界が実在し、GM、プレイヤーが、その「劣化コピー」を作っている、という見方ですね。


でも、実はそうではない。
ルール、システム、設定というのは、ある種の枠組み、誘導に過ぎず、そこに、GMやプレイヤーが自分の考えで、「意味」や「描写」を結びつけてゆく。そうした皆の営みの中に、仮想世界が「立ち現れる」。
それがTRPGなのです。


システムデザイナーは神ではない。世界設定もルールも聖典ではない。かといってGMが絶対なわけでもプレイヤーが万能なわけでもない。
皆が皆、自分でアイディアを出し合って、一個の流れを作ったり流れに流されたりして遊ぶ。


西村氏の考える「遊び」と「現実」の関係は、このようにTRPGにおける「卓」と「システムデザイナー」あるいは「卓」と「仮想世界」の関係と対応していると言えるでしょう。

今後について

現実と遊びは対立しているわけでもなく、かといって従属しているわけでもない。
TRPGも、「ルール/設定/デザイナー」と「卓の現実」は対立しているわけでも従属しているわけでもない。
ここはTRPGを評価する上でも、また、「遊び」や「虚構」に我々がなぜ魅かれるかを考える上でも重要な点だと思います。


イマジナリーボードという概念を進めるにあたっても、このように「システムの導くシチュエーション」がプレイヤーとどう化学反応として、「卓の上で現実化」されるのかを整理、分析していくことで面白くなると考えます。